非戦・反戦の系譜 国内編(2025年8月4~8日)

*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 国内編①)
反戦・非戦を唱えた人は、日本にもたくさんいる。思想家、政治家、言論人、文学者、編集者ら生き方は様々だ。スタイルも幅広く、積極的に非戦を訴える人もいれば、静かに祈ったり、日常の暮らしに根ざして考えたりした人もいた。根底に流れているのは、人間同士が殺し合うことのむなしさであり、穏やかな暮らしの大切さである。先週の海外編に続いて国内編を特集する。
内村鑑三──信仰と良心に生きた非戦の思想家 内村鑑三(1861–1930)は、明治期の日本でキリスト教信仰を柱に生き、国家的熱狂の時代に「非戦」を唱えた思想家である。その生き方と信念は、後の戦争抵抗者や平和主義者に深い影響を与えた。
札幌農学校でクラーク博士からキリスト教の精神を学んだ内村は、神と祖国のはざまで悩みながら、「無教会主義」という独自の信仰実践にたどりついた。教会という制度ではなく、個人の内なる良心と神との直接的な関係を重視するこの立場は、やがて彼の非戦思想に結びついていく。日清・日露戦争を経て、日本は帝国主義的拡張を進めていた。戦勝に沸く国内世論のなか、内村はあえて逆風の中へ足を踏み出した。1901年に発表した『非戦論』において、彼は明確に述べる。「たとえ国家の命令であっても、人を殺すことは神の掟に背く行為である」。この信念は、戦争の正義を叫ぶ当時の社会にとっては、許されざる「非国民的」言説だった。
日露戦争が始まると、彼の反戦姿勢はさらに明確になる。「この戦争は勝ってはならぬ戦争だ」とまで語った内村に対し、激しい批判が寄せられ、雑誌は廃刊、講演も中止となった。だが、彼は沈黙しなかった。戦争が正当化されるときこそ、個人が自らの道徳的判断を貫くことが、真の愛国であると彼は信じていた。
内村の非戦思想は、単なる理想論ではなく、キリスト教的信仰と倫理に根ざした実践的な思想だった。それは後に、思想家・教育者としての彼の影響を受けた人々へと受け継がれていく。たとえば、無教会派を継承した矢内原忠雄は戦時中に大学教授職を辞し、戦争協力を拒んだ。また、社会思想家の賀川豊彦や平和運動に参加した市川房枝らも、内村の信念と姿勢に学び、戦後日本の平和思想の源流を築いた。
内村の非戦論は、日本国憲法第9条の精神とも深く響き合う。国家の暴力を否定し、平和を国是とするこの条文に、内村のような個人の良心に基づく反戦の思想が、戦後日本の土壌として確かに根づいていた。彼の名は、今も無教会主義の文脈で語られることが多いが、その実像はより広く、信仰と道徳に根ざした良心的反戦の実践者であった。時代に逆らい、孤独に耐えながらも、真実と信念を守り続けた内村鑑三の生涯は、現代においてもなお、戦争と平和、国家と個人の関係を問う重要な指針となり続けている。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 国内②)
宮沢賢治──沈黙のうちに祈り続けた非戦の詩人 宮沢賢治(1896–1933)は、詩人・童話作家として知られるが、その作品世界の奥には、戦争を否定し、暴力を拒む深い倫理的精神が流れている。彼は「反戦」を叫んだわけではない。だが、その沈黙と祈りの文学は、誰よりも静かに、確かに「非戦」を語っていた。
岩手の農家に生まれ、自然と貧困に囲まれた少年時代を過ごした賢治は、やがて法華経に導かれ、自己犠牲と慈悲の精神を深く身に刻んでいく。「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」――この言葉に象徴されるように、彼の理想は極めて高く、具体的であった。戦争に関して直接の言及は少ない。だが、詩や童話に表れる生きとし生けるものへの共感と連帯のまなざしは、戦争や暴力の否定に通じている。たとえば『グスコーブドリの伝記』では、飢饉の中で人々を救うために命を差し出す主人公の姿を描き、個人の献身と他者への思いやりを強調する。
詩「永訣の朝」や「雨ニモマケズ」には、痛みを抱えながらも他者の苦しみに寄り添い、争いを拒む人物像が浮かび上がる。彼が理想とした人間像は、弱さに寄り添い、怒らず、何ものも憎まず、「みんなにデクノボーとよばれ」ても、耐えて生きる者であった。
