老子(2023年10月30~11月3日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (老子①)

今週は中国の思想家・老子を取り上げる。2500年ほど前の伝説的な哲学者で、常識を打ち砕く人生観は、中国で今も尊敬され、日本でも根強い人気がある。独自に翻訳している作家・新井満と詩人・加島祥造の文章を紹介する。初回は第8章「上善如水」。「水のように生きよう」と呼びかけている。老子は道教の始祖で、「道」(どう、タオ)がキーワードでよく出てくる。読む場合は「道理に合った生き方」と解釈すればいい。

◎第8章「上善如水」 【新井満訳/「上善如水」】 やわらかいといえば、水ほどやわらかく弱々しいものはないよね。しかも決して争おうとはしない。丸い器に入れば丸くなり、四角い器にはいれば四角になる。形にとらわれず、自由自在だ。ところが形を持たないからかえって、どんな小さなすきまにも入ってゆき、どんな巨岩をも粉々にしてしまう。即ち、水とは、やわらかく弱々しいことに徹して、何よりも強い、ともいえる。水のように生きるのが、最高の生き方なのだよ。水は、万物に恵みを与えているが、決して自慢しない、威張らない。それどころか、かえって人びとが嫌がる低い方へ低い方へと流れていく。 謙虚だねえ。さあ、水のように生きなさい。それが道(タオ)の人の生き方なのだよ。

【加島祥造訳/「水のように」】  タオのあり方に一番近いのは、天と地であり、タオの働きに一番近いのは、水の働きなんだ。タオの人が素晴らしいのは、水のようだというところにある。水ってのは すべてのものを生かし、養う。それでいて争わず、威張りもしない。人の嫌がる低いところへ、先に立って行く。水はよほどタオの働きに近いんだ。タオの人は、自分のいるところを、いつも善いところと思っている。心は、深い淵のように静かだ。つきあう人をみんな善い人だとし、自分の言うことはみんな信じてもらえると考え、社会にいてもタオの働きの善さを見失わない。タオの人は、手出しをしないで、あらゆる人たちの能力を充分に発揮させるから、人々は自分の一番いいタイミングで活動する。これをひと口でまとめると、争うな、ということだ。水のように争わなければ、誰からも非難を受けないじゃないか。

*** きょうの教養 (老子②)

◎第53章「大道と非道」  (注:タオは「道」で、道理に合った生き方という意味)

【新井満訳/「ああ情けない」】 この国の政治家たちは、一体何をしておるのだ。相次ぐ戦争で国土は荒れ放題ではないか。食料貯蔵庫は空っぽではないか。だというのに相変わらず政治家たちは、意味もなく自分を飾り立て、ごたいそうな剣を腰にぶら下げて、酒池肉林の毎日だ。国民の幸福のために一心を捧げるどころか、私利私欲を求めて走り回るばかり。ああ情けない、ああ嘆かわしい。あの者たちは政治家でもなんでもない。ただの泥棒だよ。税金の名を借りて国民から金銀財宝を盗んでいるだけなのだ。あの者たちは大きな過ちを犯している。タオを見失い、タオとの絆を断ち切り、タオとは無縁の非道の輩となってしまった。あの者たちを一刻も早く、追放してしまいなさい。ああ情けない、ああ嘆かわしい。この国は早晩滅んでしまうぞ。指導者はいないのか。タオに目覚めた真の指導者は一体どこにいるのだ。

【加島祥造訳/「内なる光で見直してごらん」】  ほんのちょっと君の内側の光で見直せば、この道が平らで広いものと分かる。そしてもう横道なんかに入りこまない。だがね、多くの人々はどうも、狭い道が好きらしくって、そこで押しあって、先を争って、ほかの人の上にのし上がったりする。のしあがった者たちが政治や経済を支配して、あんなに着飾ったり、巨大なビルを建てたり、とてつもない武器を作ったりする。飲み食いに贅沢をし、金銭を積み上げる。これはみんな盗人のすることだよ。あの大きなタオとは大違いなんだ。そして確かなことだが、こういう人たちは、ひとりの人間としては、決してハッピーじゃあないのさ。

*** きょうの教養 (老子③)

◎第33章「知足のすすめ」  (注:タオは「道」で、道理に合った生き方と言う意味)

【新井満訳/「知足のすすめ」】 他人を知ることより、自分を知ることの方が難しい。自分を知る者を、真の賢者というのだ。他人に勝つことより、自分に勝つことの方が難しい。自分に勝つものを、真の強者と言うのだ。

