軍都東京を歩く(2024年1月29~2月2日)

2024.02.04教養講座

*** きょうの教養 (軍都東京を歩く①) 

東京は今や、世界に誇る近代都市の様相だが、明治維新から戦前は大日本帝国の首都で、多くの軍事施設があった。今でこそ華やかで穏やかな場所が、軍用地だったところも少なくない。作家の黒田涼さんの著書「大軍都・東京を歩く」(朝日新書、2014年)から、当時の痕跡をたどる。「ブラタモリ」のような歴史・地理探訪である。新旧の用途を比べると、軍都から文化・生活都市への変貌がわかる。

◎千代田・丸ノ内周辺

明治維新で明治天皇が東京に移り住んだが、旧幕府軍を中心とした反乱も予想された。このため皇居周辺は軍事施設で守るような配置になった。日本武道館がある北の丸公園は、天皇を守る「近衛師団司令部」(現・国立近代美術館工芸館)、「同歩兵第一・第二連隊」の拠点だった。国会の前庭公園北地区あたりは、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸があった。「三宅坂」といえば、戦後は最高裁や旧社会党本部を指すが、戦前は参謀本部だった。江戸時代は彦根藩井伊家の上屋敷だった。

中央官庁が立ち並ぶ霞が関一帯は日比谷練兵場で、東京に駐屯する軍の演習場だった。1888年、青山(現・神宮外苑)に移転したが、その後は法務省、大審院(現在の最高裁)、海軍省などが建てられた。法務省の建物は重要文化財として今も残る。

ビジネス街の丸の内・大手町は江戸時代、幕府に近い大名の屋敷だったが、維新後は陸軍練兵場や陸軍関連の諸施設になった。竹橋寄りは最後の将軍・一橋慶喜家の屋敷だった。1890年ころになると、政府は首都整備の要請から、一帯を三菱の岩崎弥之助に売却し、丸ビルなどになった。九段下にある九段会館は、鉄筋コンクリートの上に和風の屋根がある「帝冠様式」という昭和初期に流行ったスタイルで、在郷軍人会の軍人会館だった。2.26事件の時には戒厳司令部が置かれた。明治初期の東京の中心は日本橋や銀座だが、皇居は軍の施設を挟んでかなり離れていた。天皇はそれだけ一般社会と遠い存在だったとも言える。

*** きょうの教養 (軍都東京を歩く②) 

◎赤坂・青山・六本木周辺

東京で最も華やかな地域だが、軍都の痕跡は多い。赤坂サカスやTBSの土地は、陸軍囚獄所(刑務所)があり、1893年に近衛師団歩兵第三連隊が移転する。今でも陸軍の敷地を示す石柱が立っている。すぐ近くに六本木の東京ミッドタウンがあるが、2000年に市ヶ谷に移転するまで防衛庁(現・防衛省)があった。1874年から陸軍第一師団歩兵第一連隊の駐屯地だった。東京周辺から招集されたナンバーワンの名門連隊だった。西側にはいま、国立新美術館や日本学術会議、政策研究大学院大学があるが、同師団第三連隊が1889年から駐屯している。2.26事件の反乱兵は主に両連隊に所属していた。

戦後は米軍に接収され、「ハーディ・バラックス」と呼ばれる基地になった。順次返還されたが、今でも米軍赤坂プレスセンターとして、機関紙的存在の「星条旗新聞社」、宿舎、トランプ大統領が来日した際、移動に使われたヘリポートがある。六本木が国際的雰囲気になった一因がこの基地の存在だ。青山にも軍用地は多い。明治時代は広大な空き地で、射撃場がつくられ、現・青山葬儀所あたりが標的地だった。陸軍第一師団司令部、エリート養成の陸軍大学校もあった。その北側には広大な練兵場が丸の内から移転してくる。第3回の神宮外苑で紹介する。

同じ港区では芝にも軍施設が多かった。徳川氏の菩提寺である増上寺のある地域だが、維新後は明治政府から敵視され、敷地をどんどん取り上げられた。海軍省、同水路部(現・海上保安庁海洋情報部)、海軍経理学校が置かれた。今の東京タワー下には海軍の親睦組織「水交社」があり、戦死した山本五十六の国葬葬列はここから出発した。戦後は米軍に接収され、フリーメーソン(現・メイスン財団)に払い下げられた。白金台の明治学院大学の敷地はかつて、海軍軍人の墓地だった。すぐ近くに原生林が密集する自然教育園があるが、海軍の弾薬庫があり、広大な土地に火薬庫が点在していた。防衛省艦艇装備研究所などがある自衛隊目黒駐屯地は、1857年に幕府が作った火薬工場を起点とし、軍用地として江戸時代から長い歴史がある。

*** きょうの教養 (軍都東京を歩く③) 

◎外苑前・代々木公園周辺

神宮球場や国立競技場がある神宮外苑は、1886年にできた青山練兵場の跡地だ。明治天皇は大きな榎の西側で閲兵し、「御観兵榎」と名付けられた。今は2代目の榎がある。明治天皇が1912年に亡くなると、ここで葬儀が行われた。今の絵画館裏に葬場殿が設けられ、棺は当時あった線路を利用して京都に向かい、桃山御陵に葬られた。軍は1909年から代々木練兵場を使っていたが、その土地に明治神宮を創建。青山練兵場はセットで神宮外苑として整備された。国立競技場の場所には明治神宮外苑競技場ができ、1943年には出陣学徒壮行会が開かれ、記憶の碑がある。

