日米開戦の書籍(2023年12月4~8日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (日米開戦の書籍①)

12月8日は1941年の日米開戦から82年になる。今年8月に出版された「昭和史百冊」(平山周吉著、草思社)から、開戦に関わる書籍の書評を選び、紹介する。第二次世界大戦に関する知識は、日本人必須の教養といえる。

◎「日本はなぜ開戦に踏み切ったのか」(森山優、新潮選書、2012年)  300万の国民の生命が失われ、国土は焦土と化し、領土は縮小した。この悲劇の序幕である昭和16年の日米開戦という「国策」は、主役不在のままに進行した。本書を読むと、その虚しさがよぎる。国策の決定者たちは、東條英機を含めて誰も大国アメリカと戦いたくはなかった。それにもかかわらず、全員一致で、粛々と、御前会議での決定はなされた。開戦となれば戦闘の主役になる海軍は、悲観的見通しを持ちながら、避戦を明言できなかった。満州事変長期化という自らの失敗に目をつぶる陸軍は、最大の懸案である中国撤兵を断固拒否して譲らない。近衛文麿は日米トップ会談にはかない希望を託すしかない。東條は小さな忠誠心にこり固まって悪しき小役人根性で形式的論理を振り回すばかり。

事態を開戦へと引っ張っていったのは、別に「悪役商会」といった連中ではなく、主役級の下にいた陸海軍中堅層というエリート集団だった。彼らは受験秀才であるばかりか、筋肉と恫喝力を併せ持った官僚中の官僚だった。著者の森山氏は彼らベスト&ブライテストの証言、日記などを丹念に収集し、時系列に並べて突き合わせてゆく。組織的利害を優先し、数字を操作し、辻褄を合わせ、問題は先送りし、と彼らお得意の手法は存分に駆使される。こうして起案し、調整し、折衝し、上司を納得させた「玉虫色の作文」が国策に仕上がっていく。

「開戦3年目からの見通しがつかない戦争は、どうなるかわからないにもかかわらず選ばれたのではなく、どうなるかわからないからこそ、指導者たちが合意することができたのである」と書く。希望的観測に沿ったいびつな選択であったことが一目瞭然である。国難を引き受ける気概と大局観を持った人材が国家の中枢に不在だった。もう一つの困難な条件が加わる。明治憲法体制では、天皇の下で各機関は横並びであり、首相が大臣を罷免することさえできなかった。制度上の不備を補うのは、元老、藩閥の創業者たちだが、三代目の御代では天皇の遵法精神が際立ってしまった。

*** きょうの教養 (日米開戦の書籍②)

◎「経済学者たちの日米開戦――秋丸機関・幻の報告書の謎を解く」(牧野邦昭、新潮選書、2018年)  登場人物たちが所属した通称「秋丸機関」とは、陸軍によるシンクタンクである。著者による「陸軍版満鉄調査部」いう表現は的を射ている。正式名称「陸軍省戦争経済研究班」の名が示すように、日本の戦力を各国戦力と比較し、評価するチームだった。外部から呼ばれた学者たちには有沢広巳(戦後は日本学士院長)、中山伊知郎(戦後は一橋大学長)などがおり、陸軍主計中佐・秋丸次朗は東京帝大経済学部にも学び、満州国の経済建設を進めた軍人だった。

有沢の戦後の証言では「国策に反する」として、報告書はすべて焼却された、となっていた。時間の経過とともに「幻の報告書」は発見される。著者自身も「英米経済抗戦力調査」の一部を古書店で発見し、購入する。報告書はマクロ分析とミクロ分析により、各国の弱点を発見しようとするが、結論は「対英米海戦」が無謀であると示唆される。著者は「南進論」を導き出すためのものだったのではないかと推理する。「秋丸機関の報告書は当時の文脈で言えば、陸軍省軍務局の主張する南進を支持し、北進を批判する材料としての色彩帯びたのである。対米開戦の回避に役立ったとは言えないが、日本がより悲惨な状態になったことは間違いない対英米ソ開戦の回避にも役立ったのかもしれない」と書く。

さらに著者は、戦争論を抑えるために数字や事実を捏造してでも「3年後でもアメリカと勝負ができる国力と戦略を日本が保持できるプラン」を数字を示して明示し、時間稼ぎをしても良かったのではないかとする。「有沢広巳をはじめ多くの優秀な経済学者を動員し、多くの統計を持っていたので、経済学を使ったポジティブなプランをレトリックとして作り上げることができただろう」と指摘する。

*** きょうの教養 (日米開戦の書籍③)

◎「臨時軍事費特別会計  帝国日本を破滅させた魔性の制度」(鈴木晟、講談社、2013年)  国家の事業で一番の金食い虫は戦争である。日露戦争の時に高橋是清が欧米を回って必死にかき集めた戦費(外債)は8億円だった。日本はお金が続かなくなり、賠償金ゼロでポーツマス条約をロシアと結んだ。そのことを思い出せば昭和12年の満州事変勃発から敗戦までの8年間、よく金が続いたものだと感嘆するが、そのカラクリを解明したのが本書である。

