ユダヤの格言(2023年10月23~27日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (ユダヤの格言①)

今週は「ユダヤの格言99」(滝川義人著、講談社+α新書、2005年)を取り上げる。イスラエルとガザ地区ハマスの対立が深まっている。イスラエルはユダヤ人の国だが、ユダヤ教と長い流浪や迫害の歴史が特徴で、強固な共同体を築いている。ユダヤ人の考え方を知ることは、中東問題を知る手がかりになる。滝川さんは、現地の共同体「キブツ」で2年間生活した後、駐日イスラエル大使館に30年以上勤務した。

◎「一人の母親は百人の教師に勝る」  若い女性がこんな会話を交わすことがある。「うちの3歳の子どもは医師、2歳の子は弁護士です」。親が2~3歳で子どもの職業を決めているのだ。ユダヤ人の母親は、世界に冠たる教育熱心の代名詞である。母親の夢は子どもを医師か弁護士することである。人種に関係なく、実力があればなれる社会的地位の高い職業である。

ヘブライ大学で天才児教育の開発プログラムを担当してきた博士は、教育における母親の役割は極めて重要と述べている。①母親は自分の中に愛を与える無限の力があることを知っている②母親は子どもから返ってくる愛に無上の喜びを感じる③母親は子供を育てる過程で自分も成長する能力を持つ、という。「友達はたくさんできるが、母親は一人しかいない」という格言もあり、母親は子どもにとって唯一の存在である。

ユダヤ人家庭の母親は、日常のしつけやユダヤ教の日常行事を担当する。父親は人生のモデルとして範を垂れるのが伝統的役割分担である。ユダヤ教の聖典である「タルムード」には、子どもを養うにあたって、夫は妻のアドバイスに従わなければならない、その結果、家庭の平和が保たれるという言葉がある。母親の仕事はごく平凡だが、無限の愛をもつ母親には教師が束になっても敵わない力がある。「神は全てのところにいることができないので母親を作った」という格言もある。

*** きょうの教養 (ユダヤの格言②)

◎「家庭がなければ国滅ぶ」  娘を嫁に出した父親が、新婚家庭を訪れて3人で食事をした。楽しい食事の途中、新婚夫婦が口喧嘩をはじめ、新郎が娘の左頬を叩いた。父親はびっくりしたが、立ち上がると娘の右頬をぴしゃりと叩いた。新郎はてっきり自分がやられると思った。父親は「君は私の娘をぶった。私は君の妻をぶった。これでおあいこだ」と言った。

格言の原意は、家庭生活のないところで国は築けない、である。家庭の崩壊は国家滅亡の前兆と考えている。ユダヤ人社会は家庭生活をとても大切にする。家庭生活が社会の基本であり、生活を通して子どもたちは 社会の慣習伝統だけでなく歴史も学ぶのだ。日本の家庭では両親が子ども達に歴史を教えることは少ないだろう。2000年に及ぶ流浪の中でユダヤ人社会が崩壊しなかったのは、ユダヤ教という芯があり、それを支えるシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)と家庭があったからである。ユダヤ教は戒律を守ることが基本であり、戒律は家庭生活に組み込まれている。家庭がしっかりしている点で、ユダヤ人社会が世界で群を抜いている。

家族のサイズは既に紀元1世紀ごろから論じられており、二つの教派がある。子どもの数を男女各一人と主張する教派と、息子2人という教派がある。今日では、男女各一名が最低数という線で落ち着いたようである。中東北アフリカ系で4~5人、欧米系で2~3人といったところである。

*** きょうの教養 (ユダヤの格言③)

◎「国の真の保護者は教師」  教育立国を国是と考える人には容易に理解できる格言である。ユダヤ人社会における教師の役割は、伝統を継承し、時代の先を読んで備え、次の世代へ引き渡していくことだ。ユダヤ教の「ラビ」は「導師」と訳されるが、原意は「私の先生」である。

ラビは神の代理人ではないし、礼拝を司るわけではない。ユダヤ人社会は共同体との契約で働くので、識見や指導力などの能力が直接問われる。彼らは学者であり、教師であり、ユダヤ人社会の伝統継承者である。裕福なユダヤ人は学問を支援し、娘を将来性のある青年ラビと結婚させるのを理想とした。貧しいラビにはどこかの家が割り当てられ、研修期間中その家が食事の面倒をみた。ラビの社会的権威は今も大きい。ナビが存在する限り、ユダヤ人社会は健全である。

