松下幸之助語録(2023年7月10~14日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (幸之助語録①)

松下幸之助(1894~1989)は、今のパナソニックの創業者で、「経営の神様」と呼ばれた人です。9歳で火鉢店の丁稚に出され、そこから世界有数の大企業を育てました。晩年は政治家らを輩出する松下政経塾を作り、人材育成に注力しました。多くの語録が残されていますが、著書「指導者の条件」(1975年)から5編紹介します。

◎「すべてを生かす」  戦国時代、大名の家臣に泣き顔のような男がいた。別の家来が「男の顔つきは不吉で見るのも不愉快」といったところ、大名は「もっともだが、法事や弔問の使いにあれほど適任はいない。どんな人でも使い道がある」と答えた。

人間でまったく同じという人はいない。性格、気質、才能、考え方は十人十色だ。従って、あらゆる面で優れた人もいなければ、反対にすべて劣る人もいない。一長一短だ。それぞれの人の持ち味をよく見極めて、その長を取り、短を捨てて全ての人を生かしていくことが、指導者にとってきわめて大事である。

しかし、実際にはそれができにくい。限られた面だけを見て、人の長短を判断し、あれは有能な人材、これは無能の存在といったふうに決めつけてしまいがちである。しかし、戦にしても単に優れた人だけでなく、いろいろな役割が充分に果たされて初めて戦力となるのである。

今日の世界は戦国時代と比較にならないほど複雑多岐にわたっている。それだけ多種多様な人が求められているといえよう。今日の指導者は、いろいろな人を求めることに意を用いなくてはならない。無用な人は、一人もいない。そういう考えに立って、すべての人を生かして行くことが極めて大事だと思う。

*** きょうの教養 (幸之助語録②)

◎「先見性」  戦国時代、特に精強を誇ったのが甲斐の武田勢であった。武田信玄の息子勝頼は、長篠の一戦で、織田信長、徳川家康の連合軍に大敗を喫し、それがきっかけとなって滅亡への道をたどるようになってしまう。

長篠の合戦で、信長が用いた作戦は、5000丁もの大量の鉄砲を用意し、間断なく打ち続けるというものであった。勝頼軍は一斉射撃に遭い、ほとんど戦いらしい戦いもしないままに多くの死傷者を出して惨敗してしまったのである。これは、武将の強さではなく、完全に武器の差であろう。結局、「これからは鉄砲の時代だ」ということを察知し、早くから準備していた織田信長の先見性が戦う前から勝利を決定づけていたといえるのではないだろうか。

先見性を持つということは指導者にとってきわめて大切なことだと思う。先見性を持てない人は、指導者としての資格がないと言ってもいいほどである。時代は刻々と移り変わっていく。きのう是とされたことも、きょうは時代遅れだということも少なくない。時代の移りゆく方向を見極め、変わっていく姿を予見しつつ、それに対応する手を打っていくということで、初めて国家の安泰もあり、企業の発展もある。一つの事態に直面して、あわててそれに対する方策を考えることでは、物事は決してうまくいかない。

過去の歴史を見ても、一国が栄えているときは必ずと言っていいほど、その国の指導者の先見性が発揮されているように思われる。今日発展している企業を見ると、やはり経営者が先見性を持って的確に手を打っているようである。

*** きょうの教養 (幸之助語録③)

◎「天地自然の理」  老子の言葉に「王がよく道を守れば、すべての物事はおのずと上手くいくだろう」という意味のものがあるという。老子の言う「道」とは、「自然の摂理」というか「天地自然の理」といったものだそうだから、要するに指導者が天地自然の理に従った行いをすれば、すべてがうまくいくという意味であろう。

全くその通りだと思う。宇宙に大きな天地自然の理というものが働いており、万物はそれに従って、それぞれの営みをしている。人間もその例外ではない。ただ、人間はほかの万物にはない知恵才覚に恵まれており、それによって優れた文明文化というものを築き上げている。

文明文化というものは、人間が自分の力だけで作り上げたように思いがちだが、実際はそうではない。大自然の中に仕組まれ、存在していたものを見つけ出し、活用したに過ぎないのである。言い換えれば、天地自然の理に従い、これを人間の共同生活の上に具現したものが文明であり、文化なのである。

ところが、人間はそのことを忘れ、すべてを自分の力でやったように考えてしまう。そこから往々にして、小さな人知だけにとらわれて、天地自然の理に反するような考え方や行いをしがちである。人間社会の不幸とか争いといったものは、結局すべてそうしたところから起こると言っていいだろう。だからこそ、お互い人間、特に指導者は天地自然の理というものを知って、これに従うことが大切なのである。

*** きょうの教養 (幸之助語録④)

◎「怒りを持つ」  西ドイツの首相であったアデナウアーが、アメリカのアイゼンハワー大統領に会った時、「怒りを持たなくてはいけない」と言ったというのである。これはいささか奇異な感じがする。怒りを持つ、腹を立てるということは、普通はむしろ好ましくないとされている。できるだけ腹を立てずに円満に人と接し、いわば談笑のうちに事を運ぶ。それが一番望ましいと誰もが考えるだろう。ところが、アデナウアーは「怒りを持て」という。いったいどういうことだろうか?

これは単なる個人的な感情、いわゆる私憤ではないと思う。そうではなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤を言っているのであろう。指導者たるものいたずらに私の感情で腹を立てるということは、もちろん好ましくない。しかし、指導者としての公の立場において、何が正しいかを考えた上で、これは許せないということに対しては、大いなる怒りを持たなくてはいけない、と言っているのであろう。

第二次世界大戦でどこよりも徹底的に破壊し尽くされた西ドイツを、世界一と言ってもよい堅実な繁栄国家にまで復興再建させたアデナウアーである。占領下にあった西ドイツが、憲法の制定も教育の改革も受け入れないという確固たる自主独立の方針を貫いた根底には、首相であるアデナウアーのそうした公憤があったのではないかと思う。一国の首相は、首相としての怒りを持たなくてはならないし、会社の社長は社長としての怒りを持たなくては、本当に力強い経営はできないと言ってもいい。

*** きょうの教養 (幸之助語録⑤)

◎「徳性を養う」  大東亜戦争が終わった時、当時の中国国民党政府の蒋介石主席は、「恨みに報いるに徳を以てする」ということを声明し、日本に対して報復的なことや賠償の要求をしなかった。日本人としては、まことにもって多としなければならないと思う。この言葉は、老子の言葉だという。2500年にわたって、中国では指導者としての一つの心構えとされ、良き伝統となっていたのであろう。

人間が人間を動かすことは、実際はなかなか容易ではない。能力や命令で、あるいは理論で動かすということもできないことではない。「これをやらなければ命を取るぞ」と言われれば、たいていの人は命が欲しいから不承不承でもやることになるだろう。しかし、嫌々やるのでは、何をやっても大きな成果は納められない。やはり武力とか金力とか権力とか、あるいは知力といったものだけに頼っていたのでは、本当に人を動かすことはできない。何といっても根本的に大事なものは、徳をもって、いわゆる心服させることだと思う。

指導者に人から慕われるようなところがあってはじめて、指導者の持つ権力、その他もろもろの力も生きてくる。だから指導者はつとめて自らの徳性を高めなくてはならない。指導者に反対する者、敵対する者もいるだろう。それに対してある種の力を行使することは良いが、それだけに終わっては、それがまた、新たな反抗を生むことになってしまう。力を行使しつつも、そうしたものを自らに同化せしめるような徳性を養うため、常に相手の心情を汲み取ることに努め、自分の心を磨き高めることを怠ってはならないと思う。