十三代目・市川團十郎を見た
新人新聞記者のころ、火事現場からデスクに電話をして状況を伝えようとすると、「いいから勧進帳で送れ」と言われた。「勧進帳???」。先輩に「頭の中で原稿をまとめて、現場から電話で吹き込むことだ」と教わった。
「勧進帳」は著名な歌舞伎の演目だと後で知った。弁慶は陸奥に逃げる義経を守っていた。関所を通る時、代官に詰め寄られると、弁慶は機転をきかせて「東大寺再建の勧請をしている」と出まかせの勧進帳を話し続け、ごまかした。新聞業界では、現場から原稿を吹き込むことの例えになっていたのだ。
「助六寿司」の語源も歌舞伎だ。江戸のヒーロー・助六を主人公とする演目に由来する。助六は江戸の遊郭・吉原に出入りし、最高の花魁「揚巻(あげまき)」と恋に落ちる。揚げ物と巻物が入っている助六寿司は、花魁の「揚巻」からきている。
花道、千両役者、十八番(おはこ)、幕の内弁当、見得(みえ)、楽屋、差し金、立役者、裏方……歌舞伎由来の日本語は多い。
歌舞伎は、1600年の関ヶ原の戦いの直後、京都の四条河原で庶民の芸能として始まった。田楽や能など先立つ伝統芸能を取り込み、その後も、今も、日本文化をどん欲に取り込んで生き延びている。
広島カープの全盛期に活躍した山本浩二選手は「ファンは、昼間あった嫌なことを忘れたいと広島市民球場に来てくれる。それに応えなければならない」と語っていた。歌舞伎も市井の哀歓に寄り添い、日ごろの憂さを吹き飛ばすことで発展したと言えるだろう。
歌舞伎社会は「梨園(りえん)」と呼ばれる。中国の唐の玄宗皇帝が、宮廷の梨の木の下で、演劇を弟子に教えたことに由来する。これは庶民の世界とは遠い。歌舞伎や役者は少し特別な存在になっていないだろうか、見る方も高級な何かを見る感覚はないだろうか。民俗学者・折口信夫は芸能者を「聖と賤が表裏一体となった存在」と見ていた。
年末の歌舞伎界は、きっての大名跡・市川團十郎(海老蔵改め)の襲名披露で華やいだ。最安値の席はいつもなら3500円だが、この公演は6000円と高い。清水の舞台から飛び降りる覚悟でもう少し払い、最終日12月26日の最終公演で、十三代目團十郎を見た。
演目は「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」。団十郎は、豪快、剛直で、たくましい。揚巻の絢爛豪華さにも目を奪われた。
團十郎は45歳。歌舞伎の屋台骨をしばらく担うことになるが、最近、早世する役者も少なくない。師走の風に吹かれながら、末永く庶民の憂さを晴らして欲しいと願った。