夏目漱石の「私の個人主義」(2026年2月16~20日)

*** 今週の教養講座(夏目漱石「私の個人主義」①)

夏目漱石が1914(大正3)年11月、「私の個人主義」と題して学習院で講演しましたが、今週は「漱石流の個人主義」を考えます。漱石は近代的自我のあり方を追究した文豪。伝統的な社会から解放された「自己本位」を訴え、西洋化する文明開化期に日本人の生き方を模索しました。この講演はその核心を端的に語っています。時代背景は違いますが、世界秩序や日本社会が大きく変動している点は共通しています。青空文庫に収録されている講演を生成AIで要約した後、その思想をわかりやすく整理しました。

◎第1回 迷いの中から話を始める

私は今日、ここで偉そうに何かを説こうとしているわけではありません。実のところ、私は長い間、自分が何者であるのか、何をして生きていけばよいのか、少しも分からずに彷徨って来た人間であります。その迷いの経験を、順を追ってお話しするよりほか、今日の講演の筋は立たないように思われるのです。

私は大学で英文学を学びました。しかし、3年も専攻したにもかかわらず、文学とは何であるかが分からなかった。試験では作家の年号や著作の順序を覚えさせられ、発音や冠詞の誤りを叱られましたが、それが文学の本質だとはどうしても思えなかったのです。自分は学んでいるようで、実は何一つ掴んでいないのではないか。そんな疑いが、次第に胸の底に沈殿していきました。

それでも私は教師になりました。松山で中学を教え、熊本で高等学校を教えました。しかし教壇に立ちながらも、確信や手応えを感じませんでした。自分は教師に向いていないのではないか、そもそも自分の本領はどこにあるのか、その問いに答えられぬまま、日々をやり過ごしていたのです。

やがて私は英国へ留学しました。外国へ行けば、何かが分かるだろうと期待したわけではありません。ただ、行けと言われたから行ったのです。ところがロンドンに着いてみると、事態はさらに深刻になりました。どれほど書物を読んでも、どれほど考えても、自分の立つべき場所が見えない。私は袋の中に閉じ込められた人間のように、もがくだけでもがいていたのです。

このとき私は、初めて自分の生き方そのものに疑いを持ちました。自分はこれまで、他人の言葉、他人の評価、他人の基準をそのまま借りて生きてきたのではないか。西洋人が良いと言えば良いと思い、西洋人が偉いと言えば偉いと思う。自分自身の判断は、どこにもなかったのではないか。そう考えたとき、私はようやく、自分が「他人本位」で生きてきた人間であることに気がついたのです。

この気づきは、私にとって決して愉快なものではありませんでした。しかし、ここから抜け出さなければ、私は一生、自分の足で立つことはできない。その覚悟だけは、はっきりと胸に刻まれたのであります。

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*** 今週の教養講座(夏目疎石「私の個人主義」②)

◎第2回 自己本位という考えにたどりつくまで

私はロンドンで、自分が他人本位の人間であると気づいたと申しました。しかし、気づいたからといって、すぐに新しい生き方が見つかったわけではありません。むしろ、その後のほうが苦しかった。なぜなら、他人本位を捨てよと言われても、では何をよりどころに生きればよいのか。少しも分からなかったからであります。

私はそれまで、西洋の学者や批評家の言葉を、ほとんど疑いなく信じて来ました。彼らの言う「立派な文学」「正しい思想」を、そのまま自分の基準にしていたのです。しかし、それを疑ってしまうと、足元が崩れるような感覚に襲われました。頼るものがなくなったのです。

そこで私は、無理にでも自分で判断しようとしました。これは面白いのか、これは価値があるのか、自分に問いかける。しかし、その問いに答える力が、自分の中に育っていないことに、すぐ気がつきました。これまで自分は、考えているつもりで、実は考えていなかった。判断しているつもりで、実は借り物の判断を繰り返していただけだったのです。

この状態は、非常に不安なものでした。人から見れば、留学中の学者が書斎にこもって勉強しているだけの話に見えたでしょう。しかし私の内側では、これまで築いてきた価値観が、音を立てて崩れていくような感覚が続いていました。私は神経衰弱に近い状態になりました。

けれども、その苦しみの中で、私はひとつの考えに行き当たります。それは、「他人の尺度で生きることをやめるなら、自分の尺度を作るほかない」という、極めて単純な考えであります。誰かが立派だと言うから立派なのではない。自分が心から納得できるかどうか、それを基準にするしかないのではないか。私はそう考えるようになりました。

これが、私の言う「自己本位」の芽生えであります。自己本位と言うと、わがまま勝手に振る舞うことだと誤解されがちです。しかし、私が言う自己本位は、そのような軽薄な意味ではありません。むしろ、自分の内側に厳しい基準を持ち、それに耐えながら生きる態度を指しているのです。

私はこの考えにたどりつくまで、長い時間を要しました。そして、この考えにたどりついた後も、決して楽になったわけではありません。ただひとつ言えるのは、ようやく自分の足で立つ場所を、ぼんやりとではありますが、見つけ始めたということであります。

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*** 今週の教養講座(夏目疎石「私の個人主義」③)

◎第3回 自己本位と利己主義は違う

ここまでお話しして来ると、皆さんの中には、こう思われる方があるかもしれません。「自己本位などと言えば、結局は自分勝手に生きることではないのか」と。これはもっともな疑問であります。私自身も、最初はその点で大いに迷いました。しかし、私の考える自己本位は、いわゆる利己主義とは、まったく別のものであります。

利己主義というのは、要するに自分の利益だけを考え、他人の都合や感情を顧みない態度を指します。ところが、自己本位というのは、そうした浅薄な態度とは正反対の性質を持っています。なぜなら、自分を本位にして生きようとすればするほど、他人との関係を無視しては生きられないことに気づくからであります。

