世界の名演説(2023年1月2~6日)
今週は、過去の世界の名演説から5編選んで紹介したい。参考文献は「後世に伝える言葉」(井上一馬著)など。
***きょうの教養(世界の名演説①チャーチル)
ウィンストン・チャーチルの英国首相就任演説=「私にいま提供できるのは、血と労苦と涙と汗だけであります。我々の政策は、地上でも海上でも空中でも戦争を行うことです。目的は勝利です。我々の大義が人間社会において敗れるはずがないと確信しています」
チャーチル(1874~1965)は1940年、首相に就任し、破竹の勢いで進撃するヒトラーのドイツに立ち向かった。フランスが降伏し、米国は参戦しておらず、戦況は孤立無援だった。悲壮な決意で「イギリス人よ立て」と鼓舞し、米国を巻き込んで連合国勝利の立役者となった。自由主義の道徳性を強調。チャーチルがいなければ、戦後秩序は変わっていただろう。
名家出身で貴族趣味的だったが、順風ではなかった。軍を経て海軍大臣や大蔵大臣になったが失敗。しかし、戦時の首相に起用されると、断固とした指導力を発揮した。ドイツに勝利すると首相の座を追われた。英国人は戦時指導者としてのみチャーチルを選んだともいえる。
文筆家としても著名で、戦後執筆した「第二次世界大戦」で1953年にノーベル文学賞を受賞した。東西冷戦を「鉄のカーテン」と命名する才もあった。
*** きょうの教養(世界の名演説②ガンジー)
ガンジーの非暴力宣言=「私の信条は非暴力に始まり、非暴力に終わります。悪に対する非協力は、善に協力するのと同程度に重要な義務です。かつて悪に対する非協力は暴力で示されてきましたが、暴力は悪を増殖させるだけです。悪は暴力によってしか維持されないので、悪に対する支援を拒否するには暴力を回避することが求められます」
ガンジー(1869~1948)の書いた記事が動乱扇動罪に問われ、その裁判の最後で宣言した。弁護士だったガンジーは、南アフリカで差別と戦い、インド帰国後は英国による植民地支配からの独立運動に身を投じた。非暴力・不服従を掲げる人権活動家として、世界的な人物になった。
1930年の「塩の行進」が有名だ。インド人が塩を作ることを禁じられていたが、抗議のため300キロ以上離れた海までの行進を始め、大きな運動となった。
戦後の1947年、英国から独立した。しかし、パキスタンを分離され、ヒンドゥー教とイスラム教の対立が激しくなった。ガンジーは宗教的な寛容を説いたが、狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺された。
*** きょうの教養(世界の名演説③マンデラ)
1994年、ネルソン・マンデラの南アフリカ大統領就任演説=「黒人も白人も、人間の尊厳に対する絶対的な権利に確信を抱いて歩ける社会を築き上げる誓いを立てます。自由な道が平たんではないことはわかっています。二度とこの美しい国が、人を抑圧するのを目撃しないようにしようではありませんか。自由を行き渡らせようではありませんか」
黒人を差別・弾圧するアパルトヘイトを国策としていた南アフリカは、1989年の冷戦崩壊後、旧宗主国の西側諸国からも厳しく非難された。白人のデ・クラーク大統領は、政府によって27年間も投獄されたマンデラ(1918~2013)らを解放。史上初めて全人種で行われた選挙で、マンデラは大統領に選ばれた。
マンデラは黒人の優位を唱えるのではなく、人間の尊厳を尊重した融和社会の確立を切々と訴えた。ガンジーの非暴力の教えにも影響を受け、自らの長い苦悩の経験から言葉を選んで呼びかけた。アフリカの黒人独裁政権の惨状にも通じていた。マンデラとデ・クラークはノーベル平和賞を共同で受賞した。
*** きょうの教養(世界の名演説④ルーズベルト)
ルーズベルト米国大統領の対日宣戦布告=「1941年12月7日、この日は長く汚名を着ることになるであろう。合衆国は日本と平和的関係にあり、平和の維持を目指して交渉中だった。オアフ島への爆撃開始1時間後に駐米日本大使から回答を受け取ったが、戦争に関する示唆は含まれていなかった。日本からハワイへの距離を考えるなら、何日もいや何週間も前から計画されたことは明らかと歴史に記録されるだろう。アメリカ国民は正義の力で全面的な勝利に至るまで勝ち抜く」
日本は真珠湾を攻撃し、対米戦争に突入した。日本人としては名演説とすることに複雑な思いは残るが、ルーズベルト(1882~1945)の「リメンバー・パールハーバー」は米国人を奮い立たせた歴史的演説となった。米国の参戦を英国のチャーチル首相が最も喜んだとされる。
2人は同年8月、戦後の英米の目標を大西洋憲章として宣言した。領土不拡大や民族自決、国際協調などを8か条でまとめ、連合国が勝利した戦後の重要な指針となった。日本との先見性の差は大きなものがある。敗戦から何を学ぶかは、永遠の日本の課題でもある。
*** きょうの教養(世界の名演説⑤ハヴェル)
ハヴェルのチェコスロバキア大統領就任演説「我々は全体主義に慣れてしまい、その体制が続くのに手を貸してきたのです。全員がその加害者でもあるのです。私は自由で民主的な共和国を夢見ている。経済的に繫栄し、社会的正義が貫かれている。個人に奉仕し、個人もまた国に奉仕したいと望み、人道にかなっている。幅広く豊かな才能のある人々からなら共和国だ。そうした人がいなければ、人間の問題であれ、経済、環境、社会、政治の問題であれ、解決することはできないのです」
ハヴェル(1936~2011)は劇作家で、反体制作家として共産党政権に3度投獄された。1989年、ビロード革命と呼ばれた無血革命の中心となり、大統領に就任。1990年1月に就任演説をした。文化人らしい格調と深みのある表現が特徴的だ。
当時、「あり余る自由を前に何をなすべきか定かではありません。韻文の世界が終わり、散文の世界が始まるのです。祝祭が終わり、日常が始まるのです」と述べていた。チェコとスロバキアの分離に直面し、最終的にチェコ大統領となった。文化や多様性、人間らしさを重視し、精神的堕落こそ国家の最大の危機だと説いた。偉業を偲んで国葬が営まれ、国際空港の名前にもなっている。