日中関係史(2023年3月6~10日)

2024.01.05教養講座

*** きょうの教養(日中関係史①飛鳥から平安時代)

今週は日本と中国の歴史的な関係を取り上げる。「台湾有事」さえ叫ばれる今、日本人は中国をもっと知る必要があるだろう。「日本にとって中国とは何か」(講談社学術文庫)を基本的な参考文献とした。

◎「憧憬と模範の国」(飛鳥から平安時代)=歴史の教科書で学んだ「遣隋使」と「遣唐使」の時代である。前者が憧憬、後者が模範の時代という。

5世紀から約100年、「倭(当時の日本の名称)の五王」が当時の宋に貢ぎ、官位を与えられた。「冊封(さくほう)」と呼ばれ、完全な上下関係にあった。

推古天皇(位592~628)と摂政の聖徳太子(位574~622)は遣隋使の時代。600年に使者を派遣し、607年に小野妹子が遣隋使となった。「日出づる処の天子」で始まる国書を持参し、不興をかったが、対等関係を目指した。聖徳太子が憧れたのは仏教による統治で、妹子が隋の特使を連れ帰った時、大歓迎して迎賓館のような建物まで作った。

遣唐使は630~838年の間、約20回派遣された。唐では太宗による「貞観の治」、玄宗による「開元の治」など善政が行われ、法典や文化を輸入した。冊封関係にはなかったが、日本が貢物をする関係で、対等とはいえなかった。土地や税、行政の制度を整備した645年からの大化の改新、漢字や儒教、仏教の共有につながった。日本という国名が定着し、天皇の称号も中国をまねた。

隋唐では道教が盛んだったが、遣唐使は道教の布教を拒み、体系だってもたらされていない。しかし、神仙思想、医術や養生など日常生活と結びついた実用的な面での影響は根強い。

*** きょうの教養(日中関係史②鎌倉から江戸時代)

◎「先進と親愛の国」(鎌倉から江戸時代)=宗教、貿易、学問を中心に交流した。例外が、13世紀後半の元寇だった。

遣唐使が廃止されてから、僧は国が派遣する留学生から、私的目的の巡礼僧に変わった。延暦寺で学んだ法然や栄西、日蓮ら5人が、鎌倉仏教を創始。国家のための仏教が個人の救済手段に変質した。遣唐使廃止後、日本人の海外渡航は禁止されたが、南宋の商船で交流が続いた。鎌倉の建長寺を開山した蘭渓道隆らが日本に来た。

元寇は、663年に「白村江の戦い」に敗れて以来、600年ぶりの中国への恐怖心となった。元が朝貢を求めたが、鎌倉幕府は拒否した。日本は南宋との関係が深く、それが南宋と対立する元の怒り一因でもあった。1274年と1281年の2度来襲したが、暴風雨が起きて日本は救われ、神国思想が広まった。元寇の影響は、軍事より思想の方が大きく、明治以降に神国思想が復活した。

室町時代は、閉鎖的な明が相手。明は貿易を基本的に禁止したので、許可を与えて認める勘合貿易と、海賊による密貿易の倭寇が併存した。勘合貿易は、日本の将軍が明から「日本国王」という称号を与えられて行われた。「冊封(さくほう)」と呼ばれる上下関係だ。

江戸時代は、少数派の満州族が支配した清が相手。江戸幕府は鎖国政策をとったが、オランダと清との貿易だけは長崎などで認めた。中国からは東南アジア一帯の情報を得た。江戸幕府は儒学を奨励し、朱子学や陽明学が盛んになった。歴史に対する関心も高まり、水戸藩では「大日本史」の編修を進めた。しかし、仏教では黄檗宗が伝えられた程度で、影響は小さかった。

*** きょうの教養(日中関係史③明治から終戦)

◎「対等と侮蔑の国」(明治から戦争終結まで)=日清戦争までは対等、それ以降は侮蔑に転じた。

清は「清こそ世界の中心」という態度だった。貿易を求める欧州人も朝貢のために来たとみていた。しかし、英国とのアヘン戦争に敗れ、1842年に不平等の南京条約締結を強いられた。欧米各国とも不平等条約を結ぶことになり、貿易拠点がそれまでの広州から上海に移った。幕府は1862年、高杉晋作らを上海に派遣。アメリカ租界の繁栄や美しさ、外国兵の跋扈をみた高杉は「攘夷は非現実的」と感じた。

1871年、日本は清と対等の国交を樹立する天津条約を締結したが、1876年には朝鮮と不平等の日朝修好条規を結んだ。このため、宗主権を主張する清との対立が深まり、1894年の日清戦争に至った。日本が勝利すると、清は弱体化した。明治期は、琉球の帰属や朝鮮問題をめぐって日中間の国家的対立が深まり、老大国清への印象や評価が官民で大きく揺れ動いた時期だった。

