五木寛之の作家交遊「新・地図のない旅」から(2025年6月2~6日)

*** 今週の教養講座(五木寛之の作家交遊①)

作家の五木寛之さんは現在92歳。地方紙に連載されたコラムをまとめた「新・地図のない旅」(平凡社、2023)から、先輩作家との交遊を書いた5編を紹介する。本人は「雑文」というが、深い観察と繊細な描写、力の抜け方が独特だ。

◎井伏鱒二さんの葉書  大学時代のロシア語の先生は、横田瑞穂さんだった。痩せた小柄な方で、大学教授というより村の小学校の先生のような風貌だった。1950年代初めの頃である。学生も貧しかったが、先生も貧しかった。片道15円のバス代が払えず、学生に混じって駅から大学まで歩いて通っておられたのを見かけたことがある。授業中に一休みされるのが常だった。タバコを半分にちぎって、煙管に詰めて火をつける。それを大事そうに最後まで吸われる。当時の大学の給料では、1本のタバコさえ節約する必要があったのだろう。

横田さんは、アルバイトにかまけて授業をサボりがちで私に、いつも気を使ってくださった。「ちゃんと食ってるかね」と。小声で声をかけたりする。お互い生きて行くのは大変だよな、という感じの口調だった。私が作家としてデビューした時に、誰よりも喜んでおられたのが横田さんだった。駆け出しの私に井伏鱒二さんを紹介してくださったのも横田さんだった。若い頃からの友人とあって、井伏さんは横田さんのことをとても大事にされていたようだ。おかげで私までいろいろと気にかけて下さったことは忘れられない思い出である。

井伏鱒二さんは、文壇の人たちに非常に尊敬されていた。井伏さんを慕う若い作家たちもたくさんいた。その反面、「井伏さんは怖い」という評判があった。弟子たちの中には、厳しく叱責されたり、出入り禁止になったりした人もいる、という話も聞いた。私が井伏さん恐ろしいと感じなかったのは、横田さんの弟子という立場だったからかもしれない。

新宿の「くろがね」という店では、何度かごちそうになったし、雑誌で対談させていただいたこともある。やがて私がしばらく仕事を休んで、京都に起こすことにしたとき、井伏さんから一通の葉書をいただいた。その文中に「京都は◯が悪いから気をつけるように」という1行があった。どういうわけか、その一字のインクがにじんで、どうしても読めないのである。

自慢半分に、いろんな人に読めない◯の部分を推理してもらった。新聞社の記者や出版社の編集者などである。答えはさまざまだった。「水、じゃないかな」という人もおり、「女、だろう」という人もいた。しかし結局のところ、納得のいく答えは見つからなかった。今でもその謎が解けない。古い葉書を眺めながら、過ぎし日を思いつつ夜がふけてゆく。

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*** 今週の教養講座(五木寛之の作家交遊②)

◎井上ひさしさんと靴下   故・井上ひさしさんとは、直木賞の選考会の帰りに、よく2人でコーヒーを飲んだ。文学賞の選考会は、はたで思うほど気楽ではない。候補となった作家の将来を左右する可能性もあるのだ。緊張するし、終わった後の徒労感も大きい。終わって先に座を立つのは井上さんだった。どうやら下戸なのだろうと思っていた。なんとなく自然に会場出るのが一緒になる。

「どこかでコーヒーでも飲もうか」と、どちらからともなく誘い合って馴染みの喫茶店に出かけた。当世風のカフェではなく、古風な珈琲店である。「タバコ吸っていいですか」と、井上さんが遠慮がちに聞く。「どうぞ、どうぞ、僕は副流煙が好物でね」「え、嘘でしょ」「いや、本当。若い頃はタバコ吸っていたから、人の煙を吸うと懐かしくて」。やがて運ばれてきたコーヒーを飲みながら、たあいのない雑談が始まる。「五木さんはロック座派ですか、それともフランス座のほう?」「僕は池袋のフランス座だ」などと劇場の思い出話から、話題は当日の選考会の結果に移るのが常だった。

