10年前の芥川賞(2023年7月17~21日)

2024.01.06教養講座

*** きょうの教養 (芥川賞①田中慎弥)

今週19日は芥川賞の発表です。文章塾としては、受賞作の文章表現と内容に注目したいと思います。芥川賞のような純文学は、作家のセンスで今を巧みに切り取って、将来を予言するようなところがあります。口では言えないようなことを文章で表現し、「よくわからないが何かありそう」という感覚になります。今から10年余り前はどんな作品が受賞したのでしょうか。菊池良著「芥川賞ぜんぶ読む」(宝島社)から5作紹介します。

2011年下期 田中慎弥「共食い」 

「自分にも父親の血が流れているのか少年は恐怖する」/17歳の篠垣遠馬は、父親の円(まどか)とその恋人の琴子の3人で暮らしていた。琴子は生みの親ではない。遠馬の生みの親は仁子といい、川を一本隔てた橋の向こうに住んでいて、魚屋を営んでいる。ちょっと複雑な家族構成だ。

円はセックスの時に恋人へ暴力を振るう癖があった。ドメスティック・バイオレンスである。仁子が家を出て行った原因は、それだった。その性癖は変わらず、円は琴子に対しても暴力を振るっている。遠馬には会田千種という恋人がいた。2人はセックスをするが、遠馬は「こんなんでええんかなぁ」と自分の性欲に対して思うところがあった。ある日、遠馬は千種に暴力を振るってしまい、やはり自分にも暴力的な父親の血が流れているのかと恐怖する。そんな中、街では夏祭りが近づいていた。社で待っている。千種は遠馬にそう言っていたのだ。

受賞会見で口にした「もらっといてやる」という言葉も話題になった。高校卒業後、就職をせずに家で何度も「源氏物語」を読み、10年かけてデビュー作「冷たい水の羊」を執筆した。

*** きょうの教養 (芥川賞②鹿島田真希)

2012年上期 鹿島田真希「冥土めぐり」 

「車椅子の夫と家族の記憶を巡る旅」/奈津子は夫の太一と一緒に、新幹線に乗って旅行に行く。太一は8年前に脳の発作で倒れ、奈津子はそれ以来、夫の介護をしながら生活していた。 旅の道中、奈津子はいろんなことを思い出す。しかし、結婚以前の生活を奈津子は「あんな生活」と振り返り、本当は思い出したくもない。

奈津子の母親は祖父が生きていた裕福だった時代が忘れられず、それにすがって生きている。奈津子の弟は高級な物を食べるのが趣味で、「ハーバードに留学する」「フランスに留学する」というが、実行はされず、「家に金さえあれば俺はすごい人間になれる」と豪語する。2人は奈津子によると、「何もしなくても与えられる側の人間だと思っている」。奈津子と太一はバスに乗って目的地に向かっていく。それは奈津子が幼い頃に家族で行ったリゾートホテルだった。

人は何かを見たら、何かを思い出してしまう生き物だ。「冥土めぐり」は旅行と追憶が縄のように入り混じって編まれている。読者は奈津子の家族の記憶と夫との旅を追体験していく。

*** きょうの教養 (芥川賞③黒田夏子)

2012年下期 黒田夏子「abさんご」 

「日本文学に最高齢の新人現る」/「生きているうちに見つけてくれてありがとう」。芥川賞の受賞会見で黒田夏子はそう語った。この時黒田夏子は75歳。史上最高齢である。

「abさんご」は父親を亡くした女性が、母親と2人で長いあいだ暮らしながら、やがてその母親も失う物語だ。主人公の回想が、時系列も入り組みながら断片的に語られていく。それは瑞々しくて美しい。この作品で特に注目されたのがその特異な文体だ。横書きでひらがなを多用し、わざと固有名詞を使わない。一見すると読みにくい文体で起こるのは、読書スピードの低下だ。特異な文体によって、一語一語をじっくりと味わいながら読むことになるのだ。「abさんご」の読書体験は、日本語と戯れる遅い読書だ。

黒田は長いあいだ、新人賞に投稿することなく小説を書いてきた。それは10年に1本のペースだという。「abさんご」にはもっと長いオリジナルバージョンがあり、9年間かけて執筆していた。「10年に1本」のままでいくなら、次の新作が出るのは2020年である。

*** きょうの教養 (芥川賞④藤野可織)

2013年上期 藤野可織「爪と目」 

「世にも珍しい二人称小説」/この作品はある女性が幼少時のことを振り返りつつ「、あなた」について書いたものだ。「あなた」は眼科医で、妻子ある年上の男性と知り合い不倫関係になる。男性の妻が死ぬと、結婚を視野に入れた同棲生活が始まった。「あなた」は仕事を辞めて、男性の前妻との子供である幼い女の子と一緒に暮らし始める。「あなた」は家事育児に熱心ではなく、女の子は爪を噛み始める。

「爪と目」は一人称でも三人称でもないちょっと特殊な文体で書かれている。一人称小説とは主人公の視点から書かれた小説。三人称小説は、主人公を観察した視点で描かれた小説だ。二人称小説は「あなた」について書かれる。「あなた」と言われると読書はドキッとするだろう。「え、私のこと」と一瞬思う。語りかけられている気分になる。普通の小説とはちょっと変わった読み応えになるのだ

選考委員の島田雅彦は「成功例の少ない二人小説としては例外的にうまくいっている」「文句なく藤野の最高傑作である」と絶賛した。「爪と目」は淡々と語られる描写に背筋がヒンヤリするような冷たさがある。選考委員の宮本輝も指摘するように「ホラー趣味」を感じさせる小説で、「純文学ホラー」と称されることもあるようだ。藤野も「エクソシスト」などホラー映画が好きだと語る。芥川賞の選考会の日も編集者たちとホラー映画を見ながら結果を待っていたという。

*** きょうの教養 (芥川賞⑤小山田浩子)

2013年下期 小山田浩子「穴」 

「ライトなカフカによる不思議な穴」/山田浩子は、文芸評論家の福田和也に「ライトなカフカ」と評されている。カフカは不条理な小説を書く作家だ。「穴」も不条理な小説だ。あさひは夫の転勤の都合で、夫の実家の隣にある一軒家に引っ越す。あさひは仕事を辞めて家事だけをする生活になり、あまりの環境の変化に呆然とする。

ある日、あさひはコンビニに行く途中で、「黒い獣」を目撃する。犬にも猫にも見えないその獣を思わず追いかけていると、あさひは穴に落ちるのだった。そこから抜けられずに困っていると、近所に住む女性が通りかかって助けてくれる。そこからコンビニ行くと、今度は子どもに囲まれてしまうのだった。おかしなことが次々と、静かに起こっていく。「穴」に出てくる人物は常に携帯電話を離さない夫や、いつも地面に水を撒いている義祖父、なぜか子どもに慕われている中年男性など、一つ一つは私たちが日常生活でも見るような光景が描写される。

しかし、それがなんだか奇妙な世界への叫びとなっているのだ。この作品を読んだ後に、ふと目にした光景の裏側を考えると、私たちの想像力は活発になっていくだろ