ショーペンハウアーの「自分の頭で考える」(2023年9月11~15日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (ショーペンハウアー①)

ショーペンハウアー(1788~1860)は、ドイツの哲学者です。「自分の頭で考える」という文章を紹介します。同質性が高く、同調圧力や忖度意識の強い日本は、自分の頭で考えることが苦手ではないでしょうか。旧制高校生の学生歌に「デカンショ、デカンショで半年暮らす」という歌詞がありますが、「デカルト、カント、ショーペンハウアー」の名前をつなげたもので、存在感のある人物でした。自分の頭で考えるという意味は、どういうことでしょうか。自分の頭で考えてみましょう。

◎知識と脳  たくさんあって整理されていない蔵書より、程よい数できちんと整理されている蔵書の方がずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。なぜなら、一つの真実をほかの真実とつき合わせ、自分が知っていることをあらゆる方面から総合的に判断して、はじめて知識を完全に自分のものにし、意のままにできるからだ。とことん考え抜いて初めて信じることができる。

本を読むこと、学ぶことならいつでも思いのままに取りかかれるが、考えることはそうはいかない。対象に対する何らかの興味をかき立てられ、考え続けねばならないからだ。一身上の出来事、プライベートな事柄なら、主観的興味を持てるが、純粋に客観的な興味をかきたてられるのは、生まれながら考える脳みその持ち主だけだ。息をするのと同じくらい自然に考えるタイプで、そういう人物は滅多にない。ほとんどの学者も同じで、考える脳みその持ち主は滅多にない。

*** きょうの教養 (ショーペンハウアー②)

◎読書と脳  自分で考えることと本を読むことでは、精神に及ぼす影響に大きな開きがある。読書は、読み手の精神に、その瞬間の傾向や気分に全くなじまない異質な思想を押し付ける。読み手の精神は徹底的に外からの圧迫をこうむり、あれやこれや考えねばならない。これに対して、自分で考えると、その瞬間は下界や何らかの記憶に多少左右されることがあっても、精神は自らの衝動に従う。目の前に広がる世界は、読者の時のようにただ一つの特定の考えを押し付けたりせず、ただ本人の性質やその時の気分にふさわしい題材と考えるきっかけを与える。

重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、1分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精進のひらめきを失う。学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩を促す人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。

真実と生命は、もともと自分の根っこにある思想にだけ宿る。私たちが本当に完全に理解できるのは、自分の考えだけだからだ。本から読み取った他人の考えは、人様の食べ残し、見知らぬ客の脱ぎ捨てた古着のようなものだ。私たち自身の内部からあふれ出る考えを、いわば咲き誇る春の花とすれば、本から読み取った他人の考えは、化石に痕をとどめる太古の植物のようなものだ。

*** きょうの教養 (ショーペンハウアー③)

◎思索の手綱  読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人に委ねることだ。多くの書物は、いかに多くの誤った道があり、道に迷うといかにひどい目にあうかを教えてくれるだけだ。けれども自ら自発的に正しく考える者は、正しき道を見出す羅針盤を持っている。だから読書は、自分の思索の泉が湧き出てこない場合のみ行うべきだ。自分の思想を追い払って本を手にするのは、神聖なる精神への冒涜に等しい。

さんざん苦労して、時間をかけて自分の頭で考え、総合的に判断して真理と洞察にたどり着いたのに、ある本を見たらそれが完璧な形でさらりと書かれていた。そんなこともあるかもしれない。だが自分の頭で考えて手に入れた真理と洞察には、百倍の値打ちがある。というのも自分の頭で考えてたどり着いた真理や洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、全体を構成するのに不可欠な部分、生き生きした構成要素となり、見事に緊密に全体と結びつき、そのあらゆる原因と結果と共に理解され、私たちの思考方法全体の色合いや色調、特徴を帯びるからだ。

