東條英機伝(2023年8月7~11日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (東条英機①)

日本列島は6日の広島原爆忌を皮切りに慰霊の夏を迎える。第二次世界大戦をめぐる歴史は、日本人として基本的な教養といえる。今回は開戦当時の東条英機首相の足跡をたどり、考えてみたい。古川隆久・日大教授が書いた「日本史リブレット人100 東条英機」(山川出版社)を参考文献とした。

◎幼少時代から陸軍大臣  東條英機は1884(明治17)年12月30日、陸軍中尉の三男として東京に生まれた。父は、陸軍の大御所・山県有朋と相性が悪く、不遇感を抱いて退役し、軍事評論家となった。東条は学習院初等科を経て、東京府立第四中学に進み、陸軍東京幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校という陸軍の学校で学んだ。完全な陸軍ファミリーである。

陸軍の学校では、軍人勅諭とエリート意識を徹底的に教え込まれた。軍人勅諭は、自由民権運動を強く警戒する山県が主導した。天皇を軍に対して直接統治する大元帥と位置付け、国家の重要性を強調している。東条は幼年学校時代には下位の成績だったが、徹底した教科書の暗記で力をつけ、陸軍大学校では56人中11位の上位で卒業した。

東条は陸軍に入り、高い事務能力を認められ、ドイツに駐在した。事実上の留学で、出世コースだった。日本では立憲政友会と憲政会(後の立憲民政党)の政党内閣時代が続き、軍の影響力は弱まり、軍縮も進んだ。政党は「軍人官僚内閣への後戻りはない」と油断し、政争に明け暮れていた。

世界恐慌の影響で日本も不況に陥ったが、政党内閣は十分に対応できなかった。陸軍内部では不況で疲弊する農村の復興を要求する皇道派と、軍としての統制を重視する統制派の対立が激しくなる。東条は統制派に属し、人事抗争の影響も受けて、満州に駐在する関東軍の憲兵隊長に転属した。格下とみられていたポストだが、1936年の2.26事件で満州の反乱部隊を手際よく取り締まり、評価を高めた。この事件で上層部が大量に退役したこともあり、その後はとんとん拍子に出世の階段を駆け上り、1938年には陸軍次官、1940年7月には陸軍大臣に就任した。

陸軍教育のあり方については、昭和天皇が「陸軍はすべて物事を主観的に見る。その伝統は幼年学校以来の教育が偏っているからだ。手段を選ばず独断専行をはき違えた教育」と痛烈に批判したこともあるが、東条はその陸軍の代表となった。

*** きょうの教養 (東条英機②)

◎陸相から首相  1940年7月、枢密院議長だった近衛文麿が2回目の首相に就任した。国内では全体主義で団結して戦争中の中国を威圧し、国外では電撃戦で西ヨーロッパを制圧したドイツと軍事同盟を結んでアメリカを牽制しようという考えがあった。東条英機はこの第2次近衛内閣の陸相となる。近衛は陸軍の要望を先取りすることで、陸軍の政治介入を抑えようという思惑もあり、1940年9月に日独伊三国同盟を締結、10月には大政翼賛会をつくった。

近衛は1941年7月に第3次内閣を組閣するが、この頃から東条は陸軍内部だけでなく政界でも注目されるようになった。三国同盟や東南アジアでの勢力争いで日本との緊張を高めた米国との関係が背景にあった。天皇や近衛は、米国との戦争を避けたかったが、陸海軍では開戦論が台頭する。特に陸軍を代表する東条は強硬だった。多大な戦費と人的犠牲を出している日中戦争を勝てないまま止めるのでは、兵士の士気が落ちて陸軍が崩壊し、国民に対する威信も失われると譲らなかった。

陸軍を抑えきれないと判断した近衛は、退陣を決意し、後任として皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王を考えた。しかし内大臣の木戸幸一は、「皇室の権威が危機にさらされる可能性がある」として、後任には東条を推薦する。「東条も責任ある立場に立てば慎重に考えるはずだ」と考えたのである。東条は驚いたが、41年10月に首相に就任。律義で真面目な性格だったため、戦争を避けたい天皇の意向を実現するよう努力した。外相には開戦慎重派の東郷茂徳を選んだ。天皇も忠実な東条を評価し、「一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周密でなかなか良いところがあった」という独白が残されている。

しかし対米交渉は難航し、11月末に日本に厳しい条件を突きつけた「ハル・ノート」が伝えられる。日本は12月1日の御前会議で8日の開戦を決定した。家族の話によると、東条は開戦前夜、首相官邸の私室で一人泣いていたという。「責任の重さに恐怖感を持った」と言われているが、天皇への強い思いの発露という見方もある。

*** きょうの教養 (東条英機③)

◎首相時代(1941.10~1944.7)  今回は東条が首相だった1941年12月8日の開戦から、サイパン陥落を受けて首相を辞める41年7月までをたどる。東条は戦況の影響を強く受けながら、陸軍依存から天皇依存へとなっていく。

日米開戦となった真珠湾攻撃は大成功とされ、東条の求心力は高まった。この頃の懸案は、衆議院総選挙の実施時期だった。厳しい国際情勢を理由に4年の任期を42年4月まで1年延長していたためだ。緒戦の好調で東条は、開戦当日に再延期せず47年4月に実施すると発表する。導入したのが、候補者を推薦する政府主導の翼賛選挙だった。政府に批判的な極右と自由主義勢力を排除する狙いがあった。定数と同じ466人を推薦し、8割当選の目標を掲げた。結果は81.8%当選し、目標を達成した。安倍晋三元首相の母方の祖父・岸信介は推薦で初当選し、父方の祖父・阿部寛は東条批判をしていたので非推薦となったが、2回目の当選を果たした。

