禅語(2023年4月10~14日)
*** きょうの教養 (禅語①一期一会)
今週は「禅語」を紹介する。禅の深い教えを短い語句にしたものだ。参考文献は有馬頼底著「茶席の禅語」。有馬さんは「禅語は難しく考えるときりがないが、人生を生きる指針として暮らしに役立てて欲しい」という。今回は四字の禅語を取り上げる。
▼一期一会(いちごいちえ) 禅語の中ではよく聞く言葉だ。「一期」は、人が生まれてから死ぬまでをいう。人は生まれ、老いて、死ぬ。また生まれ変わって生老病死を繰り返すことを輪廻という。「一会」は、生まれてから死ぬまでにただ一度だけ会うことをいう。まさに「有難い」機会で、たった一度のチャンスを有効に使わなければ永久に失われる。
幕末に大名茶人だった井伊直弼は「茶湯一会集」という書物で次のように述べている。「お茶の会は一期一会で、同じ主客が何度会っても、きょうの会は繰り返さない。そう思うと、実に一生に一度きりのものである」。
一生に一度の会を悔いなく過ごしたい。またの日があると思ってはいけない。一生に一度だけの出会いと思えば、どれほどその時が大切か、かけがえのないものかがわかる。
*** きょうの教養 (禅語②行雲流水)
▼行雲流水(こううんりゅうすい) 雲は行き、水は流れる。雲は空を流れて滞ることなく、いずこともなく消えていく。水もどこから湧いてきて、最初のささやかなせせらぎから、大河に注ぎ、そして大海へと流れていく。そして蒸発し、雨となって降ってくる。瞬時としてとどまることなく、時々刻々、動いてやまない。
常に動きて留まることがないのが「行雲流水」の姿だ。それはとりもなおさず、自由であるということです。
禅の修行僧を「雲水」と呼ぶが、修行者は行く雲や流れる水のように、自由な境地であらねばならないことかきている。留まることは執着することになる。最終的に心の束縛を解き放つこと、それが自由人になることであり、仏になることだ。
何となくおおらかな気持ちになる言葉だ。何があっても「行雲流水」と唱えていれば、大自然の中に生かされている自分を感じ、わずらわしさや苦しいことが、小さなことに思えてくる。
*** きょうの教養 (禅語③照顧脚下)
▼照顧脚下(しょうこきゃっか) 禅寺の玄関などでこの文字を見る。足元に注意しなさい、履物を乱雑に脱いではいけませんよ、という意味だ。しかし、そういう表面的な意味だけでなく、人生においても、常に自分自身を振り返って、いままで自分の歩いてきた道は、本当にこれでよかったのか、自分の考えはまちがっていないか、もう一度原点に立ち返って反省しようということだ。
この言葉は昔、三光国師という人が「達磨大師はなぜインドから中国に来たのか」と問われた時に答えたという。質問は換言すれば「禅の究極の目的は何ですか」という趣旨だ。これに対して「大げさなことを考える前に自分の足元を見なさい。その方がよほど大事だ」という意味で答えた。
我々は大きなことを考えがちである。時にそれは重要だが、自分の足元がしっかりしているか考えることも忘れてはならない。最近では居酒屋などでも見かける。悪酔いして大言壮語し、転んでけがをしては元も子もない。
*** きょうの教養 (禅語④上善如水)
▼上善若水(じょうぜんはみずのごとし) 老子の言葉。原文は「上善は水のごとし。水はよく万物を利して争わず、衆人の憎むところにおる、ゆえに道にちかし」となっている。老子は最上の善は水のようだという。
水はすべての命の源だ。それほど尊い存在だが、あまり感謝されない。しかも誰とも争うこともなく、高いところから低いところへ淡々と流れ、最後はみんなが嫌う場所にとどまっている。老子はこの水のありようが、まさに「道」と同じだと言っている。
「上善如水」という日本酒がある。新潟県の越後湯沢にある酒蔵が作っている。ホームページによると、理想とするのは「水」のような日本酒という。有数の雪国であり、冬のあいだに降り積もった雪は、やがて美しい雪どけ水となって日本酒の仕込み水となる。雪どけの水は、かろやかで、やわらかく、ほんのりと甘い。そんな豊かな水の表情を「上善如水」から感じて欲しいという。
*** きょうの教養 (禅語⑤卒啄同時)
▼啐啄同時(そったくどうじ) 鳥が卵からかえる時、ひな鳥は殻を破って出てくる。ひなが卵の内側からくちばしでコツコツとつつくことを「啐」という。一方、親鳥は、ひなが中から出ようとしているのを知って、外からコツコツとつつく。これを「啄」という。両側からのつつきあいで、殻が破れ、ひなが生まれてくる。タイミングがずれると、ひなは生まれてくることはできない。親と子が間髪を入れず、同時に殻をつつき合うタイミングを「啐啄同時」という。
師弟の間もこの関係が重要だ。両者の呼吸が合わなければ、よい教育はできない。弟子は師を信頼してぶつかっていく。師は弟子が何を求め、何を探しているかを見抜いて、求めているものを与える。お互いが同時にぶつかり合ってこそ大きな進歩がある。
師がだらだら説教をする必要はない。弟子が求めているものを理解すれば、一言二言いってやれば、弟子は即座にわかるはずだ。しかし、ある時は厳しく接し、弟子は「あっ」と気づく。たまには「このばか者」とどなり、ぶつかり合って切磋琢磨する。望ましい教育のあり方を示唆している。