私は、他人本位で生きていた頃、実は他人を深く理解していませんでした。世間がどう言うか、評判がどうか。そればかりを気にして、目の前の人間を見ていなかったのです。自己本位に生きようとすると、まず自分自身に誠実でなければならない。その誠実さは、やがて他人に対する誠実さへとつながっていきます。

自分の判断を持つということは、自分の責任を引き受けるということでもあります。他人の意見に従っていれば、失敗しても言い訳が立つ。しかし、自分で決めたことは、成功も失敗も自分のものになる。この重さに耐える覚悟がなければ、自己本位は成り立ちません。

自己本位で生きる人間は、他人の自己本位も尊重せざるを得なくなります。自分が自分の内面を大切にするなら、他人もまた、それぞれの内面を持っていると認めざるを得ない。ここに、利己主義には決して到達できない、倫理的な広がりが生まれます。

私は、日本の社会が、とかく他人本位に傾きやすいことを憂えています。世間の目、空気、慣習に従うことが美徳とされ、その結果として、自分の考えを持たない風潮が強い。しかし、それでは社会全体が、借り物の価値観の上に立つことになります。これは決して健全な姿ではありません。

自己本位とは、孤立することではない。自分を確立したうえで、他人と向き合う態度であります。この違いを取り違えると、個人主義はただの利己主義に堕してしまう。その点を、私は強く申し上げておきたいのであります。

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*** 今週の教養講座(夏目疎石「私の個人主義」④)

◎第4回 個人主義と社会との関係

ここまで私は、自己本位という考え方についてお話しして参りました。しかし、ここで必ず出て来る疑問があります。それは、「個人が自己本位で生きると、社会は成り立たなくなるのではないか」という疑問であります。個人主義が行き過ぎれば、社会はばらばらになり、秩序が崩れるのではないか。これは多くの人が抱く、もっともな心配であります。

私の考えでは、問題は個人主義そのものにあるのではありません。問題は、成熟していない個人主義にあります。自分を確立しないまま、ただ自由だけを主張する態度は、社会を壊します。しかし、自己を確立した個人が集まった社会は、むしろ健全な緊張と活力を持つようになります。

社会とは、個人の集合体であります。ところが日本では、社会が先にあり、個人は社会に従属するものだ、という考え方が根強くあります。その結果、人は社会の顔色をうかがい、自分の考えを引っ込める癖を身につけてしまう。私はこれを、たいへん不幸なことだと思っています。

個人主義というのは、社会に背を向けることではありません。むしろ、社会に対して責任を持つための前提条件であります。自分の意見を持たない人間は、社会に対しても責任を持てない。なぜなら、判断を常に他人に委ねているからであります。

自己本位に生きる人間は、社会と衝突することもあります。しかし、その衝突は、決して無意味ではありません。意見の違いが表に出ることで、社会は初めて自分の姿を省みることができる。衝突を恐れて沈黙する社会は、表面上は穏やかでも、内側では停滞していきます。

私は、個人が強くなることで、社会が弱くなるとは考えていません。むしろその逆であります。自分の頭で考え、自分の責任で行動する人間が増えれば、社会はより柔軟で、より耐久力のあるものになります。

個人主義とは、社会を壊す思想ではありません。社会を内側から支える思想であります。そのためには、各人が自己本位を貫く覚悟と同時に、他人の自己本位を尊重する度量を持たねばなりません。この両立があって初めて、健全な社会が成り立つのであります。

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*** 今週の教養講座(夏目疎石「私の個人主義」⑤)

◎第5回 それでも私が個人主義を語る理由

さて、ここまで自己本位や個人主義について、あれこれと申し上げて来ましたが、最後になぜ私がこのような話を、わざわざ諸君の前でするのか、その理由をお話ししておきたいと思います。私は、自分の個人主義を、完成した理想として差し出すつもりはありません。私自身、今でも迷い、疑い、時には後戻りしながら生きている人間であります。ただ、はっきり言えるのは、他人本位で生きていた頃の自分には、もう戻りたくないということです。

他人の評価や世間の空気に従って生きている限り、人は楽であります。しかしその楽さの裏には、必ず不安が潜んでいます。自分で判断していない以上、いつか拠り所が崩れるからです。私がロンドンで経験した苦しみは、まさにその不安が一気に噴き出した結果でありました。

私は、日本がこれからますます個人主義の時代になると思っています。西洋の制度や思想を取り入れ、表面だけは近代国家の形を整えました。しかし、その中身、すなわち個人のあり方については、まだ十分に消化されていない。だからこそ、自由と放縦、個人主義と利己主義が混同され、混乱が生じるのです。

私が言いたいのは、個人主義は決して楽な思想ではないということです。自己本位で生きるとは、自分の弱さや矛盾から逃げないことであります。自分で決め、自分で引き受け、その結果に耐える。これは非常に骨の折れる生き方です。しかし、その苦労を引き受けない限り、人は本当の意味で自由にはなれません。

また、自己本位を貫く人間は、他人の生き方にも寛容になります。自分が苦しみながら自分を作っているからこそ、他人もまた同じ苦しみを背負っていると理解できる。その理解の上に立ってこそ、初めて健全な社会が生まれると、私は信じています。

私は諸君に、無理に個人主義者になれとは申しません。ただ、他人の価値観を無批判に受け入れる前に立ち止まり、自分はどう考えるのかを問い直してほしい。その問いを持ち続けること自体が、すでに個人主義への第一歩であります。私の話が、諸君が自分自身の立つ場所を考える、ささやかなきっかけになれば、それで十分であります。私はそのことだけを願って、今日の話を終えることにします。