谷沢永一の実践人間学(2023年8月28~9月1日)
*** きょうの教養 (谷沢永一の実践人間学①)
今週は谷沢永一の著書「実践 人間学」(2000年、講談社)から紹介します。谷沢は1929年に大阪市に生まれ、関西大学文学部を卒業し、関西大学の教授を務めました。専攻は日本近代文学、書誌学で、社会評論でも活躍しました。10代で共産党に入党しましたが、大学時代に転向しました。大阪人らしいユーモアを交えた本音の人間観察や毒舌が独特で、保守の論客としても知られました。2011年、81歳で死去。好き嫌いはあるかもしれませんが、味わってみて下さい。
◎自己愛 人間は自己愛そのものである。自己愛から偽善も虚栄もすべて表出する。人間即自己愛であると理解できれば、他人の嫉妬も貪欲も許せるようになる。自らの犠牲や虚栄を知れば、相手も同じように偽善や虚栄を持っていることに気づく。全て強烈な自己愛から生じる産物であると理解すれば、人をむやみやたらに非難中傷する事も少なくなる。そして自分自身が非難中傷されても相手を許せる気持ちが生まれる。
人間が生きて行く上では、他人に良い感情を持つことも、悪い感情を持つこともある。結局は自分が一番可愛いから、好悪の感情が出てしまうのは当然のことだ。しかし、自分を大事にできれば、自分と同じくらいの自己愛を持っている人間も同様に大切していくことができる。自己愛を知ることは人間を尊重することであり、人間関係を円滑に運ぶ基である。自己愛から発する人間のさまざまな感情・欲望を理解し、人間とは何かを知り自分自身を知ろう。
*** きょうの教養 (谷沢永一の実践人間学②)
◎偽善・偽悪 人間は己を実態以上に見せたがる存在だ。人並みの能力や品性しかもっていないのに、他人より優れた能力や高い品性を保持しているかのように思わせたがる。こうした気持ちが偽善ということに他ならない。すべての人間は偽善家である。そのためにいろいろな工夫や策略を練るのは仕方がない。
大阪では偽善を「ええカッコしい」という。自分を高く売りつけようとするのは、ほとんど個人差がない。みんながやっていることなのである。自分の寸法通りに生きている人間はいない。どこかでいいところを見せようとする。ただし偽善の度が過ぎると、他人に嫌がられる。高く売りつけようとしたのが、逆効果となってマイナスになる。偽善も程度の問題だ。
一方、偽悪というのは強がりのことだ。自分を実態以上に強く見せることにほかならない。ヤクザの世界の振る舞いだ。ヤクザの世界は偽悪の芸を見せ合うことで成り立っている。要するに他人を怖がらせることで飯を食う。イヌは喧嘩相手に毛を逆立てて牙をむくが、その人間版が偽悪に他ならない。人間は相手に怖がられるのが非常に楽しいという本性を持っている。 あいつ怒らせたら怖いで何をするかわからんぞ、という状況を作った時の自己満足は何とも言えないものなのである。
ただし偽悪もすぎると逆効果になる。一般の社会では度が過ぎるとひんしゅくを買う。それでも偽悪は一つの快楽だから、ひんしゅくを買う人間が跡を断たない。戦国時代の武将は皆、偽悪になることで自らの地位を築いた。とりわけ天下にその名を轟かせた名将はすべて偽悪の塊まりだった。偽善も偽悪も受け止め方は時代とともに変わる。人間の生き方そのものだから、必ずしも悪いものではない。時代に適した程よい偽善や疑惑をわきまえていればよいのである。
*** きょうの教養 (谷沢永一の実践人間学③)
◎自尊心・プライド プライドはエネルギーだ。自尊心は事を起こす元気の源泉である。人が仕事に邁進できるのは、「自分はこれだけの能力があるんだ」という気持ちを持っているからこそ可能となる。子供が勉強するのも「やればできるんだ」という気持ちがあればこそ机に向かうのである。
プライドがなく、自分は何の能力もないと思い込んでいる人は、はなっから仕事をする気が起こらない。「学校の勉強なんかついていけない」と頭から投げている子どもは、ますます勉強嫌いになるのと同じことだろう。人をしてとにかく生かしている大きな動力がプライドや自尊心なのである。プライドや自尊心は、自己愛が少し水増しされた精神行為と言える。だが、自己愛が純粋に自分のことだけに集中するのに反して、プライドや自尊心は他人をおとしめるという働きをもつ。自己愛が他人に向かって発射された時に、プライドや自尊心が生まれるのである。