【加島祥造訳/「自分の中の富」】 世間の知識だけが絶対じあゃないんだ。他人や社会を知ることなんて、薄っ暗い知識に過ぎない。自分を知ることこそほんとの明るい智慧なんだ。他人に勝つには、力づくですむけれど、自分に勝つには、柔らかな強さがいる。頑張り屋は外に向かって踏ん張って、富や名声を取ろうとするがね。タオにつながる人は、今の自分に満足する、そしてそれこそが本当の豊かさなのだ。その時、君のセンターにあるのは、タオの普遍的エナジーであり、このセンターの意識は、永遠に伝わってゆく。それは君の肉体が死んでも滅びないものなのだ。

*** きょうの教養 (老子④)

◎第60章「和光同塵」 (タオは「道」で、道理に合った生き方と言う意味)

【新井満訳/「和光同塵」】 何のたとえかといえば、私は才能のことを言おうとしているのだ。もしあなたが素晴らしい才能を持っていたとしても、そのことを決して自慢してはいけないよ。得意になって才能の光をギラギラと輝かせ、見せびらかしてはいけないよ。そんなことをしたら、若いうちに早々と発見されてしまい、あなたの思惑などはお構いなしに、使い使いたいだけ使われて、挙句の果ては雑巾のように使い捨てられてしまうぞ。もしあなたに優れた才能があるならば、「和光同塵」。才能の光は、和らげておきなさい。世俗のチリの裏側に、そっと隠しておきなさい。世の中の脚光を浴びるような、天才としてではなく、どこにでもいるような凡人として、控えめに生きなさい。「自分は、真っすぐな木ではなく曲がった木なのだ」。そう自覚して、細く長く生きなさい。天からいただいた命に感謝しながら、果たすべき役割を果たしなさい。そうしていつの日か、寿命の尽きる時が来たら、命は潔く天にお返ししなさい。無欲にして無心。それがタオの人の生き方なのだよ。

【加島祥造訳/「まず、空っぽから始まる」】 タオの働きは、なによりもまず空っぽから始まる。それは、いくらくんでもくみつくせない。不可思議な深い淵とも言えて、全てのものの出てくる源のない源だ。その働きは、鋭い歯を丸くする。固くもつれたものをほぐし、強い光を和らげる。そして、舞い上がった塵を下におさめる。それだから、タオを谷の奥にある深い淵に例えるのだ。その淵に潜って行けば、はて知れない先の先まで行くだろう。子から親へ、その親から先へとたどっていくのに似て、どこまでも、どこまでも先がある。やっと行き着いた先の、またその奥にも先があるといったものなんだ。だから私は、誰の子かと聞かれたら、タオという母の子と答えるのさ。

*** きょうの教養 (老子⑤)

◎第60章「小魚を煮るように」 (タオは「道」で、道理に合った生き方と言う意味)

【新井満訳/「小魚を煮るように」】 国を治めるにはどうしたらよいのか? タオに目覚めた政治家は、決して焦らないし、あわてない。小魚を煮るようにして治める。むやみにつっついてかき回したり、ひっくり返したりしたらどうなると思う? 小魚の形が崩れるし、味も落ちる。ゆっくり、そうっと、余計なことはせずに煮るのがコツさ。国の政治も同様でね。国民に対して、ああでもないこうでもない、あれをするなこれもするなと 細かくうるさく干渉すれば、国民が持っている自由な活力を奪った上に、国民の反発を買ってしまう。そういう国は、早晩、滅んでしまうだろう。タオに目覚めた政治家は、無為にして無心。余計な政策は展開しないし、干渉もしない。小魚を煮るように焦らないし、あわてない。国民の活力をあるがままに受け入れる。

【加島祥造訳/「小魚を煮るように」】 「大きな国を治めるには、小魚を煮るようにせよ」。よくこう言われるがね。それは、小魚を煮るのにあちこち突っつけば、形が崩れちまう。そこを言うんだ。タオを体得したリーダーだったら、そんな小うるさいことをしないから、国民は迷信の鬼や悪霊を崇めなくなる。鬼の霊力はなくならないが、その霊力は人に害をしなくなるんだ。タオのリーダーは国民をいじめようとしない、だから国民はこの両方から痛めつけられない。そして霊界にも政治社会にもあの見えざるパワーが、自由に流れることになる。言わば上にも下にも、ゆきわたるわけだ。

新井満さん
加島祥三さん