つまり自分で考える人は、まず自説をたてて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するために過ぎない。しかし、博覧強記の愛書家は、文献から出発し、本から拾い集め、他人の意見を用いて全体を構成する。それは異質な素材を寄せ集めて作られた自動人形のようなものだ。これに対して自分で考える人は、生きた人間を生み出しているに等しい。すなわち思索する精神が下界からの刺激で受胎し、それが月満ちてこの世に生まれ出たようなものだ。自分で考え、獲得した真理は本当に私たちの血となり肉となる。考える人と、単なる物知りとの違いは、ここにある。

*** きょうの教養 (ショーペンハウアー④)

◎学のない強み  本を読むとは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。絶えず本を読んでいると、他人の考えがどんどん流れこんでくる。自分の頭で考える人にとって、マイナスにしかならない。なぜなら他人の考えはどれをとっても、違う精神から発し、違う体系に属し、違う色合いを帯びているので、決して思想・知識・洞察・確信が自然に融合して一つにまとまっていくことはなく、むしろ頭の中にバベルの塔の様な言葉の混乱をそっと引き起こすからだ。他人の考えがぎっしり積み込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。

この状態は多くの学者に見受けられる。良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人の方が優れている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する。人生を読書に費やし、本から知識を組み立てた人は、たくさんの旅行案内書を眺めて、その土地に詳しくなった人のようなものだ。こうした人は雑多な情報を提供出来るが、結局のところ土地の実情についての知識はバラバラで、明確でも綿密でもない。

これに対して、人生を考えることに費やした人は、その土地に実際に住んでいたことがある人のようなものだ。そういう人だけがそもそも語るべきポイントを心得、関連の事柄に通じ、真に我が家に居るように精通している。

*** きょうの教養 (ショーペンハウアー⑤)

◎自分のアタマ  自分の頭で考える人と、ありきたりの博覧強記の愛書家で本から得た知識を愛する人との関係は、現場の目撃者と歴史研究家との関係に似ている。博覧強記の愛書家は、この人はこう言った、あの人はこういう意見だなどと報告する。彼らはこうしたことを比較検討し、批判し、物事の真相を突き詰めようとし、その点で批判的な歴史著述家によく似ている。

読書と同じように、単なる経験も思索の代わりにはなれない。単なる経験と思索との関係は、食べることと消化吸収の関係に等しい。もしも経験が、自分がいろいろ発見したおかげで人知を促進できたのだと胸を張るなら、それは口が人体を維持できるのは、ひとえに自分のおかげだと自慢するに等しい。真に能力ある人物の著作を、その他大勢の作品と区別する特徴は、決然たる明確さ、並びに、そこから生まれる明快・明晰さだ。こうした人物は、自分が何を表現したいのかいつも的確にはっきりと分かっているからだ。凡人の作品には、決然たる明晰さが欠けていて、すぐさま見分けがつく。

第一級の人物に特有の際立った特徴は、判断を全て自分で直接下すことだ。こうした人物が持ち出せるのは、どれも皆、自分の頭で考えた結果であり、それは話しぶりの至るところにあらわれる。彼らは君主のように、精神の王国に属している。しかし凡庸な人間は、こうした精神の王国の直接支配を阻まれた存在で、それは本人の特徴が刻まれていない文体からもわかる。

真に価値があるのは、自分自身のために考えたことだけだ。思索者は第一に自ら思索するタイプ、第二に他者を指向するタイプに分けられる。第1のタイプは真の思想家だ。自分の頭で、自分のために考える人だ。本来の哲学者、知を愛する者だ。彼らだけが真剣に問題と向き合っている。彼らの生きる喜びと幸せは、まさしく考えることにある。第2のタイプはソフィスト、詭弁家だ。「~~らしさ」を求め、他人の目に哲学者らしく映ることに幸福を求める。かれらはこれを真剣に追求している。二つのタイプにどちらのどちらに入るかは、やり方全般を見ればほどなく気づく。