中高生のための哲学入門(2023年9月25~29日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (中高生のための哲学入門①)

今週は「中高生のための哲学入門」(ミネルヴァ書房、2022年)から紹介します。著者の小川仁志さんは山口大教授ですが、京大法学部、名古屋市立大大学院などを卒業し、伊藤忠商事に入社。体質にあわずに退職して、フリーター、名古屋市役所勤務という異色の経歴を持った人です。引きこもりの時期もありました。本の第4章「自分なりの答えを見つけ、育ててみよう」から抜粋します。平易な言葉に触れて、哲学してみて下さい。

◎与えられた答えを疑う  最初は疑うことから始まります。常識や思い込みを疑うのです。そうしてはじめて私たちは考え始めます。逆に言うと、普段私たちは考えずに過ごしているのです。何を見ても何を扱うにしても、その対象を直接受け入れるか、素通りするかです。考えるためには対象の前で立ち止まり、その周りをぐるぐると巡る必要があるのです。考える時、私たちは「ちょっと待てよ」と言うのです。

忙しい日常の中で私たちは、考えることを忘れてしまっているのです。小さい頃は自然にやっていたはずなのに。きれいな花を見つけたら、わざわざそこに戻って、きょろきょろと見つめる。私たちの周りには考える材料がたくさんあります。子供にとって自然はまさに考える素材の宝庫です。人工的なものは生活を便利にするために作られたものです。だからできるだけ考えなくていいように設計されています。誰でも楽に使えるというのはそういうことです。それで考える機会が失われてしまいます。自然に返ると、アナログな道具を使うと、私たちは必然的に考えざるを得なくなるのです。

人間は眼に見えないものを見ることができると思っています。想像するということです。哲学者の鷲田清一さんは著書で「意識的に視界をこじ開けなければ、世界が見えるようにはならない」と書いています。どうすれば本物の本当の姿が見えるのでしょうか。鷲田さんは対象の背景にあるものを想像することによってできるといいます。想像するためには、具体的にはいろんなことを知ることで可能になります。想像するといっても元になる素材がなければ不可能です。素材が多ければ多いほど、想像しやすくなるのです。似て非なるものを発見するトレーニングも重要です。日頃から、何に似ているか、誰に似ているかということを探すようにしていれば、想像するセンスが磨かれていきます。違うものを同じように見るには想像力がいります。話し方でも絵でも真似がうまい人は想像力もあります。

*** きょうの教養 (中高生のための哲学入門②)

◎視点を変えれば不可能が可能になる  視点を変えるには、複数な思考回路が必要になります。人間は通常、一つの思考回路で考えます。道を一つ選んで、そこをずっと歩いているかのようです。視点を変えるとは、今歩いている道から別の道に移ることです。私たちが視点を変えようとしないのは、メリットを感じないからだと思います。視点を変えれば得をすることがいっぱいあります。メリットを教えてくれる学問が哲学です。日本では一部の人しか哲学を学びません。それも視点を変える思考法ではなく、歴史上の哲学者の言葉を分析するものです。

哲学で一番大事なものは、この視点を変えることだと思います。普段とは別の見方をすることで、初めて本質が見えてくるのです。別の見方をするだけで答えが立ち現れてくることもあるのです。入り口が塞がっている時、裏口に気づけば、それだけで問題は解決します。私の好きな言葉にカルタゴの名将ハンニバルの名言があります。あっと驚く戦術で勝ち続けてきた将軍ですが、「視点を変えれば不可能が可能になる」といっています。

視点を変えるにはどんな方法があるでしょうか。究極は神様でしょう。神様には全部見えているはずです。神を信じるかどうかという意味ではなく、あらゆる物事を知る存在があるとして、それを神と呼ぶという話です。私は常に神様を想像し、神様ならどう見ているかと考えるのです。すると無数の視点が浮かび上がってきます。長い時間をかけていろんな視点で物事を見る経験を積み重ねたことで、視点のストックができ、神様の想像ができるようになりました。ドイツの哲学者ヘーゲルは「絶対知」という言葉を使いました。人間が経験を経ることで神様のような知に達することができるということです。

*** きょうの教養 (中高生のための哲学入門③)

◎言葉は世界の設計図   哲学のプロセスの締めくくりは、言語化です。いろいろな視点で捉えたものをある程度似たような内容ごとにまとめて言葉にする。恣意的に好きなものや面白いものを集めて再構成する。本質が偏ってしまうと思うかもしれませんが、物事を捉え直すことは別の見方をすることに過ぎないのです。本質を捉えるとは、これまでより広い視野から眺めた上で、別の切り取り方をすると思えばいいでしょう。好きなように切り取ればいいのです。捉え直した新しい世界を新しい言葉で表現する、それが哲学だと思うのです。考え抜いて世界を新しい言葉で捉え直す。気楽にやってみればいいでしょう。

