三島由紀夫の文章論(2023年4月24~28日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (三島由紀夫の文章論①)

今週は三島由紀夫の「文章読本」を紹介する。文章論は1934年刊の谷崎潤一郎から多く書かれている。三島由紀夫の本は1959年に刊行されたが、参考になる記述は多い。最後の第8章「文章の実際-結語」から引用する。

私は短編小説ばかり書いていた時、文章の中に凡庸な一行が入り込むことがひどく不愉快でした。しかしそれは小説家にとって、つまらない潔癖にすぎないことに気がつきました。凡庸さを美しく見せ、全体の中に溶け込ますことが、小説というこのかなり大味な作業の一つの大事な要素なのであります。

「月が上がった。屋根のひさしが明るくなった。二人は散歩に出た」というような文章を書くときに、以前の私なら、そこへさまざまな自分の感覚的発見をちりばめることなしには書くことができなかったでありましょう。月には形容がつき、ひさしの明るさには、ひさしの明るさ独特の色調の加減が加味されたでありましょう。しかし私は、むしろ自然な平坦な文章のところどころに結び目をこしらえることに熱中します。私は、文章があまりに個性的な外観をもつことを警戒します。そうすれば、読者は作者の個性ばかりに気をとられて物語を読まないからであります。 

二、三行ごとに同じ言葉が出てこないように注意します。「病気」と書いた時には、次には「やまい」と書こうとします。古い支那の対句の影響が残っていて、例えば「彼女は理性を軽蔑していた」と書くべきところを、「彼女は感情を尊敬し、理性を軽蔑していた」と書くことを好みます。

*** きょうの教養 (三島由紀夫の文章論②)

文章の中に一貫したリズムが流れることも、私にとってどうしても捨てられない要求であります。リズムは決して七五調ではありませんが、言葉の微妙な置きかえによって、リズムの流れを阻害していた小石のようなものが除かれます。わざと小石をたくさん流れに放り込んで、文章をぎくしゃくさせて印象を強める手法もありますが、私は小石を置きかえて、流れのリズムを面白くすることに注意を払います。

前日書いた文章を読みなおしてみると、自分が肉体的精神的に最上のコンディションにあって一種の興奮のうちに書いた文章には、二度とかえらぬ熱っぽさが溢れています。長い小説を書いている場合、そういう熱っぽさの次にだらけた心境で文章を続けようと思ったときほど苦痛なことはありません。

しかし、長い眼で見ると、人間の内的リズムは、無意識のうちに持続しているのであって、そのあいだには大いに凹凸があり、緻密と粗雑の違いがあるように見えても、あとで自分の作品を読みかえしてみると、だいたい同じリズムで起伏していることがわかります。

*** きょうの教養 (三島由紀夫の文章論③)

途中で文章を読みかえして、過去形の多いところをいくつか現在形になおすことがあります。日本語の特権で、現在形のテンスを過去形の連続の間にいきなりあてはめることで、文章のリズムが自由に変えられるのであります。日本語の動詞はかならず文章のいちばん後にくるという特質によって、過去形のテンスが続く場合には「した」「た」「た」という言葉があまりに連続しやすくなります。そのために適度の現在形の挿入は必要であります。

「潮騒」のように物語的小説では「であった」という語尾をたびたび使いました。この言葉は物語的雰囲気を強めます。しかしリアリズム小説に「であった」がたくさん使われると、内容をあまりにロマネスクに見せすぎるきらいがあります。

いつか大岡昇平氏とも話したことがありますが、「彼」とは書きやすいが、「彼女」とは書きにくい、「彼女」という言葉は日本語としてまだ熟していないものをもっていて、「彼女」を無神経に乱発する小説を読むと、眉をしかめます。

女性の登場人物の場合には、努めて女性の名前を何度でも使って、なるべく彼女という言葉を避けるようにしています。小説ではない随想の文章に、「僕」と書くことを好みません。「僕」という言葉の、日常会話的なぞんざいと、ことさら若々しさを衒ったような感じは文章の気品を傷うからであります。「僕」という言葉を公衆の前で使う言葉とは思いません。会話のなかだけで使われるべき言葉でありましょう。

*** きょうの教養 (三島由紀夫の文章論④)

文章の目的によって、言葉の感覚はさまざまの変化をします。例えば小説のなかで、俳優の名前を出すことを好みません。なぜなら今日のマリリン・モンローは、十年後には誰かわからなくなってしまうからであります。私の文章が滅びるとしても、少なくとも十年先を考えなければ文章を書く楽しみがありません。

「マリリン・モンローのような女」ということを小説に書けば、十年後、その女の概念は読者になにもつかめなくなってしまうでありましょう。こういう潔癖さは小説作品のなかで、あるいは戯曲の中でだけ発揮されるものであって、随想や随筆や雑文の文章のなかで映画俳優の名前を出すまいと思ったら、無理というものであります。

小説以外の評論や随想の文体はどうしてもおろそかになります。わたしの好みや潔癖さを捨て、俗語も使いますし、わざとふざけた、くだけた文章も使います。その代わり論理的に正確であるように心がけ、作家としての論理に対してもつ、ある気恥ずかしさから、わざと卑俗なくだけた表現をそれにくっつけて使うこともあります。

去年書いた文章はすべて不満であり、いま書いている文章も、来年に見れば不満でありましょう。進歩の証拠と思うなら楽天的な話であって、不満のうちに停滞し、不満のうちに退歩することもあるのは、自分の顔が見えない人間の宿命でもあります。

*** きょうの教養 (三島由紀夫の文章論⑤)

ブルジョア的嗜好と言われるかもしれませんが、文章の最高の目標を、「格調と気品」に置いています。例えば、正確な文章でなくても、格調と気品のある文章を尊敬します。現代作家の中でも私は自分の頑固な好みに従って、世間の評価とはまったくちがった評価を各々に下しています。

日本語がますます雑多になり、与太者の言葉が紳士の言葉と混じりあうような時代に、気品と格調ある文章を求めるのは時代錯誤かもしれませんが、しかし一言をもって言い難いこの文章上の気品とか格調とかいうことは、闇のなかに目が慣れるにしたがって物がはっきり見えてくるように、かならずや後代の人の眼に見えるものとなるでありましょう。

具体的に言えば、文章の格調と気品とは、あくまで古典的教養から生まれるものであります。古典時代の美の単純と簡素は、いつの時代にも心をうつもので、現代の複雑さを表現した複雑無類の文章ですら、粗雑な現代現象に曲げられていないかぎり、どこかで古典的特質によって現代の現象を克服しているのであります。

文体による現象の克服ということが文章の最後の理想である限り、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。