真面目な東条は、「民心の把握が大事だ」として、各地を精力的に視察し、役所を訪れたり、ゴミ箱までのぞいたりした。東条は政治家や官僚を信用せず、与えられた課題を他人任せにせず人一倍の努力と勤勉さでこなしていった。陸軍時代の教えだった。しかし、42年7月のミッドウェー海戦の大敗、43年2月のガダルカナル島の撤退で戦況は悪化し、極右政治家や首相経験者の重臣らから東条への不信感が高まっていく。陸軍はガダルカナル島への大量の武器や食料の補給を求めたが、東条は陸軍の独善的な態度に批判を強め、天皇の権威にすがるようになっていった。地方への統制を強化する戦時法制の一環として、東京府が東京都になった。

44年7月7日のサイパン陥落で、東条の威信低下は決定的になった。アメリカ軍機による日本本土への空襲が可能となるためで、参謀本部内でも早期終戦論が浮上する。7月22日、東条首相はついに退陣し、他の役職もすべて辞職した。東条の戦争指導について「一人で処理しなければ満足しない東条の性格が影響を与えている」という部下の文書が残されている。

*** きょうの教養 (東条英機④)

◎首相退陣から絞首刑  東条英機は1944年7月に首相を退陣した。6月ころから倒閣運動があった。逓信省官僚で、後に東海大学を創立した松前重義は、倒閣運動に協力したとして東条の怒りに触れ、南方に出征する懲罰的な人事を受けた。こうした東条の厳しさは不人気の理由の一つだった。

天皇は「東条以上に力のある人間はいない」と考えて東条を忌避しなかったが、議会勢力の根回しで後継首相には朝鮮総督の小磯国昭が就任した。小磯は東条が軽視した議会と協調し、言論統制の緩和や和平工作に乗り出した。しかし、不調に終わり、退任。45年4月、元侍従長で天皇の信任の厚い鈴木貫太郎が就任、2回の原爆投下の後、戦争は終わった。

東条は首相退任後、東京・用賀の自宅にこもっていたが、45年9月、占領軍に逮捕された。その際、自ら作った「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に従って拳銃自殺を図った。しかし、失敗する。極東国際軍事裁判でA級戦犯の一人として起訴され、48年11月に絞首刑判決を受けた。同年12月23日、巣鴨拘置所で処刑された。

東条が残した「遺言」や「感慨」という文書から心境がうかがえる。「私は国際的に見れば戦犯者ではないが、天皇や国民に対する責任は重大だ」「日本の統帥権の独立は政治の制約がなく戦争目的の達成には可だが、外交との調整では時に不測の事態を招く」「軍や国家の方針が、陸軍の上級者が知らないうちに下級者が狭い視野から決めたことがあった」「原因は陸軍大学校の精神教育の欠陥」と述べている。過去を反省しているが、統帥権の独立には一定の意義を認めている。

 *** きょうの教養 (東条英機⑤)

◎視点  東条英機の足跡が現代に残す教訓を考えたい。

東条の戦争責任は重大だが、危機の時に東条のような人物しかいなかった日本のぜい弱さこそ問うべきだろう。東条は真面目で有能で、押しの強い能吏だった。しかし、陸軍経験しかなく、実戦は1回だけ。官僚として頭角を現し、陸軍の利害の代弁に終始し、予想外にも首相になってしまった。「東条なら陸軍を押さえられるだろう」と周囲も無責任だった。天皇は非戦論者だったので、東条は軌道修正を図ったが、自分があおった逆流に飲み込まれていった。

陸軍しか知らない東条に視野の広さはなく、世界を構想する力もなかった。東条と同じ1884年に生まれ、戦後に首相を務めた石橋湛山は、東洋経済新報で「領土の時代ではない。満州を捨てて、貿易に生きろ」と主張し、言論の自由を重んじた。戦時中は弾圧されたが、湛山の構想に学ぶ気風があれば、戦争は避けられ、日本の国際的な立場は今とは全く違ったはずだ。

大正から昭和初期にかけて、政党政治が実現した。しかし、政党は政争に明け暮れ、経済の停滞とともに軍部の台頭を許した。1931年の満州事変が転機となり、軍部に批判的だった新聞は、軍部容認に変わった。33年、自由主義的法学者の滝川幸辰京都大教授が「共産主義的」と非難されて免職される滝川事件が起きた。これ以降、右派からの執拗な個人攻撃が始まり、言論空間が極端に狭まった。日本は曲折を経て戦争に傾き、予想外の東条首相誕生へとつながった。国民は戦争を望んだわけではなかったが追随し、新聞もあおった。

日本には明治維新以後、国家を重視する「官権派」と個人を重視する「民権派」という二つの底流がある。官権派の最右翼は長州出身の山県有朋で、陸軍の大実力者でもあった。民衆を信用せず、天皇を現人神と奉り、結果的に日本を空洞化させ、破滅に導いた。本来、官権も民権も健全ならば、それぞれ一理あり、両派の対話と均衡が望ましいとも言えるだろう。

ロシアのウクライナ侵攻で、日本でも戦争が現実味を持って語られる風潮が生まれ、防衛費倍増も決まった。今は核兵器があり、AIやドローン、ロボットを使った戦争も予測されている。人類はロボットを使ってまでなぜ戦争をするのだろうか。交渉で物事を決める方が、よほど人間的で生産的で、人々の幸せにつながる。

戦争は異論を封じる文化戦争から始まる。言論が正常に機能していれば、大きな過ちはない。教訓は「政治家と有権者は政党政治を大切にしよう」「見識と構想力を持った指導者を支えよう」「言論封殺の動きには断固かつ執拗に反対しよう」だと考える。指導者だけでなく、国民一人一人の見識と覚悟にも関わってくる。