昭和に入り、国家は次第に戦時体制へと向かう。天皇制と軍国主義が強化され、国民には忠誠と献身が求められる時代。賢治は国家への奉仕ではなく、無名の民のために生きること、争いではなく共感と祈りによって結ばれる社会を夢見た。彼の作品は、国家や戦争に直接楯突くものではなかったが、それゆえに、より普遍的な非戦の精神を体現している。その生涯は短く、病と貧困に苦しみながら、37年で幕を閉じた。だが戦後、彼の文学は改めて注目され、特に反戦・平和を希求する人々にとっては、静かなる抵抗の象徴として読み直されていった。
1960年代、ベトナム戦争や安保闘争の中で、若い詩人や市民運動家たちは、賢治の詩を手にして語り合った。「雨ニモマケズ」の一節は、横断幕や集会のスローガンとして掲げられた。宮沢賢治は、詩と祈りによって非戦を貫いた詩人として、新たな世代にも受け継がれていった。深い内省と共感に根ざした「沈黙の抵抗」であった。その姿勢は、今も戦争の時代にあって、人が何を信じ、どのように生きるべきかを静かに問いかけている。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 国内③)
石橋湛山──自由と信仰から導かれた非戦の信念 石橋湛山(1884–1973)は、戦前から戦後にかけて活躍したジャーナリストであり政治家、そして数カ月だけ首相の座に就いた人物である。軍国主義が支配的だった時代にあって、彼は一貫して戦争と領土拡張に反対し、自由と平和を説いた。その思想の根底には、経済的合理主義とともに、若き日に傾倒した日蓮宗の信仰が深く関わっていた。
石橋は山梨県に生まれ、早稲田大学に学んだ後、東洋経済新報社に入社。記者としての鋭い経済分析力を発揮し、同誌の主筆となる。1920年代にはすでに「小日本主義」を唱え始めていた。帝国主義的な膨張政策を否定し、朝鮮・台湾・満州などの植民地の放棄さえ主張する。当時としては極めてラディカルな反戦・反拡張の論であった。この主張を支えたのは、単なる経済合理性だけではなかった。
石橋の父は、日蓮宗の高僧で強く影響を受けている。とりわけ、日蓮の「立正安国(正しい信仰が国を安んずる)」という思想に共鳴した。彼にとって仏教とは、形式や祈祷ではなく、人間の内面の自由と社会の公正に結びつく実践哲学だった。日蓮は、時の権力に迎合せず、国家の過ちを改めるように進言し続けた宗教者である。石橋はこの精神を継承し、「言論の力によって国家を誤らせぬ」ことを自身の使命と考えた。満州事変以降の日本の軍事行動を「道義に反する侵略」と批判し、言論の自由が次々に抑圧される中でも「東洋経済」誌上で警鐘を鳴らし続けた。
戦時中は執筆活動が厳しく制限されたが、それでも沈黙せず、あくまで平和と理性の声を守った。戦後、衆議院議員に当選し、吉田茂のあとを継いで1956年に首相となる。しかし在任はわずか2カ月で、病に倒れて政権を退いた。戦前から一貫して「反軍・反拡張」を主張し続けた稀有な政治家として評価は高い。
石橋の非戦思想は、戦後日本が掲げた平和主義と経済復興政策の原型をなす。大国主義に惑わされず、自由と信念に従って国を導くという理想。そこには、仏教者・日蓮から受け継いだ「為政者は民のためにあれ」という倫理観が根づいていた。石橋の反戦は、宗教的情熱と経済的知性が結びついた稀有な思想である。彼は、戦争の時代に「自由」を語ることの危険と重みを知りながら、あえてその道を選んだ。言論で権力に抗し、信仰で心の自由を守り抜いた。その静かな勇気は、現代においてもなお、自由な社会の土台となり続けている。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 国内④)
大江健三郎──戦後日本に「言葉の武器」を持ち込んだ作家 大江健三郎(1935–2023)は、戦後日本文学を代表する作家であり、同時に、反戦・非核・平和の思想を貫いた知識人でもあった。小説という静かな形式を通じて、彼は時に日本社会に正面から挑み、時に深い内省を促した。彼の非戦思想は、叫びではなく、問いかけとして響いた。
愛媛県の山村に生まれ、終戦を10歳で迎えた大江は、少年時代から「国家」という巨大な存在と、それに翻弄される個人との関係に強い違和感を抱く。敗戦と占領、天皇制と原爆、それらは彼にとって単なる歴史ではなく、生涯にわたって向き合い続ける「宿題」となった。東大在学中に文壇デビューし、若くして頭角を現した。早くから「戦後」という時代における人間の責任を問う作家として注目される。1960年代、安保闘争やベトナム戦争に対して明確に反対を表明し、以降も核兵器、天皇制、戦争責任の問題について、国内外で発言を重ねた。
