チャーチルに学ぶ先見性

2022.12.30コラム

チャーチル(1874~1965)は、第二次世界大戦時、英国の首相だったことで知られる。ナチスドイツの攻撃を孤立無援の状態で耐え抜き、米国を巻き込んで最終的に勝利する。チャーチルは、ヒトラーの危険性をいち早く見抜き、大戦後の構想も持っていた。

その先見性は、日本が今でも大いに参考すべき点だろう。1月2日から始まるメルマガ教養講座は、「世界の名演説」を特集するが、最初にチャーチルを取り上げる。

ヒトラーは1925年、獄中でまとめた自らの政治信条を「わが闘争」として出版した。ヒトラーが首相になるのは1933年だが、チャーチルは早くにこの本を読み、ヒトラーの危険な本質を感じ取った。激しいユダヤ人差別の記述が多かったからだ。

第11章に「民族と人種」と題した項目がある。ドイツ民族の卓越性を強調する一方、「ユダヤ的エゴイズムの結果」「ユダヤ人の見せかけの文化」「ユダヤ人は寄生虫」などのタイトルで徹底的にユダヤ人を批判する。根拠となるような具体的な記述はなく、差別と偏見に満ちている。

ヒトラーが総統になり、ナチス政権が力を持っても、世界でユダヤ人差別はあまり問題にされず、ヒトラーに融和的な動きが続いた。チャーチルは批判し続けたが、「共産主義よりナチズムがまし」という感覚が大勢だった。1939年、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、空気は一変した。英国民は、チャーチルを戦時の宰相に選んだ。

大西洋憲章で戦後秩序を宣言

メルマガでは首相に就任した時の演説を取り上げる。覇気に満ち、英国民を鼓舞する内容で、不安におびえる国民は熱狂的に支持した。1941年8月にはルーズベルト米大統領と大西洋憲章を発表した。領土不拡大、国民主権の尊重、貿易や資源をめぐる各国間協力、恐怖や欠乏からの解放、武力使用の放棄などの内容だ。日米開戦の前だが、早くも戦後秩序をにらんだ「旗」を立てた。

日本が真珠湾を攻撃すると、チャーチルは「これで米国が参戦する」と大喜びした。その言葉通り、ミッドウエー海戦、ノルマンディー上陸などを経て、連合国側が勝利した。

当時の英国民は賢かったといえる。喜劇王チャップリンは1940年、映画「独裁者」を公開し、ヒトラーを徹底的にあざ笑った。最後の演説シーンでは、民主主義の確立を訴え、ファシズムを弾劾。「笑いの文化」で参戦し、チャーチルを後押しした。しかし英国民は、ドイツに勝利すると、首相を保守党のチャーチルから労働党のアトリーに代えた。チャーチルはあくまで戦時の宰相だった。

チャーチルは戦後、「第二次世界大戦」を書いてノーベル文学賞を受賞する。「世界がヒトラーの危険性にもっと早く気づいていれば、戦争は避けられた」という強い思いを最後まで持っていた。死後、「英国を救った指導者」として、国葬で送られた。

ひるがえって日本はどうか。大戦緒戦のドイツの快進撃を見て、日独伊三国同盟に走った。日米開戦ムードが高まると、強硬派の陸軍を抑え込もうと、陸軍出身の東条英機を首相に据える。東条も戦争回避に動いたが、自分がまいたナショナリズムの逆流に飲み込まれた。メディアも追随した。海軍の山本五十六ら慎重派はいたが、大きな声を上げなかった。開戦に至った要因は様々に指摘できるが、日本人の先見性の乏しさを忘れてはならないだろう。

石橋湛山と日本の教養

東洋経済で論陣を張った石橋湛山の存在は、日本の救いと言える。単なる反戦平和ではなく、膨張は割に合わない、と主張した。「領土を求める時代は終わった。満州を捨て、各国と平和共存し、貿易に生きろ」と説いた。戦後の日本の姿そのものだ。

開戦に至る歴史は、多くのことを教えてくれる。日本人にとって欠かせない教養ではないだろうか。