清が敗れると、清朝打倒を目指す中国の若者が留学生として日本にやってきた。後の首相・周恩来もその一人だった。1911年の辛亥革命、翌年の中華民国成立で、日本にとって先進国だった中国は、単なる市場、戦略対象の地域となった。明治初期の対等な関係が、日清戦争をきっかけに侮蔑の対象へと変質していった。

そして、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件を引き金とした日中戦争で、完全な敵対国となった。終戦で、中国は戦勝国、日本は敗戦国となった。

*** きょうの教養(日中関係史④終戦以降)

◎「親愛と嫌悪がないまぜとなった国」(終戦以降)=1945年7月のポツダム宣言は、米英と蒋介石率いる中華民国3カ国の共同宣言だった。ソ連は日ソ中立条約が有効だったため、同宣言への署名は8月8日の対日宣戦布告後だった。ソ連の参戦は満州に住む日本人に悲劇をもたらした。シベリアでの強制労働にも従事させたため、日本の反ソ感情は高まった。一方、満州以外の中国からは無事に引き揚げることができ、親愛感を持った。

国際連合が設立され、戦勝国として中華民国が常任理事国になった。しかし、中国は内戦状態となり、1949年に毛沢東が率いる中華人民共和国が成立。蒋介石は台湾に逃れた。日本は1952年に日華条約を結び、中華民国を正統政府と認めた。中共とは民間人が貿易や文化面で交流したが、日米新時代を掲げた岸信介政権が中華民国寄りの政策を取り、政経不可分を主張する中共との交流は停止された。

ニクソン米大統領の側近であるキッシンジャーが隠密外交を展開。1972年にニクソン大統領が電撃的に訪中し、米中共同声明を発表した。日本の田中角栄首相も訪中し、日中国交回復を実現。その後は日中蜜月時代でパンダの寄贈などがあったが、1989年の天安門事件、1990年代後半の江沢民による愛国教育で嫌悪感が高まった。

中国経済の目覚ましい発展で、西側社会は経済面で中国との相互依存関係を深めている。しかし、習近平国家主席の覇権主義的政策は、米国や日本、アジア諸国との軋轢を生んでいる。2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、中国の台湾への武力侵攻による「台湾有事」が公然と語られ、緊張関係はかつてなく高まっている。

*** きょうの教養(日中関係史⑤考える視点)

我々は中国をどこまで知っているだろうか。中国に嫌悪感を示す日本人は増えており、友好を望む人を「媚中派」のレッテルで非難する風潮もある。世界のどこでも隣国とは難問を抱えている。隣国関係を適切に管理し、武力衝突に発展させないことが肝要だ。

今週は日中関係の歴史を見てきた。戦争に至ったのは、①白村江の戦い(663)②元寇(1274、81)③日清戦争(1894)④満州事変から第二次世界大戦(1931~45)。いくつかの教訓がある。

第一は日中対決というより、第三国が関係した戦争ということだ。①は新羅(朝鮮)、②は南宋、③は朝鮮利権が関係していた。④は日本の侵略行為だった。現在の台湾有事は、米国抜きには語れない。日中間は単純な2国間対立ではなく、複雑な様相を持っているという認識が必要だ。

第二は圧倒的多数を占める漢民族との対立は少ないということだ。①は漢民族だが、②はモンゴル、③は満州族だ。漢民族は北方民族の侵入をたびたび受けているが、領土的な拡張志向は強くない。アヘン戦争まで、日本にとって中国はお手本とする先進国だったが、日清戦争後に侮蔑に変わった。中国から見れば、アヘン戦争以降の屈辱を清算したい思いは強い。その手段として漢民族が「武」で戦うか、「文」を使うか、見極めが必要だ。

国家と社会を分けて考える視点も重要だ。習近平氏は国家主席3期目に入り、強権的な一強のように見えるが、「独裁のジレンマ」も抱える。イエスマンをそろえた側近への猜疑心が独裁を揺るがすという教えだ。コロナ対応、経済運営は統治の試金石だ。国民生活が揺らげば、政権も強権的に抑えることはできない。

中国には米国への留学経験者が日本より多く、彼らは日本人の平均的感覚と変わらない。知識人を中心に国民は、習政権を心からは支持していないとみていいだろう。中国には王朝交代は天の意志だと肯定する「易姓革命」の考え方が根強い。広大な大地と14億の民を抱える中国人の意識は、日本人とは異なると考えた方がいい。統治は容易ではなく、内政が最優先される。日本や米国との関係を軽率に荒立てたいとは思っていない。

日本人が思う以上に中国は多元的だ。日本側にも多元的な視点が必要になる。その前提で両国関係を適切に管理する官民の知恵と努力が必要と言える。