クラシック音楽(2023年8月21~25日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (クラシック音楽①)

今週は西洋クラシック音楽を特集します。作曲家や曲名は聞いたことがあるが、結びつかないということも少なくないでしょう。年代順に5人を選び、音楽を聴けるユーチューブのURLも掲載しました。「世界の教養365」(文響社)を参考文献としました。

◎アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741)

イタリア・ベネチアのバイオリン奏者の子として生まれた。幼い頃から病弱で、1703年に聖職者の道に進んだ。その後すぐ、ベネチアにあった女子孤児院の養老院で、住み込みのバイオリン教師・指揮者・作曲家になった。養老院の少女たちは音楽の厳しい訓練を受け、彼女たちの演奏会はヴィヴァルディのオリジナル楽曲を演奏することも多く、ベネチアの音楽愛好家達から大好評を博した。

驚くほど多作で、生涯に協奏曲を500曲以上も作曲した。現在知られているどの作曲家よりも多い。声楽曲も作っているが、作品の大半は器楽曲で、ヴィヴァルディといえば器楽曲の作曲家として有名だ。協奏曲は表現力が豊かで、繊細な悲しさから威風堂々たる態度まで、さまざまな感情を描き出している。作品の多くが音楽以外を連想させる標題音楽で、ストーリー展開があったり、何らかの感情を喚起したり、季節の移り変わりなど実生活での出来事を連想させた。協奏曲は三つの楽章で構成されることが多い。第一楽章は早いテンポのアレグロ、第二楽章はテンポが緩く、第三楽章はアレグロに戻るが、第一楽章よりさらに躍動感がある。

ヴィヴァルディの楽曲でとりわけ有名なのが「四季」だ。四つの協奏曲からなる親しみやすい曲で、西洋クラシック音楽の楽曲としては昔も今もひときわ人気の高い。四季もそうだが、ヴィヴァルディは数々の作品でソリストの役割を根本から変え、演劇性や装飾性に対する卓越したセンスからソロ・パートをそれまでになく重視した。印象的な主題、野心的なリズム・モチーフ、楽曲の全体的な明快さなどで、バッハや古典派時代の作曲家に多大な影響を与えた。

ヴィヴァルディ『四季』 (ソネット字幕付版) – Bing video

*** きょうの教養 (クラシック音楽②)

◎フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)

ウィーンで活躍した優れた宮廷作曲家たちの系譜の中で、ハイドンは古典派で最初の紛れもない寵児だった。オーストリアの小村で職人の息子として貧しい家に生まれたが、音楽の才能は幼い頃から明らかだった。8歳の時、ウィーンの大聖堂の少年聖歌隊になった。

1759年から1761年まで、地位の低い伯爵の宮廷で働いたが、伯爵が破産したため解雇されてしまった。ハイドンの名はかなり知られていたため、ハンガリーの大貴族パウル・アントン・エステルハージ侯爵に雇ってもらうことができた。その後、人生の大半をエステルハージ家で過ごし、毎日8時間を作曲に費やすかたわら、屋敷で毎週オペラと交響曲を複数回上映するなど侯爵家の音楽活動全般を監督した。ただし、使用人部屋に住み、多くの屈辱的な扱いも受けた。

ハイドンが生涯で作った作曲数は驚異的だ。現存しているのは、交響曲が104、弦楽四重奏が「皇帝」など68、ピアノソナタが47、オペラが26 で、これ以外にも失われてしまった作品が何百もある。ハイドンは交響曲の標準的な構成(テンポの異なる3~4の楽章からなり、弦楽器、4~5の管楽器、およびティンパニー)を確立したとされており、この構成をロココ様式のイタリア人作家たちの考え方をもとに発展させた。

弦楽四重奏の形式を近代化したのもハイドンだとされている。四重奏の主旋律を第一ヴァイオリンの独奏にするのではなく、旋律と重要な主題をヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの各パートが交替で演奏するようにした。晩年をロンドンとウィーンを往復しながら過ごした。後世まで残るもっとも成熟した交響曲や弦楽四重奏曲を作曲したのはこの時である。同時代のうちもっとも才能にあふれていた若きモーツァルトと会って、影響を受けている。最後は音楽家生活から退き、77歳の時、ウィーンで亡くなった

弦楽四重奏曲第77番「皇帝」op.76 No.3 より第2楽章 / ハイドン – Bing video

*** きょうの教養 (クラシック音楽③)

◎ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)

モーツァルトほどその生涯や音楽が伝説に彩られている作曲家はいない。オーストリアのザルツブルグで、身分の低い宮廷作曲家・音楽教育者の子として生まれ、子ども時代の大半を旅する神童として、ミュンヘン、ウィーン、ロンドン、パリ、ローマなど各国の宮廷を回って過ごした。宮廷では国王や王妃貴族や教皇のために演奏したが、音楽家としての記憶力や腕前を披露する余興に過ぎなかった。

音楽家人生の大半を神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世時代のウィーンで過ごした。転機となった作品が、「後宮からの誘拐」(1782)だ。喜歌劇の一種オペラ・ブッハで、このジャンルはやがてモーツァルトが最も得意とするところとなる。その後もウィーンの有名な台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテと協力して、オペラ「フィガロの結婚」(1786)、「ドン・ジョヴァンニ」(1787)、「コシ・ファン・トッテ」(1790)を次々と発表した。一生のうちに書いた作品数は、交響曲が約40、ピアノ協奏曲が30、バイオリン協奏曲が5で、これ以外にも序曲、四重奏曲、フルート曲などその他様々なアンサンブルが何百曲とある。