非戦思想の根幹にあったのは、「記憶」と「責任」というキーワードである。戦争体験を語り継ぐこと、被害だけでなく加害の側面も見つめること、それを文学と言葉で行うことこそが、自分の使命であると考えていた。彼の文学の中心には、つねに「他者」がいた。障害を持つ長男・光さんとの生活を描いた作品群は、人間の尊厳と対話の可能性を掘り下げると同時に、「異なる存在」とどう共に生きるかという現代的課題を静かに突きつける。そこには、力ではなく言葉、支配ではなく共感という、非戦の倫理が流れている。
1994年、ノーベル文学賞を受賞した際、こう語った。「私は、個人の倫理と国家の倫理が衝突する時、個人の倫理に従いたいと考えてきた」。この言葉には、内村鑑三にも通じるような、国家よりも人間の良心を上位に置く信念がにじんでいる。さらに広島・長崎の被爆者たちと向き合い続けた作家でもある。「ヒロシマ・ノート」「沖縄ノート」などのノンフィクションでは、戦争と国家による暴力が、どれほど個人の生活と魂を傷つけるかを徹底して書いた。こうした活動を通じて、彼は日本国内のみならず、世界の反核・反戦運動にとっての象徴的存在となった。
一方で、大江の非戦思想は一貫して「言葉」への信頼に支えられていた。暴力に屈せず、沈黙せず、言葉によって人間の尊厳を守る。その姿勢は、戦後民主主義が揺らぐ現代においても、あらためて重い意味を持つ。大江健三郎は、戦争を知らない世代の中で、「戦争を語ること」「平和を語ること」の責任を引き受けた作家であった。国家が再び力を誇示しようとするとき、彼の言葉は問いとして、私たちの内側に残り続けている。
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*** 今週の教養講座(非戦・反戦の系譜 国内⑤)
花森安治──戦争を憎み、「暮し」で平和を守ろうとした男 花森安治(1911–1978)は、戦後日本の雑誌『暮しの手帖』を創刊・編集した人物である。彼は一見、戦争や政治とは無縁の「生活誌」を作った編集者に見える。だが、その筆と視線の奥底には、戦争体験への深い悔恨と、徹底した非戦の信念が宿っていた。
若き日の花森は、軍国主義が日本を覆い尽くしていく時代に、国の戦意高揚を担う広告や宣伝の仕事に関わっていた。彼は言葉とデザインの力を知り、その力が人々をどれほど容易に戦争へと駆り立てるかも知っていた。そして戦後、その過去に対して深い自責の念を抱くようになる。
反省の上に立ち、彼が1948年に創刊したのが「暮しの手帖」だ。題名に「戦後」や「平和」はない。けれどもすべてのページには、「もう二度と戦争の時代をつくらせてはならない」という静かで強い意志が込められている。花森は「美しい暮し」を説いたのではない。だまされない暮し、誇りをもって生きる暮し、そして暴力や権力に屈しない暮しを説いた。広告を一切載せず、企業からの圧力を断ち切った編集方針は、消費者ではなく「生活者」の視点を守るためだった。そしてその視点こそが、花森にとっての「反戦の砦」だった。
彼の編集方針の根底にあったのは、「戦争は、国家だけが起こすのではない。私たちの暮しのなかに、その芽がある」という洞察である。粗末な食卓、モノを粗末にする心、政治に無関心であること――そうした日常の中にこそ、戦争の温床が潜んでいると考えた。戦争を止めるには、まず生活を変えること。生活の中に、真の自由と自立を取り戻すこと。それが彼の反戦だった。誌面では、「商品テスト」「戦争中の生活回顧」「主婦の権利」「原発への懸念」など、単なる暮らしの知恵にとどまらない、時に体制批判ともなる鋭い企画が繰り返された。暮らしとは、台所と寝室の話ではない。暮らしは、社会への態度であり、戦争への拒否である――その信念が、一つひとつの特集に息づいていた。
晩年、花森は1冊のエッセーを遺す。「一銭五厘の旗」。一銭五厘は戦時中のはがき代で、召集令状を指す。国家が一度「戦争モード」になったとき、個人がいかに無力であるかを静かに突きつける。花森の非戦は、声高な主張ではない。旗もデモもない。けれど、戦争の芽を摘むには、「暮し」から始めるしかないという確かな信念に貫かれていた。生活こそが平和を守る最前線――それを教えたのが、花森だった。