「臨時軍事費特別会計」という名の打ち出の小づちがあった。この制度は、昭和12年9月に議会をあっさりと通る。条文はたったの2条。戦争終了までを一会計年度とするというのがみそである。どんぶり勘定でどんどん金額が膨らみ、決算を先延ばし、大蔵省の主計局が査定しようにも軍事機密だからと詳しい内容は開示されない。国会も非常時ということで、実質審議なしで5日ほどで通過してしまう。使った総額は1700億円。日銀の国債引き受けが8割以上を占める。戦時中のニュースや新聞を見ると、「国債を買いましょう」の広告がやたらと目立つ。国は金集めに血眼だったのだ。

戦争は終わった。たまった国債や借入金は2000億円弱。昭和19年に賀屋興宣蔵相が「国家が破れましては、国債の元利償還などは問題にもならない」と答弁している。その通りになるのである。著者は、外交史研究家で予備校講師だが、本書の中で様々な興味深い数字を表にしている。それらは「加減乗除のみ」でできるという。つまり桁数こそ多いが、小学生でもできてしまう簡単な計算なのだ。「臨時」とか「特別」とかの隠れ蓑を使うやり口なら今でもありそうな現象である。

*** きょうの教養 (日米開戦の書籍④)

◎「多田駿(はやお)伝 日中平和を模索し続けた陸軍大将の無念」(岩井秀一郎、小学館、2017年)  近年の昭和史物の収穫と言える傑作である。多田駿という名を聞いても多くの人にはピンと来ないだろう。動乱の昭和史にあって、最も重要な役割を果たそうとして阻まれた無念の軍人である。ほとんど資料が残されていないとみられた多田の事蹟を発掘し、遺族の証言を引き出した。徹底的な探索で、その高潔な生涯と思想を丹念に描いている。著者の岩井はまだ30歳の若者であり、会社勤めのかたわらの調査執筆を知ると、瞠目は何重にもなった。

陸軍統帥部の事実上のトップとして、多田は満州事変の拡大を防ぎ、日中平和に持っていこうとした。昭和13年1月のことである。政府は多田の強固な意見を無視し、「国民政府を相手とせず」と声明を出し、中国大陸で泥沼の戦線にはまっていった。翌年8月、多田は陸軍大臣に決まりかけるが、昭和天皇の忌避によりその人事も立ち消えになった。昭和日本の滅亡を救えたかもしれない二度の機会、その幻の主人公が多田である。

軍人として大陸勤務が長く、中国人をよく知り、日本人の傲慢にも注意を怠らなかった。満州事変を企図した石原莞爾の盟友であり、張作霖爆殺の河本大作は義兄であった。誤解を招きやすい人間関係は、マイナスに働いただろう。満州事変不拡大を主張した時には、秩父宮が部下として支えていた。これも結果的にはマイナスだったかもしれない。昭和13年1月の大本営政府連絡会議で、内閣総辞職をちらつかせた米内光政海軍大臣に対し、多田は「明治天皇は『自分に辞職はない』と言った。国家重大の時期に政府辞職とは何ということか」と涙ながらに訴えた。多田はその後、対立した東條英機によって予備役にされた。戦争中、軍務につくことなく、千葉県館山市で自適の生活を送り、昭和23年、胃がんのため自宅で死去した。

*** きょうの教養 (日米開戦の書籍⑤)

◎「昭和陸軍秘録 軍務局軍事課長の幻の証言」(西浦進、日本経済新聞出版社、2014年)  西浦進は陸軍大佐で終戦を迎え、戦後は防衛庁の初代戦史室長となった。明治34年生まれだから、昭和天皇と同年にあたる。陸軍士官学校では秩父宮が同期だった。西浦には「昭和戦争史の証言  日本陸軍終焉の真実」(日経ビジネス人文庫)という著書もあるが、書く時には筆に抑制がきいてしまう。しゃべりだと座談の味が出て脱線気味となり、陸軍官僚の内実がよくわかる。

陸軍省軍務局という中枢に長く務めた政治官僚で、多くの陸軍軍人に仕え、予算班でお金も扱ったので秘話は多い。「自分で本当の一銭一厘まで出し入れをやったのは、機密費と演習費です。満州事変当時の機密費は全部で14万円だったが、のちには膨大な臨時軍事費で億を超す。東條英機陸相は下に任せず、機密費は絶対に離さなかった」という。西浦は東條が首相兼陸相となった時、陸相秘書官に任命される。

「陸相と首相の兼任は、陸軍の考えではなくて、宮中からの考えではないですか。最初、私なんかも総理大臣が陸軍大臣を兼ねているなんてけしからんという考えだったのですが、陸軍大臣をやめてしまった陸軍大将の総理大臣に陸軍というものは決してつきませんからね」「東条さんは総理大臣兼陸軍大臣で張り切っているのですよ。朝誰も出勤しない時に陸軍省に出勤しているのです。朝7時から7時半ごろにですね」「大臣の議会での演説の草稿とかくると、一応やっぱり秘書官が全部見ます。東條さんは誤読を平気でするので、難しい漢字にはカナをつけたりして、いろいろ裏の努力をします」。聞き取りは、「木戸日記研究会」という東大の教授陣が中心で行われた。西浦が仕えた十数人の陸相のうち、一番聡明だったのは畑俊六だったという。人物の評価はかなりあけすけに話されている。