JR中央線北側には慶応大学病院があるが、もとは陸軍の施設があった。軍事費ねん出のため売却することになり、慶応大学が念願の医学部設置のため手をあげ、1920年に開院した。商店街にしようとした当時の四谷区は反対運動を展開した。慶応大は解決金と土地の1割を寄贈し、四谷第六小学校ができた。また、今のJR中央線を新宿駅から東京駅へ延伸する際、建設を計画した民間事業者は、皇居の南側を通る甲州街道沿いのルートを想定した。しかし、陸軍が青山と三崎町(水道橋駅南側)の練兵場を結ぶよう横やりを入れ、大きくS字に北へ迂回する今のルートになった。赤坂御所の下を通る必要があったため、陸軍が皇室と談判し、今も使っている信濃町と四谷の間にトンネルを造った。

代々木練兵場は広大な台地で、跡地は明治神宮、代々木公園、NHKになった。木を切って原野とし、1910年、陸軍の徳川好敏大尉が日本で初めて航空機による飛行に成功した。近くの渋谷税務署は陸軍の監獄跡地に建てられたが、2.26事件の反乱将校らが処刑された場所で、関係者の慰霊碑が立っている。

*** きょうの教養 (軍都東京を歩く④) 

◎文京区・新宿区周辺

文京区の東京ドーム一帯は、1871年に兵部省の兵器工場がつくられた。当初は小銃の弾薬製造、銃の修理などをしたが、後に銃や大砲、弾薬など幅広く扱うことになった。関東大震災で被害を受けたため、北九州・小倉などへ工場の機能を移転し、後に民間に払い下げられて後楽園球場ができる。庭園として残っている小石川後楽園も工場になる予定だったが、フランスの軍事顧問だったルボン砲兵大尉が、陸軍の実力者・山県有朋に存続を直訴した。山県の自宅は椿山荘で、各地に庭園を持っているほど庭園好きだったため、存続することになった。

護国寺は徳川綱吉の創建で徳川家ゆかりの寺だったため、新政府は境内の東半分を皇族のための豊島岡墓地とした。西側の一部は陸軍埋葬地とし、在職中に亡くなった軍人が葬られた。護国寺には山県有朋、大隈重信、三条実朝ら明治の元勲の墓がある。

新宿区のJR市ヶ谷駅北側の防衛省一帯は、尾張徳川家の上屋敷だった。尾張徳川家は将軍を出さず、維新の際は新政府軍につく。維新後に土地はすべて新政府の兵部省に移った。1874年に陸軍士官学校がつくられ、「市ヶ谷台」は代名詞となる。1941年に三宅坂から陸軍省、参謀本部、大本営が移った。戦後は連合軍に接収され、極東国際軍事裁判の舞台。1960年に返還され、2000年に防衛庁が移転し、2007年に防衛省に格上げされた。

新宿区の戸山地区一帯は、尾張家の下屋敷があり、明治以降は軍の施設が多かった。国立国際医療研究センターは、陸軍第一病院が母体。軍医学校も近くにあり、1989年に地下から100体以上の人骨が発見され、生体実験した遺骨ではないかと騒ぎになった。戸山公園の中央にある箱根山は、尾張家の庭園の築山だったが、周辺は陸軍戸山学校の跡地。射撃場、練兵場、近衛騎兵第一連隊もあった。今は学習院女子大、早稲田大学の理工系学部があり、かつては西側にある山手線を超えて射撃練習をしていたという。

*** きょうの教養 (軍都東京を歩く⑤) 

◎北部地区・目黒区駒場周辺

都営地下鉄・新板橋駅の北側一帯は、加賀前田家の下屋敷で、1876年に火薬製造工場である陸軍砲兵本廠板橋属廠ができた。石神井川の水力を利用できる利点もあった。1940年に東京第二陸軍造兵廠(略称:二造)となり、最終的に15万坪という広大な工場になる。周辺の公園や小学校、東京家政大学などに二造時代の建物や碑が多く残っている。北側は北区赤羽方面だが、二造でつくった火薬の爆破実験をする射撃場や火薬庫、前線へ兵器や弾薬を補給する拠点だった。当時の線路や壁が残っている。

JR十条駅と王子駅の間も軍事施設が多かった。自衛隊十条駐屯地の前身は、1905年にできた兵器工場。1940年に東京第一陸軍造兵廠(一造)となり、面積は10万坪あった。近くに北区立中央図書館があるが、一造のレトロなレンガ造りの建物を利用している。北区中央公園文化センターは一造の本部だった。

目黒区の東急田園都市線・池尻大橋駅北側の駒場地区には、1891年に陸軍乗馬学校、1893年に陸軍乗馬学校ができた。明治天皇は馬術の演武を見に来た。一帯には都立駒場高校、筑波大付属駒場高校など学校が多いが、馬に関する碑も多い。騎兵第一連隊も置かれた。「日本騎兵の父」と言われ、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公となった秋山好古が大隊長になった。日清・日露戦争戦没者慰霊碑があり、建立者に秋山の名が刻まれている。

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東京の旧軍用地はこれ以外にも多いが、主に江戸時代の大名屋敷から転用された。最初は皇居周辺に多く、次第に宅地開発されていなかった郊外に広がった。神宮外苑は明治天皇の死をきっかけに公園になったが、終戦で軍用地から公園になった場所も多い。代々木、北の丸、日比谷、光が丘、戸山などの各公園が代表的だ。民有地になった場所は商店街やマンションなどに変貌した。軍都から文化・生活都市への移行がみてとれる。