若松英輔の言葉(2023年3月13~17日)
*** きょうの教養(若松の言葉①根を探す)
今週は若松英輔さんの著書「言葉の贈り物」(2016年刊)を取り上げる。若松は1968年生まれの批評家・随筆家。小林秀雄の評論や詩集で各種の賞を受賞し、言葉を大切にしていることで知られる。各コラムから一部を紹介する。
「根を探す」から ・慢性的な疲労に苦しむとき、服用するとよい薬草がある。化学的な薬品ではない。伝統的に用いられてきた薬用植物である。
薬草は、現代の医薬品とは異なる働き方をする。医薬品の場合、どう働くかは物質が決める。だから効き方も鋭いが副作用もある。しかし薬草は、どう働くかを身体と対話しながら探っていく。薬草は、私たちのうちにあって小さくなっている生命の火に、息を吹き込むように作用する。身体に眠っている力を呼び覚ますのである。
植物には部位がある。葉ばかりでなく茎、花、果実を使うこともある。同じ植物でも葉と果実ではまったく作用が違う。そして、忘れてならないのは根だ。疲労に効果のある植物は、根の部分を使うことが少なくない。根を取り出すために私たちは、大地を掘らなくてはならない。探している植物は土のなかに隠れている。土にふれることなく、根を手にすることはできない。
・旅するべき場所は、私たちの心のなかにも広がっている。私たちは自分の心に何が秘められているかを知らないのではないだろうか。その未知なるものの典型は、内なる言葉、生命のコトバなのである。
*** きょうの教養(若松の言葉②働く意味)
「働く意味」 ・多くの成功物語の筆者は、成功の要因が自分にあると信じて疑わない。だが当然ながら、どんな優秀な経営者でも一人で会社を動かすことはできない。むしろ仕事とは、一人でできないことを他者と共に実現しようとする営みなのである。だから自分だけで仕事をしていると思い込んでいる人は、利潤を上げることはできても仕事はできていない、ともいえる。
・仕事とは文字どおり「事」に仕えることだから、人生の避けがたい何かに直面しそれを生き抜こうとする者たちは皆、働き、「仕事」をしている。たとえば、病を背負ったとき人は、その試練を生きることが誇り高き仕事になる。
・人は、この世の生が終わるまで「働く」ことができる。むしろ、働かざるを得ない。それは避けがたい宿命でもあるが、私たちの朽ちることのない尊厳の証でもある。人は、何も生産することがなくても「働いて」いる。
*** きょうの教養(若松の言葉③読まない本)
「読まない本」 ・同僚が、ぽつりと「読めない本は、読める本より大事なのかもしれない」といった。読めない本を買うときの方が、読みたいと思う気持ちが強いのではないか、というのである。
このときの衝撃を忘れることができない。読書観ばかりか、世にある物との関係にも大きな変化をもたらす経験となった。
確かに本は、読む者のためだけに存在しているのではない。むしろ、それを読んでみたいと願う者のものである。通読しなくてはならない、という決まりがあるわけでもない。書物自体を愛しく感じることができるなら、またそこに一つの言葉を見出すことができれば、それだけでも手に取った意味は十分にある。
人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける。そこに記されている内容からではない。その存在からである。私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。それは会い、話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、ふさわしい時機の到来を待っている。
*** きょうの教養(若松の言葉④書けない日々)
「書けない日々」 ・人は単に考えを書くのではなく、むしろ書いてみてはじめて、自分が何を考えているのかを知るのである。
何か文章を書きたい、そんな衝動が湧き上がることは誰にでもある。でも、なかなか思うようにはいかない。もがき、悩み、苦しむ。やはり書けない。そうしているうちに、書くべきことなどなかったのだ、と思い込んでペンを手放す。一般論ではない。私の経験である。大学を卒業してから、そうした日々を十五年以上も過ごしていた。
しかしよく考えてみれば分かることだが、書くべきことがなければ人は書けないとくやしがることもないのである。だから、書けない、そう感じた瞬間が書くことの始まりの合図になる。
・華美な文章や流麗な文章など書かなくてもよい。それは人を驚かせるが、私たちの日常には寄り添ってくれない。一見するとまぶしいが、生活の場を息苦しくもする。私たちがどうしても見出さなくてはならないのは、自らの心によって裏打ちされた、古い、しかし本当の言葉である。
*** きょうの教養(若松の言葉⑤未知なる徳)
「未知なる徳」 ・よい仕事をするには、自己の能力を高めるだけでは足りない。自分をねぎらい、いたわることを忘れてはならない。それが労働という言葉の本当の意味だろう。「労わる」と書いて「いたわる」と読み、「労う」と書いて「ねぎらう」と読む。
仕事はいつも他者との間に生まれる。働くとは、他者と共に生きていくことである。いたわりとねぎらいが、自己だけでなく他者にも向けられなくてはならないことを、「労働」という言葉は教えてくれる。
そう考えると当然のようにも思われるが、仕事の規模ではなく質を大切にする人は、同様のことを大切にする仲間の近くにいる。ひたすら規模を求める人にとっての目的は量的な成果だが、仕事の質を愛する人は道程を大切にする。この差が何を意味するのか、「仕事」を「人生」に替えてみれば一目瞭然だろう。
・働いていれば、つらいと感じることは幾度もある。だが振り返ってみると、そうした苦痛の経験が新しい何かへと導いてくれることは珍しくない。そうした試練のとき、私たちは期せずして、未知なる徳にふれているのではないだろうか。