ジャズ(2023年11月13~17日)
*** きょうの教養 (ジャズ①)
今週はジャズを特集する。「世界の教養365 現代編」(文響社)に登場する5人について、人物や音楽の特徴、動画による代表曲などを紹介する。文と映像と音で楽しんでください。
◎カウント・ベイシー(1904~84) ベイシー自身、一流のジャズ作曲家、ピアニストだったが、自らの楽団カウント・ベイシー・オーケストラを結成し、ビッグ・バンドの横綱的存在になった。20世紀最高のミュージシャンを何人も育て、売り出したことも大きな功績だった。
ニュージャージー州出身。カンザスシティーとシカゴでピアニストやバンドリーダーとして活躍した後、1936年末にニューヨーク市に拠点を定めた。彼のバンドは優れたテクニックを披露し、グレン・ミラー、ベニーグッドマン、デューク・エリントンらとともにスウィング・ジャズ、ビッグ・バンドの代表的リーダーとなった。ベイシー楽団の元メンバーで最も有名な一人が、サックス奏者のレスターヤング。ヤングがプロになった頃、ジャズの世界でサクソフォーンは伴奏用の楽器であり、主役の地位ではなかった。ベイシー楽団で演奏しながらヤングは、サックスをジャズの重要な楽器に押し上げた。
もっと有名なのが楽団でキャリアをスタートさせたシンガーたちだ。ベイシーはブルースが好きで、自分の楽団を使って優秀なブルースシンガーを売り込んだ。支援を受けた歌手にビリー・ホリデーとビッグ・ジョ・ターナーがいる。ターナーはブルースシンガーとして活躍する一方、後のロックンロールの初期のパイオニアの一人となり、ロックの定番「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を1954年に録音している。1950年代初めにビッグバンドジャズの人気が衰えると、ベイシーの威光にも陰りが見え始めたが、芸能界の重鎮として、フランク・シナトラや映画監督のメル・ブルックスら様々なアーティストと仕事をした。Bing 動画
*** きょうの教養 (ジャズ②)
◎ルイ・アームストロング(1901~71) ジャズ生誕の地であるニューオリンズに生まれた。頭角をあらわしたのは1920年代初め、ジャズ演奏の中心地となっていたシカゴに移ってからだ。ジョー・キング・オリバー率いるバンドでトランペットを演奏し、即興を中心とする演奏スタイルを切り開いた。その後、伝説のバンド、ホット・ファイブやホット・セブンを結成した。これらのバンドで「ポテト・ヘッド・ブルース」や「ウエスト・エンド・ブルース」など最初の優れたレコーディングを行った。
1940年代後半に結成したオール・スターズを中心に何十年にもわたって演奏と新たな工夫を続けた。偉大なミュージシャンとも数多く共演しており、特にエラ・フィッツジェラルドとは最も有名だ。一部の評論家からは「アームストロングの優れた才能の無駄遣いだ」と言われたが、商業的には非常に大きな成功をおさめた。
トランペット奏者に与えた影響は絶大だった。マイルス・デイビスは「ルイがラッパでやったことのないスタイルは何一つない」と述べている。ディジー・ガレスピーは「ジャズの歴史そのものがアームストロングのおかげだ。もし彼がいなかったら、私たちはだれひとり存在していなかっただろう」と話している。ジャズ評論家のナット・ヘントフは、アームストロング以前と以後のジャズミュージシャンとの関係は、シェークスピア以前と以後の劇作家との関係と同じだと書いたことがある。つまり、アームストロング以前にもジャズミュージシャンはいたが、彼はそれまでのミュージシャンより才能が抜きんでており、その後に続く全員に大きな影響を与えたのである。 Bing 動画
*** きょうの教養 (ジャズ③)
◎ディジー・ガレスピー(1917~93) 膨らんだ頬と曲がったトランペットがトレードマーク。第二次世界大戦後に広まるビバップを生み出すのに貢献した。サウスカロライナ州に生まれ、1930~40年代、デューク・エリントンらのビッグバンドメンバーとしてキャリアを歩み始めたが、ビッグバンドでは活躍できなかった。持ち味であるテンポの速い独特なスタイルが、伝統的なビッグバンドの約束事に合わなかったためだ。1940年代半ば、メインストリームから離れた少人数のバンドで自分の独特の才能を発揮し、サックス奏者チャーリー・パーカーとともにビバップを築いていった。
