渋沢栄一の「論語と算盤」(2023年7月31~8月4日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (渋沢栄一①)

渋沢栄一は「日本資本主義の父」と言われる明治時代の実業家です。大河ドラマの主人公になったので、知っている人も多いと思いますが、代表的著作は「論語と算盤」です。経営と道徳の関係について、10章でまとめており、ちくま新書から現代語訳が出ています。今回は第2章「立志と学問」から紹介します。

◎現在に働け  私は明治維新後まもなく大蔵省(現財務省)の役人となったが、当時日本には物質的科学的な教育がほとんどなかった。武士への教育にはレベルの高い内容が用意されていたが、農工商に携わる人への学問はほとんどなかった。 海外との交流が盛んになったのに教育に対する知恵や見識などなかったのだ。一橋の高等商業学校(現一橋大学)は1875年に出来たものであるが、 何回も廃校させられそうになった。商人に高い知識などいらないと思っていたためである。私は海外と交流して行くためには、科学的知識が必要であると声をからして叫んできた。幸いにも少しずつその機運が起こり、1884~85年には盛り上がりを見せ、まもなく才能と学問共に備わった人が輩出されるようになった。

それ以後、今日までわずか30~40年という短い年月、日本は外国にも劣らないくらい物質文明が進歩した。しかし、大きな弊害も生じたのである。徳川時代に教育された武士の中には、レベルが高く視野の広い気質や行いの持ち主も少なくなかった。ところが今日の人にはそれがない。富は積み重なっても、武士道とか社会の基本的な道徳がなくなっている。精神教育が全く衰えていると思うのである。我々も物質文明の進歩に微力ながら全力を注ぎ、今日では有力な実業家を全国いたるところに見るようになった。国の豊かさも大いに増大した。ところが人格は明治維新前よりも退歩したと思う。物質文明が進んだ結果、精神の進歩を害したと思うのである。

私は常に精神の向上を富の増大とともに進めることが必要であると信じている。人はこの点から考えて、強い信仰を持たなければならない。私は農家に生まれたから教育も低かった。しかし幸いにも中国古典の学問を修めることができたので、ここから一種の信仰を持つことが出来た。私は極楽も地獄も気にかけない。ただ現在において正しいことを行ったならば、人として立派なのだと信じている

*** きょうの教養 (渋沢栄一②)

◎自ら箸を取れ  青年たちの中には仕事がしたいのに、頼れる人がいないとか、応援してくれる人がいないとか嘆く者がいる。しかし、その人に手腕があり、優れた能力があれば、若いうちから有力な知り合いや親類がいなくても、世間が放っておくものではない。今の世の中には人が余っている。しかし、これなら大丈夫と安心して任せられる人物は少ない。どこに置いても優秀な人物ならば、いくらでも欲しがっている。

人材登用のお膳立てをして我々は待っているのだが、お膳を食べるかどうかは、箸を取る人の気持ち次第でしかない。ごちそうを作った上に、それを口に運んでやるほど先輩や世の中は暇ではないのだ。かの木下藤吉郎(豊臣秀吉)は賤しい身分から身を起こし、関白という大きなご馳走を食べた。けれども彼は主人の織田信長に養ってもらったのではない。自分で箸を取って食べたのである。仕事をしてやろうとする者は、自分で箸を取らなければ駄目なのだ。

誰が仕事を与えるにしても、経験の少ない若い人に初めから重要な仕事を与えるものではない。藤吉郎のような大人物であっても、初めて信長に仕えたときは草履というつまらない仕事をさせられた。「俺は高等教育を受けたのに子ども扱いで算盤をはじかせたり、帳面をつけさせたりするのはバカバカしい。先輩なんて言うものは人材も経済も知らないものだ」と不平を言う人もいるが、まったく間違っている。先輩がこの不利益をあえてするのには、大きな理由がある。その理由はしばらく先輩の胸算用に任せて、青年はただその与えられた仕事に集中しなければならない。

若いうちは気が大きくなって些細な事を見ると、「なんだこれくらい」と軽蔑する癖がある。しかしそれが後日の大問題を引き起こしてしまわないとも限らない。些細な事を粗末にするような大ざっぱな人間では、所詮大きなことを成功させることはできない。水戸光圀公の壁書きの中に「小さなことは分別せよ。大きなことに驚くな」としたためられているが、何事もこの考えでなくてはならない。秀吉が信長から重用されたのもまさにこれであった。

*** きょうの教養 (渋沢栄一③)

◎立派な人間の争いであれ  私のことを、絶対に争いをしない人間であるかのように思っている人が、世間には少なくないように身受けられる。好んで他人と争うことはしないが、全く争いをしないというわけではない。正しい道をあくまで進んでいこうとすれば、争いを避けることは絶対に出来ないものなのだ。

