戦後知識人の肖像①(2023年12月18~22日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (戦後知識人の肖像①)

今週と来週は、粕谷一希著「戦後思潮 知識人たちの肖像」(日本経済新聞社、1981年)から、10人を紹介する。粕谷氏は中央公論編集長を務めた人で、戦後に影響力を持った人たちを縦横に論じている。人物評とその表現は味わい深い。

◎ジャーナリスト石橋湛山  石橋湛山(1884~1973)は岸信介と自民党の総裁を争った。勝利して石橋内閣が成立したが、病を得て即座に辞職ししたため、戦後史の中では明瞭なイメージをもっていない。けれども石橋湛山全集が刊行された頃(1970)から、湛山再評価の声は次第に高まりつつある。

明治・大正・昭和の三代にわたって、「東洋経済」によって展開された言論活動の卓越した予見能力と一貫したリベラルな態度があった。学者はその体系的思考と原理原則の尊重によって、常識を超える場合があり、作家は感受性と直感にかけることで、時として世間常識を逸脱する。それはその役割からして必要な場合もあるのだ、といえよう。それに比べるとジャーナリストは、世間とともに呼吸している。呼吸する中で、批判的姿勢を貫くことが要請される。批判的でありつつ、実際的でなければならない。ある意味で学者や作家の歩みより困難な側面がある。

湛山の周辺にあった清沢洌、高橋亀吉、小汀利得、嶋中優作といった在野ジャーナリストの自由主義を再検討してゆくことは、むしろこれからの課題であろう。多様な雑誌ジャーナリズムの個性的活躍を、近代日本思想史の文脈の中で位置づけてゆくことは、日本の世論形成の中で、新聞ジャーナリズムと異なった次元の視野を開拓することになるだろう。戦後日本の政治は、吉田茂の設定した路線をほぼ歩んできた。それは貴族的自由主義に発した官僚政治であった。もし石橋湛山の内閣が何年かの寿命を維持していたら、その後の日本はかなり様相の違ったものとなっていたであろう。国際社会での日本の主張と与野党の対立と協調に、もう少し豊かなスタイルが成立したように思われる。

*** きょうの教養 (戦後知識人の肖像②)

◎吉田茂の国際感覚  戦後日本が政治的指導者としてたまたま吉田茂(1878~1967)を選んだことは、幸いであったと言わなければならない。状況が複雑であるほど、判断と選択は簡明であることが望ましい。幣原喜重郎内閣の後、鳩山一郎の追放という予期せざる事件から首相の座についた吉田茂には、政党政治家としての経験は皆無であった。けれども、職業的外交官として国際的交渉の能力と経験を持っていた。

日独伊軍事同盟に身を賭して反対するという国際社会での日本の方向に確たるビジョンを持っていた。日本の軍事占領という未曾有の事態にあって、要請された資質はまさにそうした信条と能力であった。占領軍を相手に吉田茂の示した政治技術は不屈さと機敏さを兼ね備えたものであった。それは頑固と諧謔と韜晦に包まれて、多くの誤解も生んだ。選挙を通して民衆との接触の中から、自らのスタイルを形成する政党政治家とは異質の自由主義であったために、野党と世論の敵意が強かった。社会党育成論を唱え、多数を割ったときは政治工作を弄することなく下野した。議会政治の原則を守ったのである。

戦後における吉田茂の最大の決断と選択は、講和条約締結と日米安保条約体制の確立である。「アングロサクソンもしくはアメリカを敵に回すべきではない」という彼の歴史的経験からくる簡明な国際政治観の延長上にあったものであろう。この決断は戦後最大の反対と抵抗を受けた。野党、世論、知識人は、ほとんど反対に回った感がある。「戦争に巻き込まれる危険」「米国への従属体制の固定」「再軍備路線反対」の大合唱の中で、彼は判断を変えず、条約の署名は彼一人の責任を明示するものであった。彼の基本的判断は、日本の政治的安定をもたらし、軽武装国家を実現し、経済復興への自由な活力を解放した。

*** きょうの教養 (戦後知識人の肖像③)

◎精神の修辞学・丸山真男  丸山真男(1914~1996)の「超国家主義の論理と心理」(「世界」昭和21年5月号)の出現は、新鮮な衝撃力において、坂口安吾の「堕落論」と対比される。敗戦によって大日本帝国は実態としては崩壊していた。けれども、虚脱した日本人は何が終わったのかについての明確な自覚がなされていなかった。丸山の一文によって目から鱗が落ちた青年学徒は極めて多い。文章の影響がこれほどの起爆力をもち得たことは稀であろう。超国家主義-天皇制国家の支配の構造を、論理と心理の次元にまで掘り下げて解析した手法は、脳外科医の手術に似た効果を発揮した。

