グルメ風土記(2023年5月22~26日)
*** きょうの教養 (グルメ風土記①稲庭うどん)
今週は「グルメ風土記」を特集する。全国チェーンの隆盛で日本各地の特色は薄くなったとはいえ、その土地ならではの料理は多い。背景には独自の自然や歴史がある。「ご当地グルメの地理学」(尾形希莉子、長谷川直子著)を参考に紹介する。
◎稲庭うどん(秋田県) 秋田県湯沢市稲庭の特産。江戸時代に佐藤市兵衛という人が考案した。うどんに必要な3つの材料は、塩、水、小麦。稲庭は山間部だが、雄物川を利用して日本海の塩を入手できた。地元を流れる皆瀬川にきれいな水が流れ、隣町で良質な小麦が獲れた。秋田県ではかつて、稲より寒さに強い小麦の栽培が盛んだった。
通常のうどんよりも細く、コシと弾力が特徴だ。生麺ではなく、一度乾燥させるのが独特。これによってきれいな乳白色にゆであがり、長期保存もできる。温度や湿度によって乾燥時間を調整するのが職人技という。こねる時に油ではなく、でんぷんを使う。麺がくっつくのを防止すると同時に、つるつるしたなめらかな麺になる。
献上品として流通していたので、伝統が受け継がれてきた。今も手作業で生産され、出来上がるまでに3~5日かかるので、高価となっている。最近では稲庭うどんをまねた粗悪品も出回っているため、産地では協同組合を作ってブランドを守っている。
秋田県の郷土料理は自然条件と関係している。内陸部の「いぶりがっこ」は、大根などの農産物をたき火で燻製にして保存食とする。日照時間が短く、冬が長いためだ。県北部では「きりたんぽ鍋」が有名だ。ご飯を棒に巻いて焼いたきりたんぽを、比内地鶏やセリとともに煮て食べる。山仕事をしていた人たちの料理だ。「ハタハタ」も特産。初冬のころ、産卵のため沿岸に集まり、昔は大量に獲れた。すしが有名で、魚醤の「しょっつる」の原料にもなる。
*** きょうの教養 (グルメ風土記②崎陽軒のシウマイ)
◎「崎陽軒のシウマイ」(神奈川県) 表記は「シューマイ」ではなく「シウマイ」。これは栃木県出身の初代社長がなまって「シーマイ」と言っていたが、本場の発音に近づけて「シウマイ」にしたという。
崎陽軒は当初、横浜駅構内の売店で普通の弁当を売っていた。東京に近いこともありあまり売れなかったため、中華街のお店で突き出しに出ていたシウマイに目をつけた。1928年のことだ。それ以来、変わらないレシピで提供しているが、おいしさの秘訣は干帆立貝柱という。豚肉とうまくマッチさせることで、冷めてもおいしくなる。醤油をいれるヒョウタンの形をした「ひょうちゃん」も人気。さまざまな表情が描かれているが、箱を開けるまでわからない。
横浜名物になった背景には、中華街の存在が欠かせない。1858年に日米修好通常条約が締結され、付近で開港することになった。東海道が通る神奈川宿が候補になったが、幕府に近いので、少し離れて交通の便が悪い横浜に港を作ることになった。大型船が入りやすい水深の深さも利点だった。
外交人居留地を作ることになり、埋め立てを始めた。西洋人と日本人では言葉が通じないため、西洋の言葉を理解できる華僑を連れてくることになり、日本人とは漢字でやり取りした。英国人らは高台で水はけのよい山手地区に住み、華僑は山下地区に住んだ。風水思想を持つ中国人には方角が重要で、埋め立てて碁盤の目のように整備された山下地区の方がよかった。
神奈川県の特産では、小田原市の「かまぼこ」が有名だ。相模湾で獲れる魚と、酒匂川や早川のミネラルを含んだ水が原材料となった。箱根宿では日持ちがすると人気になり、参勤交代の大名らから好評で、広がった。
*** きょうの教養 (グルメ風土記③栗きんとん)
◎栗きんとん(岐阜県) 発祥の地は岐阜県中津川市。硬い皮のついた栗をゆで、熱いうちに中身を取り出す。それをつぶして砂糖を加え、布巾で絞って茶巾絞りの形にする。簡素なお菓子で、日持ちがせず、繊細だ。ていねいに裏ごしされているので、滑らかな舌触りが特徴になる。栗は秋に獲れるので、9月から翌年1月にかけての特産品。全国で待ちわびている人も多い。南信州特産の「市田柿」で包んだ栗きんとんもある。地域名産のコラボだ。
中津川で生まれた背景には、自然と歴史が関係している。日本百名山である恵那山のふもとに位置し、山の幸が豊富だ。恵那山から流れるきれいな水があり、寒暖差が大きく果樹の生育に適している。江戸時代から栗を使った料理があり、明治になって砂糖が普及すると栗きんとんが名産になった。
