山田太一エッセイ(2024年2月12~16日)

2024.02.16教養講座

*** きょうの教養 (山田太一エッセイ①) 

「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」「岸辺のアルバム」など数多くの名作ドラマを手がけた脚本家の山田太一さんは、昨年11月に老衰のため、89歳で亡くなった。東京・浅草で生まれ、木下恵介監督の助監督として映画作りに携わり、1965年には脚本家として独立したが、エッセイの名手でもあった。大きな矛盾をはらむ小さな現実や物語にこだわり、社会をみつめてきた。「夕暮れの時間に」(河出書房新社、2015年)から5編を選んで紹介する。

◎「新春の願い」  先日のテレビで小沢昭一さんへのロングインタビューの再放送があった。「ぜひともおっしゃりたいことは」というアナウンサーの質問に「戦争をしてはいけないということだ」といい、「昔は川中島で武田信玄と上杉謙信が戦った。つまり日本人同士が戦争をしていた。そういうことは今の日本にはない。人間の世界から戦争はなくならないと訳知り顔にいう人がいるけれど、そんなことはない。日本人同士の戦争がなくなっているではないか。戦争はやめられる。希望をなくしてはならない」という趣旨のことを話していた。 

心から共感する。戦争はいけないなんて、当たり前のことをわざわざ正月から言い出すなよ、ムッとされた人もいるだろうけれど、そんなことはない。私は心配である。日本が国内外の空気に押されて外交の柔軟性を失い、局所であれ、戦火を交えるようなことがないように心から願う。動機が正当だとしても、プライドや利権のために戦争を始めたら、犠牲は計り知れない。今はトンネルの天井板の落下も大事件だが、戦争となれば日々爆弾が落ちてきても当然という世界になるのである。対抗するには相手の国に同じように爆弾を落とすしかない。原発の多い日本がそんなことになったら、仮にその戦いに勝ったとしても滅亡する他はない。

馬鹿げた心配なら幸いである。年末の選挙でいったいこの人たちの誰に日本を託したらいいのか、と途方にくれた人も少なくないと思う。勇ましいこと言わないでもらいたい。引くに引けなくなることのないように、ぐずぐずだらだらでもいいから、戦争を外交で避けきる人たちであって欲しい。(多摩川新聞2013年1月1日)

*** きょうの教養 (山田太一エッセイ②) 

◎「いきいき生きたい」  東北の大震災は、日本の大体験だった。いや、だったなどとはとても言えない。いまの若い人が生きている間でも片づかないものをかかえた出来事になってしまった。思い出して鴨長明の「方丈記」を読んだという人が私の周りで何人もいる。私もその一人で、大火事、竜巻、飢饉、大地震、津波の、生々しく簡潔な名文に支えられた無常観は、まるでいまの私たちに向けて語りかけているように感じられた。

確かに人の一生なんて、天から見下ろせば小さくて束の間だし、いつ何があってすべてを失うかもしれず、死ぬかもしれず、見栄をはって豊かさを競うのも権力に身を寄せるのも、はじかれて苦しむのも、むなしいといえばむなしい。人が生きて行くために必要なものは、結局「方丈」――つまり畳五枚ぐらいの住まいでおさまってしまうのではないか、といわれると、ああ無駄なものを抱えているなあ、捨てなきゃと思いながら、いろいろ処分できないでいる私などは、反省ばかりという気持ちになる。

たしかに死んでしまえば万事が終わりなのだから、むなしいといえばすべてがむなしい。何かに執着するのは愚かといわれればその通り愚かである。しかし、どこに住んでも文句をいわれない土地のある平安時代に、お坊さんで、家族もなく、人とも付き合わず、嫁がなくても自給自足できる、老境の近い人のいうことは割り引いて聞いた方がいいと思う。お坊さんへの教訓としてはよくわかるが、俗人には無理があると思う。死ぬことを考えたら、確かにむなしいことばかりだが、すぐ死ぬわけではない人間は、そんな啓示で身をつつしんでいたら、生きているうちから死んだようになってしまう。 

大災害は、ぎりぎり一番大切なものを教えてくれる。生きているだけでありがたいとか、絆が大事だとか、確かにそれは真実だが、究極の真理だけで、私たちは日々をいきいき生きていけないのだと思う。哀しいといえば哀しいが、それが生きているということなのだと思う。(多摩川新聞2012年1月1日)

*** きょうの教養 (山田太一エッセイ③) 

◎「小津の戦争」  長いこと「東京物語」の瑕瑾(かきん=欠点)のように思っていたセリフがある。周吉(笠智衆)が紀子(原節子)に、もう戦死した息子の事は忘れてくれ、「ええとこ」があったら、いつでもお嫁に行っておくれというと、紀子が「私ずるいんです」という。そんな「いい人間じゃない」という。「いつも昌二さん(亡夫)のことばっかり考えてるわけじゃありません」「思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです」と。それを「ずるい」というように自分から三度もいうのである。

夫の死から8年がたっている。いつも亡夫のことばかり考えていないのは当然であり、思い出さない日があるのも当然であり、それを「ずるい」という強い言葉でいうのは相手がそれを打ち消すのを見越したうえでの偽善の言葉で、紀子の人物像を小さく傷つけるように感じた。それに周吉は「いやあ、ずるうはない」「あんたは、ええ人じゃよ、正直で」と応ずる。

