人生を狂わす名著(2023年11月20~24日)
*** きょうの教養 (狂わす名著①)
今週は「人生を狂わす名著50」(2017年、ライツ社)から5冊を紹介する。著者は三宅香帆さんで、京都大学大学院人間環境学研究科に在学している時に執筆した。京都天狼院書店に勤務している。「社会や世界に流されなくなる本」を選んだという。独特の見方と表現による批評が何とも面白い。
◎「グレート・ギャツビー」(1925、スコット・フィッツジェラルド)
本文引用:「隣家からは、夏の夜を通して音楽が流れてきた。青みを帯びた庭園には、男たちや娘たちがまるで蛾のように集まって、ささやき、シャンパンや、星明かりのあいだを行きかった」
寸評:この世のロマンチストな男の人全員へ。スマートな晩年か、向こう見ずな青春か。憧れは手にした途端消えてしまう。それでも・・・。全世界の男のロマンを結晶させたアメリカ文学史に輝く華麗なる一冊。村上春樹も絶賛した。
批評:小説の舞台は狂乱の1920年代のアメリカ。主人公が引っ越してきた先で出会ったのは、夜な夜な狂ったように開かれる豪勢なパーティー。主催者はギャツビーと名乗る男。実はギャツビーには長年ひっそりと片思いをしている相手がいたのです。それがデイジーという昔出会った美しい女性。手段が汚かろうが醜かろうが気にしない。けれどその先に求めるものは限りなくピュア。このギャツビーという男。女側から見たらね、「あなたいったいきれいなのか、汚いのかはっきりしてよ」と言いたくなるやつです。
けど実際、男の子ってこういうもんなんでしょうね。心の内側は異常なまでにロマンチストなのに、スマートでクールに見せかけて、実は結構ダサくて。そしてそれが女からすれば、よく見えちゃうんだから男の子ってずるいんですけど。男の子って、つまりは憧れの女の子が欲しくて、自分が一番強いって言う称号が欲しくて、まだ見ぬ素晴らしい脚が欲しいってこと。バカだけど愛しい「男の子」を真っ向から、これ以上ないくらい美しく描いた小説です。
*** きょうの教養 (狂わす名著②)
◎「愛という病」(2010、中村うさぎ)
本文引用:「『女の病』とは、畢竟、ナルシシズムの病なのである。女のナルシシズムは、他者の愛によってしか満たされない。それは女が自分を『他者の欲望の対象』として捉える生物だからである。女は他者の欲望を求めることによって自己を確立し、同時に、他者を無化するモンスターなのだ」
寸評: 「女という性」がよくわからなくなってきたあなたへ。愛したいか、愛されたいか。ホスト狂い、整形、デルヘリ嬢・・・女という欲望の謎を中村うさぎの壮絶な実体験から知ることができる一冊。
批評: 中村うさぎは、それを言っちゃ元も子もないということをどんどん書いていく。日本の女性エッセイストの先頭を走る。書いているのは決してキラキラしたライフスタイルなどではなく、内容は、血が吹き出して泥が飛び、読者も流血するわ、作者は返り血と自分の血両方に濡れるわ、その辺一面血の海にしてしまう凄まじい文筆活動である。
ふつうの人だったら「いや、これ以上は人としてやばいでしょ」と怖じ気づいてしまうところで、「ここから先を見たい!」と叫んで、踏み込んでしまう。 中村うさぎの刀は、何よりまず、斬られる痛みと傷口の深さを自らに課す。そしてちゃんと他人も斬る。凄まじい切れ味で。「痛いよね、わかる、わかる」と笑いながら。
ここまで切実に「女とは何か?」を考えている人がいることに読者は救われる。私は世の中の女の人みーんなに読んで欲しい。ジェンダーフリーが叫ばれる昨今だからこそ、社会的な意味の「女」というものが複雑になってるなぁ、と感じる。女であるということの輪郭がぼやけ、よくわからなくなっている。女という属性に縛られる必要はないけれど、そもそも自分が人間である、というレベルで社会的に女という性は存在する。やっぱり中村うさぎを読むべきだ、と私は思う。苦しんでいるのは自分ひとりではなく、こうやって問いを追いかけ続けている人が本を出してくれているんだから。
*** きょうの教養 (狂わす名著③)
◎「ティファニーで朝食を」(1958、トルーマン・カポーティ)
本文引用:「以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド72丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。戦争が始まってまだ間もない頃だ」
寸評:本当は、自分に正直に生きていきたいあなたへ。世間の善か、自らの善か。ニューヨーク、恋心、まるで猫みたいな美女。イノセンス(無邪気)をめぐる、きらきらと切ない小説。規律や常識を守ることが嫌になったときに読みたい一冊。
批評:舞台は第二次世界大戦下のニューヨーク。小説家志望の「僕」の部屋のちょうど真下に部屋を借りていたのはホリー。16歳にも30歳に見える美しく自由な空気をまとう彼女は、ニューヨーク社交界を気ままに歩いているらしい。ホリーの部屋にはいつもたくさんの男が出入りしている。彼女の素性は謎のまま、僕もまた彼女の魅力に惹きつけられていく。