何があっても争いを避けて世の中をわたろうとすれば、善が悪に負けてしまうことになり、正義が行われないようになってしまう。私はつまらない人間だが、正しい道に立っているのに悪と争わず、道を譲ってしまうほど、円満で不甲斐ない人間ではないつもりである。人間はいかに人格が円満でも、どこかに角がなければならない。古い歌に回るようにあまり円いとかえって転びやすくなるのだ。

わたしは世間で思われているほどに、決して円満な人間ではない。一見そう見えたとしても、実際はどこかでそうでないところがあると思う。若い時はもとより 70歳の坂を超えた今日になっても、私の信じるところを揺り動かし、これを覆そうとする者が現れれば、私は断乎としてその人と争うことをためらわない。私が信じて正しいとするところは、いかなる場合においても決して他に譲ることはしない。

人には年寄りだとか若いとかに関係なく、誰でも私のように「これだけは譲れない」というところがぜひあって欲しいものである。そうでないと、人の一生というものが、まったく生きがいのないものになってしまう。人の品性は円満に発達した方が良いと言っても、あまり円満になり過ぎると「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と論語で孔子が言っているように、人として全く品性がなくなってしまう。

*** きょうの教養 (渋沢栄一④)

◎社会と学問の関係  もともと人情にはこんな陥りがちな欠点がある。成果を焦って大局を見ることを忘れる。目先の出来事にこだわってわずかな成功に満足してしまうかと思えば、それほどでもない失敗に落胆する者が多いのだ。高学歴で卒業した者が社会での現場経験を軽視し、現実の問題を読み誤るのは多くの場合、このためなのである。この間違った考えは改めなければならない。参考として学問と社会の関係で考察すべき例を挙げてみよう。

地図をみる時と実地に歩いてみる時は違う。地図を開いて目をこらすと、世界全体が一目で見渡せる。国々や各地方はごくわずかな範囲に収まってしまう。小川や小さな丘、土地の高低や傾斜の具合までよくわかるようにできている。しかし、それでも実際と比較してみると予想外のことが多い。深く考えようとせず、よく知ったつもりで実地に踏み出してみると、どうしていいかわからなくなって迷ってしまうこと請け合いだ。

山は高いし、谷も深い。森林はどこまでも続き、川は広く流れている。そんな合間に道を進んでいくと、高い山に出会っていくら登っても頂上に行き着けないようなことがある。大河に阻まれて途方に暮れてしまうこともあるだろう。道路が回り道になって、簡単には進めない時もある。深い谷に入っていつ出られるのかと思うような時もある。いたるところに困難な場所を発見する。この時信念が固まっていず、大局を見る見識もなければ、失望や落胆に駆られ勇気など出てこないだろう。あてどなくうろうろする羽目になって、ついには不幸な終わりを迎えるに違いない。

この一例は学問と社会との関係に照らし合わせて考えてみると、すぐにわかることだと思う。社会の出来事が複雑なことを事前にいくら知ったつもりで備えをしていても、実際には不意を突かれることが多い。学生はより一層の注意を払ってこのことを研究しておかなければならない。

*** きょうの教養 (渋沢栄一⑤)

◎一生涯に歩むべき道  17歳の時、武士になりたいという志を立てた。その頃の実業家は百姓とともに卑しいとされ、人間以下の扱いを受けていたからだ。家柄が重視され、武士の家に生まれれば、知識や能力のない人間でも社会の上位を占めて権力を振るうことができた。私はこれがとても癪に障り、何が何でも武士なくてはダメだと考えた。その頃私は、中国古典の学問を少々学んでいた。その知識を生かして「日本外史」などを読むにつけ、政権が朝廷から武士達の手に移った経緯がはっきり分かるようになっていった。低い身分で終わるのがいかにも情けなく感じられ、いよいよ武士になろうという気持ちを強めていった。

今日の言葉を借りれば、政治家として国政に参加してみたいという待望をいだいたのであった。これが故郷を離れて、流浪する間違いをしでかした原因であった。後年、大蔵省に出仕するまでの間、ほとんど無意味に空費した。最後に実業界で身を立てようと志したのがようやく明治4~5(1871~72)年頃のことで、その時が本当の立志であったと思う。もともと自分の性質や才能から考えて、政界に身を投じることは向かない方向に突進するようなものだと気がついた。欧米諸国が強さを誇った理由は、商工業の発達である。現状のままでは、日本はいつまでたっても彼らと肩を並べられない。国家のために商工業の発達を図りたいという考えが起こり、初めて実業界の人になろうと決心がついたのである。

この志が40年以上続いて変わらないものであったところを見ると、本当に自分の素質にかない、才能にふさわしいものであったことが分かる。自分に自分を知ることのできる見識があって、15~16歳の頃から商工業に向かっていたとしよう。現在の渋沢以上の渋沢が生まれていたかもしれない。残念ながら全く方向違いの仕事に無駄に使ってしまった。志を立てようとする青年は、是非ともこの失敗を教訓にするのが良いと思う。