「正直言って、僕は今回の選考結果には今一つ釈然としないところもあるんだけど」と井上さん。「でも、多勢に無勢だしなあ」「そういう顔してたよね」「でも――」と、井上さんは体を乗り出して、惜しくも受賞を逸した作品について滔々と語り始めるのだ。井上さんは舞台もやる人なので、作品に対しては徹底的に理詰めで批評する。私は直感型なので、井上さんの分析を聞いて目からウロコの刺激を受けることが多かった。

直木賞の選考会は1年に2回ある。芥川賞、直木賞とも年に1回でいいのではという意見もないではない。しかし私にとっては同業の作家たちと議論をしたり、未知の新人の作品に触れたりできる得難い機会だった。たぶん、2人が重なって選者を務めたのは27年間ほどの歳月ではあるまいか。

最後に井上さんと会った時、どこが少し疲れたような顔をしていた。別れ際にふと立ち止まって、こんなことを言った。「五木さんは、片脚で立って靴下をはけますか?」「え、どういうこと」「僕、最近、どうしても片脚立ちで靴下がはけないんだよね」。それに対して私がどう返事したか覚えていない。だが、いつも座って靴下をはくたびにそのときのことを思い出すのだ。

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*** 今週の教養講座(五木寛之の作家交遊③)

◎遠藤周作さんの忠告  「きみ、風呂には入るか」。突然、私に指をつきつけてたずねたのは遠藤周作さんだった。いうまでもなく「沈黙」など、キリシタン弾圧の歴史小説の名作を書かれた有名作家である。ご本人も独特なカトリック信徒でいらした。洗礼名をパウロという。遠藤さんには狐狸庵というもう一つの筆名があった。もっぱら戯文・雑文を書かれる時の仮の名である。突飛なイタズラがお好きで、様々なゴシップの種を振りまいたトリック・スターでもあった。独特な、というのはそういう意味だ。

そんな遠藤さんからの不意うちの質問であるから、こちらも緊張する。「えーと、風呂に入りますけど。それが何か」「体を洗うかね」「はい。一応」「ない、体を洗う? そりゃあ大変だ!」「体を洗ってはいけないんでしょうか」「いかん、いかん、絶対にいかん!」。よく意味がわからない。あわててつけ加えた。「洗うといっても、石鹸を使ったりはしません。湯の中でなんとなく手でこするくらいで」「そうか。それで安心した」と、遠藤さんは胸をなでおろすしぐさをした。

ある日、偶然にどこかのレストランで出会った時のことである。「どうして風呂で体を洗ってはいけないんでしょうか」とおそるおそるたずねると、急に深刻な表情になって、「実は、告白することがある」。カトリックの作家に告白と言われれば、私もさらに緊張する。遠藤さんは私の肩を抱いて、「これは秘密だからな」とささやくような声で言った。私も無言でうなずく。

「先日、縁日で生きたウナギを買ってきたんだ。あの黒くてニュルニュルしたやつ」「はあ」「洗面器に入れて、体を洗ってやったんだよ。きれいに体を拭いてやって、ひと晩置いたら、翌朝――」「どうしました」「死んでいた」。目を閉じてうなだれると、一瞬おいて、「つまり生物はむやみに体を洗ってはいけない。垢もあぶらも洗い流してしまうと大変なことになる。覚えておきたまえ。風呂で体を洗っちゃいかんよ、イツキくん」。

あの時の遠藤さんの深刻そうな表情を思い出すと、今も笑いがこみ上げてくるのだ。重い作品を書いたパウロ・遠藤さんは、そんな罪のないイタズラで心のバランスをとっていたのではあるまいか。私は今でも風呂で体を洗わない。べつに遠藤さんの言葉にこだわっているわけではないのだが。

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*** 今週の教養講座(五木寛之の作家交遊④)

◎若山富三郎という人  「勝新太郎と若山富三郎とではどちらが好きですか」と聞かれたことがある。「どっちもいい役者だよね。両方とも好きだな」と答えたら、「ずるい。どちらかに決めてください」と、後へは引かない。「個人的に記憶に残っているのは、若山富三郎さんの方かな」「え?個人的にって、お知り合いなんですか」「一度だけ会ったことがあるんだよ。そのことがひどく印象に残っているもんだから」「ひどく、なんて言わないでください。すごくでしょ? 最近の作家は言葉遣いがひどい」「失礼しました。すごく印象に残っていることがあってね」。

