松本亀次郎と周恩来
松本亀次郎(1866~1945)の名前をご存じだろうか。3月6日からの毎朝メルマガ教養講座で「日本と中国」を取り上げるが、亀次郎と周恩来の交遊を紹介したい。国の交わりは、人の交流によって支えられていることがわかる。
亀次郎は、今の静岡県掛川市で生まれ、日本各地で教鞭をとった。佐賀では日本初の方言辞典を出版。柔道家で教育者の嘉納治五郎に招かれ、魯迅や周恩来ら中国人留学生に日本語を教えた。日清戦争で日本が勝った後、中国人は日本でさげすまれるような存在になった。亀次郎には特段の政治的意図はなく、一教育者として「留学生はいずれ中国の指導者になる」と暖かく接した。
亀次郎は両国の親善を図る条件についてこう述べている。「日本の政治家の中国に対する方針・政策は一定しなくてはならない。留学生は日本研究もして欲しい。日本の一般家庭は、留学生と歓談する機会を作って欲しい。留学生は慣れない外国で苦労している。両国の一般国民は広い心を持ち、政治・経済の紛争に惑わされることなく、親しみを持ち続けて欲しい」
周恩来は日本との国交回復の立役者だった。田中角栄首相が訪中した1972年の歓迎宴で日中戦争にふれ、「前の事を忘れることなく、後の戒めにする」と述べた。「前事不忘、後事之師」という「史記」にある一文を引用したものだ。田中首相は「過去に迷惑をかけた」と返したが、中国側は「迷惑では軽すぎる」と強く反発した。
「過去を水に流す」のが日本人の習性で、記録を大切にする漢民族には通じない、とも指摘される。田中と周や両国外相らの努力で何とか調整し、日中共同声明の調印にこぎつけた。田中に会った毛沢東主席が「喧嘩はもうすみましたか。喧嘩は避けられないものですよ」と述べたのは、有名な逸話だ。
周は亀次郎の恩を忘れていなかった。亀次郎の死後、中国で遺徳をたたえる声が出始めた。天津市にある周恩来の記念館と亀次郎の生地が交流する。2019年には2人が握手する蝋人形が記念館から掛川市に贈られた。
周は懐の深い政治家だった。将来を冷徹に判断し、周到な準備で、米国や日本との国交を回復した。共産党イデオロギーにとらわれず、権力闘争で失脚した人の家族も穏便に遇した。一強と言われる習近平主席の頭の中は、よくわからない。しかし、「口喧嘩はしても暴力沙汰にしないこと」が、日中一般国民の利益であることは間違いない。蠟人形はそう呼び掛けているように見える。