丘浅次郎の人類評論(2023年7月24~28日)
*** きょうの教養 (丘浅次郎①)
丘浅次郎(1868~1944)は、ダーウィンの「進化論」を広く日本に紹介した生物学者だ。東京高等師範学校(現筑波大)で教鞭を取り、「人類は過去に優勢だった生物同様、強みが弱みに転化してやがて滅びる」といった社会評論で知られ、戦前は著名だった。環境問題が深刻化する今、人類の未来を予測した丘の評論を紹介する。
◎人類とは 「人類はほかの動物に比べてどんな点が優れて打ち勝ち、今日の地位を占めるに至ったのだろうか。おそらく誰にでもすぐに気がつくことであろうが、思考力、推理力の器官である脳髄が発達していること、自由自在に動かせる手を持っていることである。人間は機械を使う動物と定義しても差し支えない。どんな器官も一足飛びに発達するものではなく、順序をへて進むもので、人類の脳も手と機械を通じて得た経験に伴って発達した。ここに関係しているのは言語で、人類は言語を有する動物という定義もできる」
「絶対優勢の動物を滅亡させる原因はなんだろうか。いずれの場合にもその種族を勃興させた原因と同一である。たとえばある動物は体が大きく筋肉が強いことによってほかの種族に打ち勝ったが、それは大量生活に大量の食物が必要で成長に多くの年月がかかり、繁殖が遅く、敏捷性を欠いていることでもある。一定の度を超えれば、体の大きさが生存上不利になる。国にたとえれば多くの海陸軍を作った貧乏国が、武器を維持するために重税を課する結果として、すべての面で疲弊し最後は国が滅ぶことだ。筋力で天下を取った種族は、自己の種族内で相互に筋力を持って争う。牙で優位を占めた種族は、相互に牙で争う。ほかの種族に優位に立った性質を際限なく突き進めないと止まらない状態になる」
「人間社会に貨幣が登場した後、自然淘汰の動きが中断した。本来なら身体の健全さと精神の優秀さを基準とした淘汰があるはずだが、人類は金銭的な貧富によって生存が決まるようになった。淘汰が止まれば、淘汰の基準であった点が退化し始めるのは生物学上動かせない事実である。 淘汰の現象がさらに進んだ場合、人類の身体、精神、社会にどんな変化が生まれるだろうか。第一に影響をこうむるのは、性欲に関する面である。生活の費用が高くなるにつれて、結婚して一家を支え妻子を養うことは簡単ではなくなる。相応の資産を持った後でなければ結婚できなくなる。自然に晩婚の風が生まれ、中年以後まで結婚しない者がだんだん多くなる」
*** きょうの教養 (丘浅次郎②)
◎人間とは 「人間同士の競争が激しくなると、生活が困難になってくる。生活できるかどうかわからなくなり、個人が苦しむようになると健康を害する。神経系統に疲労起こすことになる。およそ人間の体に何が一番悪いかというと、明日はどうしようかという生活の心配ぐらい体に悪いものはない。長い間に身体を弱らせるものは、生活上の心配がもっともはなはだしい。生活の心配が続けば、神経衰弱を起こす。神経が疲労すれば、はじめは過敏になり、後には刺激に耐えられなくなって麻痺してしまう。些細なことでも気にかけるようになり、くだらないことでも心配でたまらないようになる。神経に異常をきたす者もたくさんでる」
「人間がほかの生物に打ち勝つ時に有力であった武器が、仲間同士で争う武器になり、武器がだんだん発達する。個人にとっては有益だが、種族全体にとっては不利益になる程度まで発達し、ついにそのために種族が滅亡するのである。人類も同じ運命をもって、ついにはなくなると考える。いつかといえばもとより長い後のことで、近いうちに起こるわけではないけれど、地質学の次の代ぐらいではないかと考える。反対の説を持つ人もいるだろう。しかし、過去現在から推測して考えると、この事実に符合する可能性が高い」
「遊んでも贅沢に暮らしていける少数者と、いくら働いても生活が困難な多数の貧者がいる。少数の富者は金の力をよく知り、金の力で道徳を破って平気でいる。生活難の多数者は、団体全体の利益などは考えない。根本は利益の分配の不公平で、私有財産があることである。人間は道具を用いて他の動物に打ち勝ったが、全盛を終えて下り坂に向かう時、道徳が退化するのは当然である」
*** きょうの教養 (丘浅次郎③)
◎教育 丘は教育に関する評論もたくさん書いている。ここでは、受け身の「他力教育」と主体的な「自動教育」に関する文章を紹介する。
「他力教育とは、教える側があらかじめ生徒に信ずるべきことを定めておき、これを生徒の頭に押し込もうと努める流儀をいう。これは上に立つ者が困難なく下々治めようと欲する場合に用いる常套手段である。太平の続く間、教育はことごとく他力教育である。異端の教育が頭を持ち上げるのは、治める側の権力が揺らいだ時で、革命の起こる前兆だった。教育は元来、手本を示して生徒に真似をさせることだった。鳥は飛ぶことを見せて子供に教えている。かつては他力教育だけだったが、今のように学科が多くなると他力に用いて都合の良い学科とそうでない学科が出てくる」