普通の世俗派教師も節目ごとに重要な役割を果たしている。ヨーロッパが啓蒙時代をへて近代に突入すると、孤立状態になったユダヤ人社会でも少し遅れて「ハスカラ運動」が起きた。ハスカラは、「知識、教育、学殖」の意味で、世俗の科学、経済、ヨーロッパ言語等の教育を導入する運動だった。保守派の猛烈な反対にめげず教師たちが先導し、社会民主運動に発展させた。音楽家のメンデルスゾーンの祖父はその先駆者の一人だ。ユダヤ人社会が世界的に著名な学者、文化人、芸術家を輩出するようになるのはこの運動後である。

ヘブライ語の復活運動も教師が中心的役割を果たした。言語は民族の心だが、先祖伝来のヘブライ語は、流浪の過程で礼拝用の言葉になり、ユダヤ人は寄留地の言語を日常使っていた。ヘブライ語を復活させた功労者はエフーダという言語学者で、普及させたのは教師である。1910年代、再建ユダヤ人国家の国語めぐる激しい言語論争で勝ち抜いたのが民族派の教師たちで、フランス語やドイツ語を主張する人達に勝った。ユダヤ人は百カ国以上の地に住み、イスラエルに移住してくる。共通の民族言語なしでは国民の一体性は築けなかっただろう。

*** きょうの教養 (ユダヤの格言④)

◎「100歳で死に忘れ」  人生はいかなる節目を持つのか。よく知られているのが中国の論語だ。孔子晩年の言葉だが、「15で学に志し、30にして立つ。40で迷わず、50で天命を知る。60で素直に従い、70にして心の思うままに振る舞って道をはずさない」となっている。

ユダヤ人社会には「長老たちの倫理」がある。孔子の時代よりずっと古い頃から、倫理問題の討議が行われ、紀元180年に編纂した。60人以上の賢者の意見を集大成している。「長老たちの倫理」によれば、学問に志すのは孔子より5歳早い。学ぶのは口伝律法の「ミシュナ」で、聖典の中核をなす。これを普通の子どもが10歳から学び始めるのである。孔子のいう不惑、すなわち浩然の気がいっぱいに満ちる年齢はユダヤ人でも40歳である。50歳で孔子は天命を知る境地だが、ユダヤ人も同じ年齢でその境地に達することは面白い。

以下ユダヤ人の人生の節目をみていく。5歳で聖書を学び始め、10歳で学に志し、ミシュナの学習に着手。13歳で成人し、戒律を守る。18歳で結婚、20歳で生計の道を確立する。30歳で活力全身に満ち、40歳で理解の域に達し、50歳で成熟、良き忠言をなす。60歳で老いに向かい、70歳で白髪、80歳で運が良ければさらに長生きする。90歳で年齢の重みで体が曲がり、100歳で死に忘れる。

*** きょうの教養 (ユダヤの格言⑤)

◎「知識は血脈として残る」  ある人が莫大な金を稼いで、巨万の富を蓄えた。それを伝え聞いた賢者が言った。「その人は、蓄えた金を使うための時間も稼いだのかね」と。この格言は中世スペインのユダヤ人思想家で詩人のガビロルの言葉である。

ガビロルは、次のように皮肉なことも述べている。「賢者と金持ちのどちらが偉いかと問われてば、もちろん賢者と答える。しかし賢者の門に集まる金持ちの数より、金持ちの門に集まる賢者の数が多いのはなぜかと聞かれて、賢者は富の価値を知っているが、金持ちは知恵の価値を知らないと答えた」。これは「賢者は富の価値を知り、金持ちは知の喜びを知らず」という格言にもなっている。

さて血脈として残る知恵。ユダヤ人社会では、内容としては「聖書」や「タルムード」などの書の中に蓄えられている。それだけではない。知恵は性向、態度、習性などの社会的要素の中に第2の天性となってしっかりと蓄えられている。

ユダヤ人のアインシュタインはそれを次の三つに集約している。飽くなき知識の追求、正義を求める激しい心、個としての確立欲求。「これがユダヤの伝統に見られる知の特徴であり、私は幸いにしてその伝統を受け継ぐ者の一人であった」とアインシュタインは述べている。知恵も頭の中に潜伏しているだけでは意味がなく、ユダヤの格言は行動の裏付けを求めている。「知恵だけで野菜は買えない」「行動を伴わない知恵は果実の実らない樹木」「言葉で賢くなるな。行動で賢くあれ」。いずれも同じ意味を表している