しかし、紀子は正直だろうか。本当に自分を「ずるい」と思っているだろうか。死んで8年もたてば亡夫が遠くなるのは当然と思いながら、きれいな口をきいたのではないだろうか。紀子は明らかに小津作品の肯定的人物なのだから、こんな疑わしいやりとりはしないほうがいい、と名作のこのシーンだけは浮いているような気がしてならなかった。それがある日、小津の軍服の写真を見ていて、紀子が自分を「ずるい」と感じる気持ちを突然納得した。

亡夫は戦死をしたのであった。紀子は――そして小津は――ただ亡夫を忘れかけていることを「ずるい」といったのではなかった。8年前までの戦争でおびただしい数の日本人が死んだことを、半ば忘れかけている自分を――小津を「ずるい」といったのだった。そのようにとれば8年間は長いとはいえない。忘れかけていることを「ずるい」と思う感情もよくわかる。小津は生き残った自分を責める気持ちを紀子に託したのだ、とみるみる瑕瑾の消える思いをしたが、どんなものだろうか。(「東京人」2003年10月号)

*** きょうの教養 (山田太一エッセイ④) 

◎同じ家族はいない  寺田寅彦の「柿の種」という短文集の一文が、まるで自分が体験したことのように残っていて、いつの間にか勝手に映像つきにまでなっている。私の気持ちの芯のようなものに触れたというようなことかもしれない。短いので全文を引用させていただく。

大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出てきた。近づいたとき見ると、男の顔にはなんという皮膚病だか、ブドウぐらいの大きさのイボが一面にあって、見るのもおぞましく、身の毛がよだつような心地がした。背中の子供は、やっと三つか四つの可愛い女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持がした。(岩波文庫版)

家族の一番いいところをとらえているように思えた。女の子はやがて父親のおぞましさに気がつかないわけにはいかないだろう。誰だって社会の美意識や価値観と無縁ではいられないから、そんな家族から逃れたいと思うかもしれない。はた目には瞬時にそれが予感できるから、女の子がおぞましい容貌などものともせず、うららかに「おとうちゃん」と呼ぶ声に胸を打たれるのだろう。

誰でも両親を選べない。生まれてきた家も土地も選べない。生年月日も性別も容姿も選べない。だからこそ人はその宿命性に違和感を抱き、人によっては憎んだり悲しんだりするのだが、一方でその宿命性を、その女の子のように「うららかに」愛せたらどんなにいいかと思っているのではないだろうか。人間がそれらの宿命性を持つことなく、生まれる前に自分で家族も性別も容姿も選べるとしたら、人は無限の自由の前で立ちすくむしかないだろう。それぞれが他の人間とは違う限界と可能性を持っているからこそ、人生は豊かにもなり、悲しくもなり、陰影も深みも味わいにも恵まれるのではないだろうか。誰かに文句をいいようもないそれぞれの宿命性は、人間のもつ宝だと思う。

誰もが同じスタートラインに立って走り出し、それで上位に入れなかった者は努力が足りないのだというような人間観は、あまりにそれぞれの宿命性を無視した考えで、ちょっと家族を見渡すだけで、いかに不自然な説教であるかと感じるのではないだろうか。(「健康」2012年春号)

*** きょうの教養 (山田太一エッセイ⑤) 

◎あとがき  画家の木下晋さんの絵は黒一色の鉛筆画なのである。描かれているのは、しわの多いシミの多い老婆や老人の頭部や全身像で、やせ衰えた裸体である。大きいのに細密で、シワの一本一本が丁寧に鉛筆で描かれている。しわが並ではない。見事にしわだらけなのである。美しいと思った。引きこまれた。

木下さんと雑談をする機会があった。私は「どうして老婆老人ばかりを描くのですか」と聞いてしまった。「しわのない肌はつまらないから」とさらりといわれてしまった。しわのない肌が語る人生などたかが知れている。深みも悲しみも歳月もない。そう思っていなければ、しわばかり描けるものではない。しかし、そのような物言いを偽善ではなく、長年の仕事を背にして口に出来る人は滅多にいるものではないと一礼してしまった。

木下さんは流布している美意識とは反対のことをいっているのである。「マイナス」こそ美ではないか、生きている証拠ではないか、それらを美として見る目こそ私たちを解放するのではないか。通俗の言葉に翻訳すればそういうことでもあると思う。日本の科学や医学は老人を長生きにしてくれたけれども、早くもその成果を持て余しているのではないだろうか。老人の数を調節できないかと考えてやしないだろうか。老人に長命に見合うほどの取り柄が見つからないのだ。

しかし社会は現在と未来だけでは不足で、過去を生きた人たちを失えば、その分人間の現実を見失ってしまう、と思うのだが。木下さんは「シミひとつない肌」を嫌がったりはしないだろう。ところが老人の私は、生活者としても「シミひとつない」はとっくに無縁で、老婆の真実の方がずっと身近である。老いの実存を見つめ直したいような欲求が湧いているのである。しかしそれはまだとば口で、自力できいた風なことをいう力がない。そこで、木下さんのしわの美の発見に(勝手ながら)すがってしまったのである。(2015年7月)