司馬遼太郎の戦国武将評(2023年5月8~12日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (司馬遼太郎の戦国武将評①織田信長)

今週は、司馬遼太郎の戦国武将に関する人物評を特集する。週刊朝日に長期連載した「街道をゆく」で、日本各地の紀行文を書いた。そこに登場した文章を紹介する。教科書には載っていない評価と、司馬独特の表現を味わってほしい。わかりやすくするため、同じ文意で表現を変えた箇所もある。先週と今週で「三方ヶ原合戦」を取り上げる大河ドラマ「どうする家康」にあわせた。

◎織田信長 織田信長の世界観は、家康などと比べると比較が気の毒なほどにいきいきしている。信長は極東の孤島の一隅で生まれた人間でありながら地球のかなたのイスパニア人やポルトガル人によっておこされた大航海時代という世界史的な動向をいち早く嗅ぎ取り、疑いもなくその潮流に乗った人物であった。農本主義よりも貿易による国家経営に魅力をもち、それに手をつけ、しかしながら中道で倒れた。

信長は、世界史的に見ても最も早い時期に出た積極的無神論者である。中世を支配してきた不合理を憎み、粉砕した。商品経済が盛んになっているのに、商品の製造・販売権を社寺が握り、他者の参加を許さなかったのを、本拠の美濃で自由商業(楽市・楽座)をひらき、広げた。中世的なものを壊してしまう最も強力な破砕機のひとつが楽地・楽座であったろう。

宗教軍団が軍事化することも中世の特質であったが、信長はこれを病的に嫌った。比叡山を攻撃し、本願寺嫌いを見てもわかる。

*** きょうの教養 (司馬遼太郎の戦国武将評②武田信玄、伊達政宗)

◎武田信玄 金(きん)を探して掘り出すという面で、甲斐(山梨県)の武田信玄はずば抜けていた。当初、甲斐という峻嶮(しゅんけん)と急流の多い土地から米の取れ高を増やそうとし、治山治水を盛んに行った。信玄はその事業から見ても、半ば農業土木家であったといえる。

土木技術は容易に鉱山技術に転換できたというのが専門家の説である。「甲州流」という言葉が、江戸期でも尊敬をこめて称せられた。農業土木、鉱業土木全般を通じての甲州のやり方を甲州流という。 それまで日本では黄金は砂金の形で採った。信玄の時代になって大いに「山金」を生産した。

◎伊達政宗 関ヶ原の合戦で家康の世が始まり、戦の世が終わると、正宗の意識は「領国」に拘束された。仙台62万石を豊かにすること以外、考えなくなった。仙台に城と城下町がつくられた時、すぐれた詩人でもあった正宗は、和歌一首を詠んだ。

「入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」

この国土経営の意識が、北上川のつけかえという壮大な土木事業になってあらわれた。

*** きょうの教養 (司馬遼太郎の戦国武将評③豊臣秀吉)

◎豊臣秀吉 「大領域をおさめる城下は海港を持つべし」。これが秀吉の国土経営の新思想であったと思える。それまでの勢力圏の一番大きな町は、海から離れている。海に面した土地へ意図的に進出してそこに大城郭をつくった最初の人は、秀吉であった。

秀吉は商人の親方であった面がつよい。政権の財政基盤の大きな部分を、堺と博多といった貿易収入源に置いた。所領を比較してもわかる。徳川政権の直轄領は600万とも800万石ともいわれているが、あれほど豊かであった豊臣政権の直轄領はわずか200万石あまりにすぎなかった。秀吉は農村を収奪して米穀をもって財政の基盤とするより、海外貿易に魅力を感じる政治家であった。同時に世界史的潮流の中での時代の申し子だったことがわかる。

秀吉が死ぬ。絶対権力を樹立した人物は、史上まれなほどの孤独な権力者だった。平家の清盛や源氏のような一門をもたず、早く他界した秀長をのぞいて兄弟をもたず、ひとりの妾腹の幼児のほかは子すらもたなかった。家康のように先祖代々が培養してきた郎党ももたなかった。そうでありながら、ただ一個の力で絶対権力を維持したのは、奇跡に近い。

*** きょうの教養 (司馬遼太郎の戦国武将評④石田三成、毛利元就)

◎石田三成 関ヶ原の戦いで、もともと石田三成の挙兵には無理があった。豊臣家における彼の地位は総務局長程度にすぎず、その石高も近江佐和山で20万石に満たなかった。ただ彼には、打算の時代である戦国に成人した人間としてはめずらしく理念があり、義の観念がつよかった。義という徳目には、無理がともなう。ふつうの利害や保身の感覚からいえば為しがたいことをするのが、義である。三成は、豊臣期の大名のなかで、加藤清正とならんでもっとも民政に留意した人物であり、農民からも慕われていた。

◎毛利元就 戦国末期、中世的政治感覚ではいたって御しがたい門徒をみごとに御して一度もトラブルをおこさなかったのが、毛利元就である。元就研究で、このことにふれた書物が一冊もないのは、惜しいといわねばならない。本来さまざまな欲求や価値観をもつ領民に対し、元就は温和な政治態度をつねにくずさなかった。こういう態度のなかに、安芸(広島)門徒に対する彼の感覚や対処の仕方もふくまれているとみていいだろう。

*** きょうの教養 (司馬遼太郎の戦国武将評⑤徳川家康)

◎徳川家康 徳川氏、三河武士団のよさも悪さも、百姓の原理の上に立っていたことである。尾張という流通のさかんな土地で成長した信長や秀吉は商人の原理と機略をもっていたが、家康はそういうところがすこしもなく、あくまで山村の庄屋さんの原理でその生涯を終始した。信長・秀吉という商人が倒産したあと、庄屋さんが出てきて自分のものにし、徳川帝国というものを庄屋の原理でつくりあげた。鎖国も庄屋の原理であり、四民の階級を法制化したのも農民の感覚であり、家康のそれらを意識的に平定の原理であるとし、死ぬ前に「三河のころの制度を変えるな」と遺言し、天下統治の法制的原理としたのである。その点、変わったおっさんであった。

秀吉政権を継承した家康は、対外伸張主義はなかった。対外侵略など百害あって一利なしとよく知っていた。つねに自他についての安定した計算能力が働いていた。

徳川の大名配置は、中国・四国で石高が大きく、東にゆくにつれて小さくなっていく。西から外国勢力がやってくるという想定が、計算の中に十分入っていたと思われる。朝鮮とも修好した。その思想を官僚たちにも徹底させたはずである。この方針は、江戸期を通じて不動のものになった。秀吉の侵略によって荒廃させられた朝鮮は、日本への復讐の余力を持たなかったが、宗主国である明に報復を依頼する可能性が絶無とはいえない。家康の対朝鮮修好の手厚さも十分に考え抜かれたものであったにちがいない。 

家康は可能な限りの周辺国の情報を吸収していた。家康の死は、徳川体制における唯一の外政家の死でもあった。対外情報をあつめるだけでなく、それについての判断もした。判断の能力をもつ唯一の人物であったかもしれず、日本国の方針、対応を決める唯一の人でもあった。