それ以前のジャズで最も人気があったのはスイング・ジャズで、一定の強いリズムとはっきりとしたメロディー、ダンスに適した中くらいのテンポを特徴とし、即興演奏はほとんど行われていなかった。ビバップはあらゆる点でスイングと根本的に異なっている。テンポはかなり早く、演奏するミュージシャンにとっては力量を発揮するチャンスになる。聴衆は踊るのではなく、座席に座って聴く。リズム・セクションは、スイングよりはるかに目立ち、リズムを刻むだけが役割ではなく、ドラムもベースもずっと複雑になっている。メロディーは高度な即興演奏の出発点で、曲の冒頭で演奏されると、あとはミュージシャンが同じメロディーを創意工夫を凝らして繰返す。
ガレスピーは独創的な即興演奏が得意で、気さくで聴衆から愛された。1964年には大統領選挙に立候補し、公約としてホワイトハウスを「ブルーハウス」に改称し、マイルス・デイビスをCIA長官にすると宣言した。1993年に亡くなる前にはコスビー・ショーやセサミストリートに出演し、若い世代にも知られるようになっていた。 Bing 動画
*** きょうの教養 (ジャズ④)
◎エラ・フィッツジェラルド(1917~96) 女性歌手で、「ファースト・レディ・オブ・ソング」と呼ばれる。完璧な歌唱力で知られ、声域が広く、どんな曲でも信じられないほど澄んだ声で歌うことができた。声はまさしく楽器で、「スキャット」という無意味な単語や発声で完全に即興的に歌うスタイルも完成させた。レコードも数多く出しており、1920~60年にかけて作曲された「グレート・アメリカン・ソングブック」の名曲を数多く録音し、高く評価されている。ジャズではスタンダードとされることが多い。ホワイト・クリスマスやブルー・スカイ、スターダストなどがある。歌手生活は50年以上続いた。
17歳だった1934年、ニューヨーク市ハーレムのアポロシアターで行われたアマチュアナイトで優勝したのが歌手生活の始まり。すぐにビッグバンドで歌い始め、1939年には自身の楽団も率いた。最大の成功をおさめたのはシンガーとしてで、 1950~60年代には、コール・ポーター・ソングブックなどのシリーズアルバムをリリースした。ルイ・アームストロングとの共演も有名で、代表的名唱のひとつが「マック・ザ・ナイフ」。ドイツの音楽劇「三文オペラ」の楽曲で、ルイ・アームストロングが歌ったことでジャズ界に広まった。エラは歌詞の一部を変え、ルイのものまねも入れ、観客から熱狂的な反応を引き出した。ジャズ・ボーカリストとしての風格、エンターテイナーとしての輝きの双方が一体となったパフォーマンスと評価されている。
作詞家のアイラ・ガーシュインは「私はエラに歌ってもらうまで、私の曲がこれほどいいものだとわからなかった」と賛辞を贈っている。エラのスタンダード曲は前衛的な実験にも利用され、サックス奏者ジョン・コルトレーンによる「マイ・フェイヴァリット・シングス」も有名だ。Bing 動画 「マック・ザ・ナイフ」 Bing 動画 「マイ・フェイヴァリット・シングス」
*** きょうの教養 (ジャズ⑤)
◎マイルス・デイヴィス(1926~1991) 「ジャズの帝王」と呼ばれ、生前に起こした革命の数々はジャンルの壁を超えて音楽界の隅々に行き渡った。イリノイ州の裕福な歯科医の父親の下に生まれ、すぐにセントルイスへ引っ越した。13歳の誕生日に父からプレゼントされたトランペットが相棒となった。音の数が多かった当時の特徴的演奏に抗って、ビブラートがなく、クリーンなトーンで早く軽やかに弾く方法に熱中した。高校在学中、千載一遇のチャンスが訪れた。ツアーでセントルイスに来ていた楽団に所属したチャーリー・パーカーらとの共演が果たされた。音楽を学ぶという名目で引っ越したニューヨークでアパートを借り、パーカーを探してすぐに同居を始めた。
ジャズのあらゆる局面で重要な役割を果たした。ビバップやそのスローバージョンであるクールジャズをいち早く演奏した。1959年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」はモードジャズの傑作とされ、1962年にはエレキギターを初めて使った曲をレコーディングしている。1992年のアルバム「ドゥー・バップ」はラップの歌詞も含まれている。最も永続的な貢献は、電気楽器を導入し、ジャズをほかの音楽ジャンルと融合させたフュージョン・ジャズという新たなスタイルを生み出したとされる。
演奏方針を共演者に強要することはなく、むしろ彼らに熟考させ、自由に演奏させた。その産物を否定することもなかったという。名だたるアーティストから敬愛され、磁石のように人を引き寄せ、そのオーラで最高のプレーを引き出した。それが「帝王」として広く尊崇の念を集める理由となった。