「自動主義とは、生徒自ら動かしめる主義である。筋肉だけでなく脳髄も動かしめるから、他力教育の正反対である。だんだん自由に考える人が増えれば世間も自動主義に傾き、教育界でも最近主張されはじめた。何事も自分で考えれば、独立自尊の思想が養成され、独力で自由に考える。本に何と書いてあっても自分で信じた価値以外は信じなくなる。他力教育が成功すれば、世の中は凝り固まりの信者だけとなる。自動教育が成功すれば、自由思想家が次々と現れる。教育が複雑になり、一人の生徒が受ける教育でこの二つが行われれば、二者の間で暗闘が起きる。この争いがどうなるか考えると、自由に傾くことは時勢の影響であり、自動主義が勝つと思われる。しかし治める側に立つ者が、剣の力によって他力教育を守れば存続する。自由に考える人が多数になった時には、サーベルで他力教育を支えるほかに道はない。他力教育を存続しようとすれば、人々の反感を増すことになるだろう」
*** きょうの教養 (丘浅次郎④)
◎自然 「自然を征服したことは人類の最も誇りとするところである。人類は自然を征服したことを、何よりの手柄と心得、文明の進んだことを得意として今後ますます競って自然を征服しようと努めている。しかし、ここに一つの疑問がある。自然は人類に征服されるだけで、人類に復讐を企てることはないだろうか。我々が自然を征服したと得意になっている間に、あたかもシロアリが寺を食べるように見えないところで仇討ちをしようとしていることはないだろうか」
「自然には一定の理法があって、これを破る者は必ず罰せられる。例えば森林の樹木を全部切ってしまえば、山が丸裸になって雨水を吸収しなくなり、雨降りの度に洪水になってしまう。工場から汚物を川に流せば、その先で魚が獲れなくなって土地の産業は絶えてしまう。これらは知識が足りず先見の明がないために起こったもので、人智が進めば同じ過ちを避けることができる。結果を取り消すことも不可能ではない。自然の復讐としては軽いものである」
「自然の復讐の最も残酷なものは、人間の社会生活の不条理に起因するものである。蒸気機関も水力発電も人間のなしえた自然の征服としては立派なものであるが、後から見れば貧富の格差を激しくするために作られたかの感がある。欧州諸国で貧富の差が生まれたのは、蒸気機関が工場に導入されて以来であり、蒸気機関は貧民製造機関ということもできる。蒸気機関で多数の貧困者が出るのは、社会の制度に不条理な点が存在するからだ。富者が富み、貧者が貧しくなれば、富者は自然の生活に飽きて不自然なことを試みる。貧者は生活の困難なためにやむを得ず不自然なことを行うであろうが、これに対して自然は必ず復讐する。多くの社会問題が起こったのは、人間が身分も顧みず無謀に征服して勝ち誇ったため、激しい復讐を被っているともいえる」
*** きょうの教養 (丘浅次郎⑤)
◎戦争 「私は何事も生物学的に考えるが、生物の世界に絶対の平和は到底ありえない。瞬間の平和は至るところに見出されるが、長く平和が続くことは生物学上不可能である。私の主張は事実を述べるだけであって、こうあって欲しいというわけではない。私は主戦論者ではなく、戦争の悲惨さを痛切に感じている。戦争を好む者は戦争で巨万の富を得ようという実業家か、国民に一致団結を強いて国内の政敵の攻撃を鈍らせようという政治家の他にいないだろう」
「平和論が実行できるかどうかは、人間は意思次第で何事もできるかどうか、で決まる。人間はほかの動物と違って自由の意思がある。すべての人間が戦争しないと決心すれば、戦争がなくなると考えている人にとって、平和論は実行できる真面目な議論である。しかし意志は自由といっても一定の際限があり、人間はほかの生物と同様、どこかで競争は免れないと考えるものから見ると、平和論は現実性の乏しい夢と思われる」
「人間の生存競争の単位は、国家社会と個人で、それぞれ争っている。国家同士の戦争が始まれば、挙国一致となって個人間の競争は力を失う。戦争が終わって平和な時代になれば、個人間の競争が激しくなる。競争単位として国家社会が主になるか、個人が主になるかは、時計の振り子のように一方に行き過ぎたと思うと、元に戻る状態だ。個体を生存競争の単位とする個人主義が盛んになると、必ずそこに国家社会を生存単位とする国粋主義が現れ、暴力を用いてもこれを破ろうとする。海岸の波は寄せたり返したりしている間に潮が次第に満ちてくるように、人間の生存競争は国家社会と個体の間を彷徨しながら次第に個体間に傾いて行くであろう」