戦後思想界への丸山の登場は、独自な姿勢と内容によって影響力は複雑な奥行きと広がりを持った。第一は「科学としての政治学」に示された挑戦的問題提起によって、戦後政治学と政治学的思惟の展開の出立者となったこと。第二は、思想史家として荻生徂徠、本居宣長に始まる近世思想、近代思想が、在来の文脈と異なる斬新な視点から照明を当てられ 、戦後思想史学の出立者ともなったこと。第三は、「ある自由主義者への手紙」に明快に表明されたように、急進的自由主義者として、共産党をも含めた連合戦線を志向したこと。「秩序よりも正義を!」を基本的態度とする政治的イデオロギーの役割を担ったこと。第四は、豊かな人文的素養と巧みなレトリック、ダイナミックなスタイルによって、新しい知識人・思想家の象徴的地位を獲得していったこと。

思想家丸山の魅力が、シャープな問題意識と方法意識の結合にあることは当然のことだが、文体の魅力を無視することができない。対話形式、手紙形式をしばしば採用していることからもわかるように、丸山の発想は日常的・状況的事象への実感的省察から始まり、相手への対話的・論争的論理へ展開していき、最後に認識と価値判断の禁欲的緊張関係を超えて、明快な男性的態度決定に到達する。こうした発想と思考の過程を明示することは、出発点において文士の実感的アプローチに近く、到達点において哲学者の価値判断に近い。精神の貴族主義と政治的ラディカリズムの結合を志向した見事な知識人像の典型として、存在しているのである。

*** きょうの教養 (戦後知識人の肖像④)

◎大塚久雄の信仰と学問  大塚久雄(1907~1996)の学問と人格は、丸山真男とともに戦後思潮で光彩を放つ二つの星である。丸山の基礎が政治学と思想史学にあったとすれば、大塚の基礎は内村鑑三や矢内原忠雄らから受けた宗教的感化という信仰と経済史学の独特な結びつきにあった。大塚の人間学の魅力は、経済史というもっとも散文的領域を対象としながら、それを担う人間的主体を見失わず、歴史を動かす者としての人間類型を信仰との関係においてひたすら追求する態度にあった。

学問は存在と世界に関する体系的認識であり、信仰はその究極的根拠への問いである。人間を生かし歴史を動かすものとしての思想は、自覚的には学問を通し、信仰を介して現れる。丸山や大塚の思想が強固で持続的影響力を持ち続けるのはそのためである。大塚は状況的発言も学問的問題提起としてなされ続けた。信仰と学問への真摯な態度が、一種の信仰告白、思想表明として深い思想的感化をもった。

もう一つ留意すべきことは、昭和十年代の思想的主役が、哲学・史学・文学という領域から出たのに対し、丸山と大塚の出現によって、社会科学が思想的主役にとって代わったことである。社会学、社会心理学、法社会学といった新しい学問が続々と登場し、マルクス主義に基づく社会科学が支配的風潮となった流れの中で、有無を言わさぬ中核として、戦後思想の新しさを克服したものは丸山政治学、大塚史学の存在であったといってよい。

丸山と大塚に共通した「近代的市民意識の成熟」という日本人への倫理的要請は極めて高度であった。戦後日本の精神風土は、革新陣営も、現実に経済成長を担った経済人たちも、その要請にこたえる内実を持っていなかった。そのことが2人の思想家の、予見者としての悲劇的色調を強める。けれども、こうした精神の出現と存在自体に、我々は未来への道標を見ることが可能なのである。

*** きょうの教養 (戦後知識人の肖像⑤)

◎今西錦司--野生の思考  今西錦司(1902~1992)の存在は、戦後思想の流れの中で、当初は極めて目立たない地味なものであった。けれどもその学風の独創性において、また人脈と影響力の末広がり的な発展において、他の追随を許さないものがある。自然を愛し、日本探検に熱中した今西は、青春の体験をそのまま学問の方法に高めたところに最初の独自性があった。実験室での死体解剖ではなく、野外での生物の生態をあるがままの形で観察すること、それを自然科学の方法とした時、独自の学問の展開は約束されたと言えるだろう。

在来の生物学における自然淘汰は、適者生存というヨーロッパ的観念であった。今西の提出した「棲み分け理論」は、生物の共生を強調する点で世界のイメージの根本的転換を要請する。独断的推測をたくましくすれば 、19世紀の帝国主義イデオロギーがダーウィニズムの世俗的解釈と無縁でなかったとするなら、今西理論はマルクス主義とは全く異なった視点から、妥協的産物でない本来的な人類の平和共存の理論的基礎たりうるはずである。

人類学はその発生過程と性格において、基本的に歴史学と対立する。歴史学的思惟が時間の学問であるとすれば、人類学的思惟は空間の学問である。歴史学が文献学であるとすれば、人類学は文献以前および以後であるということもできよう。歴史学が文献による実証主義へ衰弱するとき、あるいは進歩と発展の史観が崩れる時、人類学は逆に正気を帯び、生産性を高める。哲学・社会科学が書斎の思考に疲れ、社会的実践の中で挫折する時、あるがままの生態観察と野外思考を方法とする人類学は、一種の思考の活性化として作用する。そのスタイルの原型を確立した存在として、今西はそびえているのである。