中津川には中山道が通っている。東農(岐阜県東部)随一の宿で、経済や文化の中心地だった。江戸と京都の中間にあり、東西文化の影響を受けながら独自文化が発達し、粋な文人が多くいた。そうした人たちは茶の湯を楽しみ、お茶の味を引き立てるためのお菓子を開発していた。ようかんなど栗を使った料理は多いが、栗きんとんが最も栗の味わいを感じられる。
東農地域では「へぼ料理」もある。「へぼ」はクロスズメバチの幼虫で、甘露煮にしたり、ご飯に炊きこんだり、五平餅につけたりする。山間部なので魚に代わるタンパク源として重宝された。長良川流域ではアユ料理が有名だ。県の魚にも指定されている。長良川は清流で知られ、川底によいコケが育つのでアユが住みやすい。伝統のアユ漁の「鵜飼」が今も残り、塩焼きやなれ寿司、アユご飯などで食べる。
*** きょうの教養 (グルメ風土記④京料理)
◎京料理(京都府) 明確な定義はなく、京都独自の食文化を総称する。かつて上流階級が楽しんだ有職料理(ゆうそく・りょうり=平安時代の貴族向けの社交用料理)に始まり、仏教の影響を受けた質素な精進料理、日常的なお惣菜のおばんざいなどがある。
特徴は料理と器で季節感を出すことだ。季節に合った食材と器を使い、一体感を楽しむ。ご飯がメインの一汁三菜が基本で、だしでうま味を引き出す。和食の代表で、2013年に世界無形文化遺産に登録され、国際的に注目されている。
自然条件では、盆地で季節の変化が大きく、宇治川や鴨川の清流の恵みをあげることができる。北側の丹波など自然豊かな地域が周辺にあることも大きい。豊富な地下水を利用して精進料理や豆腐作りが盛んになった。伏見で有名な酒も地下水の恩恵だ。
歴史的には、都が長く置かれたことが大きな影響を与えた。政治、宗教、文化の中心で、公家と仏教の文化が日常に浸透していた。さまざまな人や情報に加え、食材が集まった。北からは北前船で、塩干物、昆布、するめ、貝柱などが運ばれた。琵琶湖の食材も豊富だった。 京料理に欠かせない野菜も他府県から入ってきて、根づいた。伏見とうがらし、聖護院かぶ、九条ネギなどが代表的。千枚漬け、しば漬けなどの漬物も有名だ。
食文化として独特な「川床料理」もある。盆地で夏の暑さが厳しいため、北の貴船地区で始まった。市街地の鴨川でも「納涼床」として夏の風物詩になっている。夏の食べ物としては、内陸部までの輸送に適した魚の「ハモ」が夏の定番だ。北海道から運ばれたニシンを甘辛く煮た「にしんそば」は貴重なたんぱく源だった。丹波地方の「マツタケの土瓶蒸し」は、木材需要を満たすため森林から木が切り出され、はげ山になった土地にアカマツが育ち、マツタケの産地になった歴史がある。「肉じゃが」は舞鶴港にあった海軍が最初に考案したという。
*** きょうの教養 (グルメ風土記⑤卓袱料理)
◎卓袱料理(しっぽく・りょうり=長崎県) 日本、中国、オランダの文化が合わさった料理で、「和華蘭料理」(わからん・りょうり)ともいう。和洋中の要素が混じっている。江戸時代、長崎では中国とオランダと貿易をしていたため、中国人から伝わり発達した。
円卓を囲み、好きな小皿を取って食べる。江戸時代の日本には身分制度があり、一人にひとつのお膳が当たり前だったから、斬新なスタイルだった。食事は女将さんの「おひれをどうぞ」の一言で始まる。おひれは、タイが入ったお吸い物で、タイ一匹を使った証として、タイの胸ビレを入れている。
次に刺身やからすみ、ようかんなど冷たいものが出る。続いて暖かいものに移り、てんぷらや「パスティ」と呼ばれるパイ料理がある。次に季節ごとに違う和の料理を盛りあわせた大鉢となり、最後は梅椀というお汁粉で終わる。「卓」はテーブル、「袱」はテーブルクロスを意味する。日本でちゃぶ台を囲んで食事をする風習は、卓袱料理からといわれる。
長崎が戦国時代に開港したのは、キリスト教宣教師がキリシタン大名の大村純忠に要求したのが始まりだった。水深が深く大型船が入りやすい天然の良港で、日本の西側にあるため外国船も寄港しやすかった。貿易が盛んになると、砂糖が大量に輸入された。砂糖を運んだ小倉(北九州市)までの道は「シュガーロード」と呼ばれる。長崎からは砂糖を使ったカステラや金平糖がつくられ、日本全国に広まった。