あれはいつごろのことだろうか。私の原作の映画化に彼が出演してくれたとき、ロケ先に雑誌の取材で会いに行ったことがあった。ちょうど撮影の休憩時間だったのだろうか、若山氏は衣装をつけたまま。木の椅子に腰をおろして腕組みをし、目をつぶって何かを考えている様子だった。私が挨拶をすると、無言のまま丁重に頭を下げ、そばに控えている付き人に分厚い声でこういった。

「先生にまんじゅうをお出ししなさい」。私は一瞬、何のことだかわからずに首をかしげた。なんといっても豪快な大スターである。いきなりウイスキーでも出されても不思議ではない。すすめられた椅子に腰をおろしたところへ付き人がお盆をささげてやってきた。皿の上には確かにまんじゅうがのっていた。「どうぞ」と若山さんは真面目な顔で言った。ハッタリもケレン味もない実直な口調だった。その日どんな会話をしたのかはほとんど覚えてない。ただ、「先生にまんじゅうを――」と付き人に命じた厚みのある声だけが耳に残っている。

若山さんが甘党であることを後で知った。そのことを知らなかったので、私は一瞬あっけにとられたものだった。若山富三郎という名前を聞いて、一升瓶を抱えてゴクゴクと飲み干すようなキャラクターを連想する人も少なくないことだろう。私も恥ずかしながらその1人だった。人を先入観で見てはいけない、とは、いつも思うことである。しかし、この歳になっても後で後悔するばかりだ。若山富三郎さんの名前を聞くと、必ずその時のことを思い出すのである。

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*** 今週の教養講座(五木寛之の作家交遊⑤)

◎菊池俊輔さんのこと  昭和のメロディーが終わった、と感じたのは、作曲家の菊池俊輔さんの訃報を聞いた時だった。先に筒美京平さんが去り、菊池俊輔さんが逝き、小林亜星さんも亡くなった。ひとつの懐かしい時代が音もなく幕を下ろしたような気がした。

菊池さんとご縁ができたのは40数年も昔のことである。「海峡物語」という私の原作のテレビドラマの挿入歌の作曲をお願いしたのだ。寺山修司や長部日出雄など、津軽に縁のあるアーチストは、それぞれヒトクセある個性的な人物が多い。だから弘前出身の菊池さんに初めてお会いする時は少し緊張した。しかし、菊池さんは強烈な個性を表に表すというより、相手の姿勢に応じて受け止める柔軟さを感じさせるスケールの大きな音楽家だった。

そのとき私は立原岬という筆名で詞を書いていた。その歌の作曲を菊池さんにお願いしたのだ。思い切り古風な演歌調の「旅の終わりに」という挿入歌だった。歌謡曲は1番と3番が歌われることが多い。2番は省略されるのが定番である。しかし、私はなぜか2番目の歌詞が好きだった。作詞家の思いがそこに込められているような気がするからである。「旅の終わりに」というその歌も、2番はほとんど歌われたことがない。私がその歌詞を見せたとき、菊池さんは「僕はこの、2番目の歌詞が好きです」と、言ってくれたのだ。この人は信用できる、と私は思った。それは、こんな歌詞だった。

春にそむいて 世間にすねて ひとり行くのも 男のこころ 誰にわかってほしくはないが なぜかさみしい 秋もある

まるきりベタな演歌であるが、菊池さんは笑わずに本気で曲を書いてくれた。私には一つだけ注文があった。歌い出しの最初の音を、全体のいちばん低い音にしてほしい、という変な注文だった。ようやくカラオケが普及し始めた頃で、アカペラで歌う人も少なくなかった時代だったからである。最初の音が決まっていると、それより低い音は必要ないので素人にも歌うのがとても楽なのだ。

「変わった注文ですね」と、菊池さんは首をかしげていたが、出来上がった曲は、ちゃんとそうなっていた。冠二郎という当時は無名の新人歌手が歌ったが、「2番が好きだ」という人が多かった。その後も、いろんな歌手がカバーしていて、私は藤圭子が歌った「旅の終わりに」はとても気に入っている。その古い演歌を聞くたびに、菊池さんのことを思い出す。