自尊心は「俺が偉いのだ」と思うだけではすまない。「俺は偉いのだ。あいつはダメなんだ」というふうに必ず他人をおとしめることで自らの自尊心を盛り立てていく。自尊心は他人に対して一種攻撃的な要素を持たざるを得ない。他人を軽蔑し人格をおとしめ、その値打ちを軽く評価する。プライドや自尊心のない人間はいない。自らのエネルギーの源泉であると同時に他人をおとしめる。程よく持つことが大切なのだが、より大きなプライドや自尊心を持てるならば、より素晴らしいことをなすのも可能となる。
*** きょうの教養 (谷沢永一の実践人間学④)
◎私利私欲 人間は私利私欲の塊だ。私利私欲のない人間はいない。私利私欲があるからこそ生きていける。私利私欲の強い人間は人を使うことができる。他人をして仕事をさせることができる。「5000万円の利益が欲しければ、高級外車20台の販売契約を結んでこい」。安易な仕事ではないが、高級外車を売るため高額所得者の自宅を回って販売に勤める。仕事を命じた者と仕事を命じられた者は、互いの私利私欲を媒介に人間関係が形成されていく。販売契約を結んだ数が増えるに従い、信頼関係も深まっていく。固い絆のビジネスパートナーとなれるのも私利私欲が動因なのである。
世間が持て余すのは私利私欲のない人間だ。自らの欲がないから仕事をしない。個人的な願望もない。何をもって関係を結べば良いのか皆目わからない。わからないからいつまでたっても関係を結ぶ糸口が見つからない。つまり付き合いようがないというわけだ。
私利私欲のない人間ばかりだと人間関係は希薄になる。社会は沈滞し、活力が失われ衰亡していく。一方、私利私欲の強い人間がいればいるほど、なんとか利益をあげ欲望を満たそうとする。自分ひとりの知恵と力はたかが知れているから、周りの人間の知恵と力を頼みとする。自らの人間関係やネットワークを積極的に構築し、大きな利益を確保しようと進める。世の中の経済や社会は、そうした関係の中で運営されているが、世間がうまく回っていくためには私利私欲が不可欠なのである。
ただし、私利私欲を実現させるには、それなりの方法や手続き、テクニックを要する。何でも勝手にやって良いというわけではない。「あれはえげつない。あれはやりすぎだ」と他人から思われるようなやり方は許されない。そんなふうに言われない一歩手前で止めておくことが肝要だ。一歩手前で止めておけば、周囲の人との関係もうまく収まってくれるのである。私利私欲はきちんとした努力と手続きを踏めば、至極まっとうな人間の生き方だ。人間の生命力だといってよい。その生命力に従って生きていくのは当然のことだろう。
*** きょうの教養 (谷沢永一の実践人間学⑤)
◎嫉妬 嫉妬は大きく二つに分けられる。一つは男女関係の嫉妬、性的な嫉妬だ。もう一つは性別を問わず同僚が同僚に嫉妬する、業績や地位などに対する嫉妬だ。どちらの嫉妬がきついかといえば、むろん後者である。
あらゆる人間は世の中のほとんどの他人を嫉妬している。嫉妬したことのない人間というのはおそらく見つけることができない。嫉妬は人間の本性なのである。嫉妬について松下電器の創業者松下幸之助は面白いことを言っている。「嫉妬は太陽と地球の天地運行の原理のようなものだ。嫉妬が気に食わないからといって世の中から嫉妬はなくせない。我々人間は万有引力のおかげで地球上に生を営める。同じよう人間は嫉妬という感情生活の中で生きている。嫉妬をなくすなどというのは不可能なのである」。
幸之助が偉いのはこう喝破したうえで次のようにアドバイスしているからだ。「嫉妬を焼くという。やきもちを焼くという。しかしカリカリに焼いてしまうとお互いの人間関係が滅茶苦茶に壊れてしまう。きつね色にほんのり焼くのが大切なのである。きつね色の嫉妬は互いを励まし競い切磋琢磨し合うことで成長のテコとなる」
我々は嫉妬を受ける側に回ることもある。自分の働きや業績、つまり値打ちがあまり高くないのに世間から分不相応に持ち上げられると必ず嫉妬される。中途半端にしか実績を積み重ねていないからだ。あまりにも素晴らしい業績を上げ、ノーベル賞でも取れば嫉妬されることなどない。「あいつは特別や。別格や。別格官幣社や」と思われるくらい高いところへ到達すれば、嫉妬されない。本来、嫉妬は醜いものではない。人間である限り、必ず持っている本性だ。自らの嫉妬も他人の嫉妬も、上手く活用さえすれば能力を高め、より豊かな人間関係を作ることができるのである。