何も所有したくない、身軽でいたい、責任なんて負いたくない、ティファニーみたいな自分がぴったりと自分でいられる場所を見つけるまで、とホリーは言う。こういう気持ちわからない人なんていないんじゃないだろうか。責任は重いし、年を取ったり人生を重ねて行ったりすることは、重さを変えていく作業だ。日々増えていく所有物を全部手放して、「私は私だ」っていいたい気持は痛いほどわかる。同時に僕は、ホリーにどうしようもなく惹きつけられながら、同時に遠ざけたいけど、また引きつけられと逡巡する。この気持ちもすごくわかる。
「善きこと。自らの則に従うこと」という部分が一番好きだ。戦時中のニューヨークへ足を運ぶことができない私も、どこかで自分なりのティファニーに代わる場所を見つけたい。それはガンを抱えるくらい危険なことかもしれないけれど、不正直なものに殺されるよりマシだ、と思ったりするのである。
*** きょうの教養 (狂わす名著④)
◎「ヴィヨンの妻」(1947、太宰治)
本文引用:「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」「女には、幸福も不幸もないものです」「そうなの? そう言われると、そんな気もしてくるけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」「男には不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」/「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」
寸評:太宰治の言葉に殺されたい人へ。女はやさしいか、女はこわいか。日本文学史上最高にキャッチーな「太宰の殺し文句」で、男のクズさと女の冷たさを楽しむ短編小説。旦那さんを見放したくなった時、奥さんに見放されそうになった時に読みたい一冊。
批評:小説の語り手は、ある詩人の奥さん。自称詩人の「大谷」という男、一切お金を稼いでこない上に、酒飲みだわ、遊び人だわのどうしようもない旦那。 2人の子供は病身で発育の悪い4歳児。そんな日常を、奥さんはたんたんと語る。大谷は妙に優しくなったかと思いきや、突如失踪してしまう。料理屋からお金まで盗んだりする。困った奥さんは子どもを連れてその料理屋で働く・・・あとは短編を読んでほしい。
要はクズな夫とそれでも家庭をなんとかする妻の話である。しかしこの旦那に対して奥さんは悲壮感や嫌悪感を出さない。語り口はどっちかっていうと、かなりユーモラスな類である。天然かしらこの奥さん、と読者が思ってしまうほどに。
「女には幸も不幸もない」。この言葉のひんやりとした感触よ。そして「そんな気もしてくる」という奥さんよ。この小説の、どこまでいっても冷たい、だけど表面上は明るくユーモアをもって生きている。その狂気と常識の絶妙なバランスが好きだ。太宰の殺し文句を挙げればきりがない。「恥の多い人生を送ってきました」「威張るな!」「メロスは激怒した」。「日本文学史上もっともキャッチーな言葉を生んだ大賞」は太宰治にあげよう。
*** きょうの教養 (狂わす名著⑤)
◎「ぼくは勉強ができない」(1993、山田詠美)
本文引用:「ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行くたくさんのばつを、ぼくは、ゆっくりと選び取って行くのだ」
寸評:カッコわるい大人になりたくないあなたへ。学校の勉強か、人生の勉強か。不良じゃなくても、優等生じゃなくても、そのどちらでもない自分でも、社会で「自由」でいられる方法を教えてくれる青春小説! よく読書感想文の題材にもなる。10代のうちに読みたい一冊。
批評:イケメンでモテる高校生・秀美くんを主人公とし、周りの人たちの関わりを描く物語だ。カッコいい主人公の周りには、それ以上にカッコいい女の人がたくさん出てくる。秀美くんはおちゃらけているように見えて、実はいろんなことを感じ、まっすぐ考えている。学校の廊下にコンドームをうっかり落としてしまい、生徒指導の先生に激怒されてしまった場面もある。大人になると、誰かや何かに「決められたあと」の価値を知ることが多い。結局、世の中の価値基準に合わせるからこそ守れるものが山ほどあることに大人は気づいているからだ。大人だってバカではない。普通の人はバツをつけたがる。あれはダメだ、これをよくないと思うことで、自分を守ることができるから。バツつけた何かの上こそ、安心して立っていられるように感じられるから。
だけど秀美君はその上で、さらに自分は「丸をつける」のだ、と決めていく。もう大人になってしまった私は、この鮮やかさに唸ってしまう。大人になると取りこぼしてしまいそうになるたくさんの素敵さを、この小説は思い出させてくれる。思いやりとか自然体とか、世間で適当に使われる言葉に隠された、本当に大切なことを。この小説を読めば、私は秀美くんと一緒に勉強することができる。秀美くんは小説の最後に言う。「ぼくは勉強ができる」と。