放送法文書と表現の自由
放送法の政治的公平性をめぐる総務省文書が、国会で議論になっている。当時の高市早苗総務相が「捏造だ」と発言したことでヒートアップしているが、本質は「表現の自由」だろう。やり玉に挙がっているTBSの「サンデーモーニング」(3月11日)で、田中優子前法政大総長が面白いことを言っていた。
番組に介入しようという安倍政権時代の動きについて、田中さんは「コメンテーターが同じ意見を述べているというが、表現も角度も違う。頭の中が二つの引き出しでできているのだろう。一つは自分と同じ意見を入れ、もう一つは違う意見を入れておく。違う意見でも多様性があるのに、理解できないのではないか」と発言していた。
誰でも批判されるのは気分のいいものではない。しかし、批判は成長へのきっかけにもなる。政治家なら批判を肥やしによりよい社会を創るのが、期待されている使命でもある。言論人の石橋湛山は戦前、共産党の検挙事件があった時、「弾圧より共産主義を語らせる言論の自由を認めるべきだ。共産思想に誤った部分があるにしても、言論の自由があってはじめて人々はそれに気がつく。弾圧では何も改善されない」と主張した。戦後、自民党の首相になったが、言論の自由は健全保守の矜持でもあったはずだ。
「表現の自由」は憲法21条で保障されている。メディアのためではなく、個人のための自由権に位置付けられる。自由権の中でも中核的な存在で、自己実現や民主社会の存立に重要な意味を持つとされる。差別やプライバシー侵害につながる場合は制約を受けるが、その場合でも明確な理由と厳格な運用が求められている。戦争放棄を定めた憲法9条より重要と考えることもできる。
企業社会では最近、「心理的安全性」という言葉が盛んに語られている。提唱したのはハーバード大のエイミー・エドモンドソン教授で、「チーム内で自分の意見が的外れでも、臆することなく発信できる状態」という。グーグルが生産性の高いチームの条件を見つけるプロジェクトで、チームを成功に導くカギとして有名になった。「言いたいことを言える組織が強い」というメッセージだ。
同質性の高い日本では、ただでさえ同調圧力が強い。表現の自由は、保守もリベラルもなく、与党も野党もなく、日本が大切にしなければならない価値のはずだ。1931年の満州事変以後、表現の自由は侵され、敗戦へと突き進んだ。占領軍となった米国の「指導」で民主社会となったが、多様性を無意識に否定しようとする日本人の性癖は残っていると考えておいた方がいい。高市氏の捏造発言の追及もいいが、もっと大切なことを忘れてはならない。