新しい言葉で捉え直すことは、違う世界に住むことを意味します。一つの物を新たな言葉でとらえ直した瞬間から、世界は別の世界に変わるのです。例えばペン。単なる筆記用具ではなく、「心をかたちするもの」ととらえ直せば、素晴らしい変化になります。人生がほんの少し良くなったような感覚を覚えます。世界は言葉でできています。周りには、机、ペン立て、消しゴム、パソコン、カバン、ドア、窓、本があり、それぞれの言葉がある。だから私たちはそれぞれのものを区別できるのです。

名前が同じなら、同じものになります。フランスでは蝶も蛾も「パピヨン」という同じ名前ですから、両者を区別することはありません。私たちはモノではなく、名前で区別しているのです。哲学した結果、その物事をどんな言葉で表現するかがすごく重要になります。言葉のセンスが要求されるのです。いい言葉は外見も中身も整っていることになります。哲学は概念の再定義をします。

*** きょうの教養 (中高生のための哲学入門④)

◎哲学的対話をしてみよう  哲学は対話から生まれました。対話によってより効果を発揮します。対話は複数の視点を提供してくれます。自分で別の視点を引っ張り出してくるのは難しいですが、他者との対話の場合、基本的に相手の答え、存在そのものが別の視点なのです。

対話は相手としているようで実は自分としているのです。対話を言葉のキャッチボールに例えますが、正確にいうと、思考のキャッチボールであり、餅つきのようなものでしょう。キャッチボールする時のボールは変化しませんが、対話で交換する思考は変化していきます。発展し、進化し、完成に近づいていくのです。2人でつくお餅のようです。ひとりが杵をつき、もう一人が合いの手を入れて餅をひっくり返します。そうした作業を繰り返すことで、初めてお餅が出来上がるのです。 

対話で思考を発展させていくためには、相手の返答に切り込みを入れます。相手は切り込まれた口をふさいだり、もっと開いたりして中身を説明します。いい対話は切れ込みの入れ具合が見事です。大きく分けると①ひっくり返す②深める③分割する④付け足す⑤まとめる、という5つの切り込みがあるように思います。①は否定したり、反対のことを言ったりする。②は具体的に聞いたり、別のものにあてはめたりする。③は場合分けする。④は内容を付け足し、⑤は抽象的に表現するということも含まれるでしょう。こうした切り込み方をすることで、相手は反応せざるを得なくなります。

私は長年哲学カフェを続けていますが、3つのルールを設定しています。「難しい言葉を使わない」「人の話をよく聞く」「全否定しない」です。難しい言葉を使うと、他者の視点を生かすことはできません。よく聞かないと意味がありません。全否定すると、そこで話が終わってしまいます。盛り上がらないと思考は発展しません。

*** きょうの教養 (中高生のための哲学入門⑤)

◎自分なりの考えを持つ  哲学はものごとの本質を探求する学問で、答えは人によって変わってきます。もし誰もが同じ答えしか持たなかったらどうなるでしょうか。それぞれが考えた結果、偶然同じ答えを持つというならいいでしょう。誰かに仕組まれたり強制されたりして同じ答えを持つのは問題です。歴史上、実際に起こりました。全体主義と呼ばれます。そんな体制が出来上がってしまうと、誰も止められません。最初は恐怖によって同じ答えを持つようにされ、次第に誰も疑問を持たなくなって当たり前になってしまうからです。戦前、ナチスドイツや日本もそうだったのです。常に何らかの否定の契機がないと、物事が発展しないのです。反対の契機をアンチテーゼと呼びます。哲学者ヘーゲルの弁証法では、アンチテーゼという反対の事柄や問題を克服して物事が発展すると考えます。

民主主義に置き換えると、少数者の声に耳を傾けることです。それぞれが異なる答えを持つべきで、意見が社会を変えてきました。誰も言わなければ何も変わりません。誰もが口をつぐんでしまったら、永遠に変わるきっかけを持つことさえないでしょう。自分が言わなければ変わらないということを肝に銘じておくべきです。その際、人と同じ事を言っても意味がありません。議論するときはほんの少しでも異なることを言う必要があります。人生も違えば体も違いますから、全く同じ考えにはならないはずです。意見は「異見」であるべきだというのはまさにその通りです。

全体主義では議論の機会は一切ありません。きちんと議論する機会が確保されれば、おかしなことにはならないのです。議論はあらゆる可能性について検証するプロセスでもあるからです。多数決は時間が限られていることからやむを得ず取られる技術的な措置にすぎません。時間が許せば、議論するべきなのです。そのためにも自分の意見を持つことは永遠に求められるといっていいでしょう。