モーツァルトは情熱的な男だった。音楽はもちろん、パーティーにも美食や高級ワインにも、ビリヤードや女性や賭け事にものめり込んだ。くめども尽きぬ才能の持ち主だった。残念なことに、彼も彼の移り気な妻コンスタンツェも、金銭にはまったく無頓着だった。生涯最後の10年間に最高傑作のほぼすべてを生み出したにも関わらず、既に多額の借金をしている相手にまた借金を頼まなくてはならないほど困窮していた。まともな食事もとらずに働き詰めの毎日を送った末、おそらくリウマチ熱が原因で、35歳の時に亡くなった。モーツァルトは傲慢で子供じみた天才だったと評価される一方、古典派の時代では間違いなく最高の作曲家だったとも評されている。

一音寺室内合奏団 – 2015 モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 – Bing video

*** きょうの教養 (クラシック音楽④)

◎フレデリック・ショパン(1810~1849)

ショパンの作品集は、ピアニストなら誰もがマスターしなくてはならない曲ばかりだ。同時代の作曲家のような卓越した壮麗さはないが、繊細さと美しさと味わい深さに満ちている。ショパンはコンサートホールよりも上流階級の客間で好まれた唯一無二の作曲家だった。

1810年、ポーランドのワルシャワ郊外でフランス人の父とポーランド人の母の間に生まれた。父が経営する貴族向け寄宿学校の生徒たちに囲まれて育ち、貴族の子弟たちの態度を多く身につけた。青年期には紳士気取りで、女性っぽいという評判だった。10代の頃からマズルカとボロネーズというポーランドの民族舞踊をもとにした短い曲を作り始め、貴族の居間で演奏してワルシャワの寵児となった。 

1830年、ワルシャワを離れてウィーンへ行き、パリへ移って名声を得た。 パリで大規模なコンサートに挑戦したが、音量と和声と不協和音を繊細かつ微妙に使い分ける作曲スタイルは、コンサート向けではなかった。1835年以降、洗練された上流階級の客間以外でほとんど演奏しなくなった。パリで最大のライバルであるフランツ・リストら芸術家や知識人と親交を深めた。小説家で男装の麗人ジョルジュ・サンドと激しい恋に落ち、1838年から1839年に2人はスペインのマヨルカ島で休暇を過ごしたが、ショパンの持病だった結核が悪化し、1849年に亡くなった。

祖国ポーランドを愛し、ワルシャワを離れる時、ポーランドの土を詰めた銀の壺を持って行った。この壺は民族主義の揺るぎない証として彼とともに埋葬された。民族主義はショパンの生涯を通じて大きなテーマだった。ポーランドの民族舞踊や宮廷舞踊を取り入れた曲が多く、その一つ「軍隊ポロネーズ」こと「ポロネーズ第三番イ長調」は1831年にポーランド民衆がロシア支配を覆そうと蜂起して失敗した事件を記念した曲だ。

ショパン:軍隊ポロネーズ ピアニスト 近藤由貴/Chopin: Military Polonaise Op.40-1 Piano, Yuki Kondo – Bing video

*** きょうの教養 (クラシック音楽⑤)

◎リヒャルト・ワーグナー(1813~1883)

芸術全体に大きな貢献を残し、総合芸術という概念を主張した。これは音楽、美術、舞踊、演劇、哲学を統合した総合的な芸術作品という考えで、その後、数世代の思想家、芸術家、音楽家たち、エリオット、シェーンベルク、ヘミングウェイ、ピカソらが影響を受けた。

ライプチヒに生まれてライプチヒ大学に進学した。競争心が人一倍強く、自己中心的な性格だった。1833年、兄の世話でヴュルツブルクの合唱指揮者になった。挫折の多かった前半生での数少ない成功の一つとなった。オペラ「リエンティ」、「さまよえるオランダ人」などを書いて、それなりの成功をおさめた。しかし、浪費がひどく、刑務所で過ごしたこともあった。

ドレスデンのザクセン宮廷に移り、「タンホイザー」と「ローエングリン」で才能を開花させた。1849年、革命運動を支援したため逮捕状が出されて国外に逃れ、ワイマールにいたリストが恩赦を得るため尽力した。その後も有名な「ニーベルングの指環」、「トリスタンとイゾルデ」、「ニュルンベルグのマイスタージンガー」などを作曲した。自分はドイツ音楽の精神を体現するものだと自認していた。社会主義者であり、リストともに「未来の音楽」という考えを構築した。ドイツ音楽の優位性を声高に主張し、和声、構造、楽曲で革命的な手法を提唱する理論だった。

ワーグナーほど聴くものを葛藤させる作曲家はいなかった。革命的な才能ゆえに彼の音楽を愛しながら、鼻持ちならない性格に反感を抱く者がいた。楽曲が非常に長く複雑であることを嫌う者も多かった。1876年、自分の作品だけを上演する音楽祭をバイエルン州の街バイロイトで開催。心臓発作のためベネチアで亡くなった。徹底した反ユダヤ主義者で、1850年に刊行した「音楽におけるユダヤ性」で、当時のユダヤ人を攻撃した。その中にはかつて仲の良かった作曲家もいた。ヒトラーはワーグナーのファンで、ナチス政権で利用した。

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲 – Bing video