教養とは何か(2024年2月19~23日)

2024.02.23教養講座

*** きょうの教養 (教養とは何か①) 

今週は「教養とは何か」を多角的に考える。答えがいくつもありそうなテーマだが、一般人には学術的な教養より、実践的な教養が重要になる。それぞれが考えて自分なりに定義し、日々実行していくことが重要だろう。有識者による1話10分のオンライ講義を提供している「テンミニッツTV」などから5人の意見を紹介する。

◎橋爪大三郎=社会学者、東京工業大学名誉教授/「人類の思考を本で学ぶ」

教養とは「人間の考えてきたことすべて」と言える。私たちは他人とともに生きていく。子どもの世界は狭いが、大人は教養を得て、大きな世界で生きていく。想定外の事態に直面して決断・行動する時、どれだけ準備をしていたかが問われる。過去の人がどんな考え方をしていたかは参考になる。それをもたらすのは本だ。特に古典は重要で、過去に伝える価値があると思ったものがリレーゲームで生き残っている。過去の人も将来を真剣に考えてきた。その考えを知ることは、人間として一回り大きくなる。本は相手に断られず、大事なことを教えてくれる。効率がいい。

教養があれば意思決定の質を高めることができ、社会がよくなる。民主主義は自分たちで決め、独裁は1人が決めるが、民主主義社会では「分断」が起きている。最近の新しい問題で、格差とも違う。異なるグループが存在し、その間で話が通じない。教養はいろいろな人が考えたことをバランスよく理解することであり、分断の反対語でもある。情報のクオリティが低いSNSの出現も関係している。本は書く人がかなりのエネルギーを費やしているので、クオリティが高い。教養とネットは、水と油と言ってもいい。

最近は答えのない問題にどう立ち向かうかが問われている。ゴールがわかっていれば先生に学べばいいが、ゴールがない場合は自分たちで考えるしかない。ものを考えるプロに聞けばいいが、本の書き手はこのプロといえる。議論に勝ち残ったものが本になっている。その時点でのプラスアルファがたくさん書いてあり、どう捉えるかが重要になる。今ある証拠より、将来の想像力が重要になる。AIの登場で人間との関係が問われているが、AIは将棋ができても、まだ本を書けない。人間が本を書けるのは、セオリーはない、雲をつかむようなことをできるからだ。モヤモヤしていることを言葉にできるのが人間だ。(テンミニッツTV)

*** きょうの教養 (教養とは何か②) 

◎小宮山宏=元東大工学部長・総長、三菱総合研究所理事長/「行動こそが教養の時代」

教養とは、「本質をとらえる知」、「他者を感じる力」、「先頭に立つ勇気」だと思う。今は行動が重みを増している。特に日本ではそうだ。例えば世界では再生エネルギーが主流になっているが、日本の電力会社は変わらない。政府が電力会社にヒアリングすると、現状維持になってしまう。原発はすでにマイナーで二次的なものだが、改革しない。大企業は「オープンイノベーション」といって、ベンチャーとの共同作業を進めている。新しいものをつくるのには分野の違う人の議論が重要だ。カリフォルニア大学に留学していた時、週1回のドーナツパーティーがあり、自由に議論した。日本でも同じようなことをやったが、根づかない。みんな遠慮して話さない。いろんな視点を出すことによって、新しい視点が生み出されるのに。

かつてロサンゼルス地震で高速道路が倒れた時、日本では起きないと専門家は言っていた。しかし、阪神淡路大震災で倒壊した。一定の前提では起きないが、前提が違えばすべて変わってしまう。福島第一原発は五重のチェックをしていると聞いたが、津波で事故を起こした。専門家は一定の前提の中でしか議論をしない。社会を変えられないと思っている日本人が多い。無力感を感じている。しかし、スウェーデンのトゥーンベリさんは気候変動問題を解決しようと行動している。ある意味、天才だ。小さく自立した世界であれば、実感がわいてくる。シンガポールやフィンランドのような小さな国は元気がある。税金も自分たちが払ったものが、どう返ってくるか実感がある。日本でもそうした面を持てればと思う。

教養は、学問や学者の世界だけのものではなく、一般生活の中での素敵な考え方や振る舞いもある。リーダーは重要だが、フォロワーも大切である。日本にグーグルのような大企業が出なくてもいい。グーグルなどが開発したものをどう取り入れるかも重要だ。(テンミニッツTV)

*** きょうの教養 (教養とは何か③) 

◎長谷川眞理子=前総合研究大学院大学長/「自分で考える人間を議論で育てる」

日本で教養学部廃止論が活発だった1990年代初め、アメリカのエール大学で教えた。リベラルアーツを核とする大学で、学生は4年間ずっと教養学部で学ぶ。エール大学の学生用のシラバスは教養について、次のように書いてある。

人類が集積してきた知の体系には4分野がある。哲学・文学・歴史などの「人文科学」、法学・経済学・社会学などの「社会科学」、物理学・化学・生物学などの「自然科学」、そして「語学」。世界の多様な言語を学ぶと、それぞれの言語のもとで育まれる文化も知ることができる。この4分野のいくつかに精通するメジャー(専攻)とマイナー(副専攻)を専攻する。さらに次が重要で、「一市民としてこれからの社会で直面する諸問題に対し、何ものにも惑わされることなく、自分自身の判断をくだすことができるような人間にする」と書いてある。民主主義を支えるには「自分で考える人間」「批判的思考のできる人間」が必要で、そうでなければ民主主義社会がうまく働かない。そういう人間を育てる基礎が教養だという。

欧米の大学では、おやつや夕食の時間によく知らない人同士が集まって議論する場が数多くある。お互いのやっていること、考えていることを話し、時に価値観をぶつけ合いながら、いろいろな話をする。お互いの好奇心やイマジネーションを深めていく場になっている。日本の初等教育は、変な事を言ってはいけないという同調圧力が強く、あまり自分の意見や本心を言わず、忖度して探り合い、議論をしない。枝葉にこだわり、全体感や本質に関する思考が少ない。何か反対があると、やめてしまう傾向もある。

本来ホモサピエンスは好奇心が旺盛だ。情報は断片ではダメで、自分で整理する軸が必要になる。日本では明治以降の教養人が世間の生活から離れて机上の空論になってしまい、教養を重視しなくなった。知識を構造化する軸となるような価値観を持ち、どんなことでも意見が言えるようにもっともっと議論する必要がある。(テンミニッツTV)

*** きょうの教養 (教養とは何か④) 

◎納富信富=東大大学院人文社会系研究科教授/「教養重視が欧州のアイデンティティー」

古典を学び教養ある人間になることがヨーロッパの理想だった。西洋の考え方が拡張し、今のグローバル社会になったともいえる。個人主義、人権、自由、個人情報といった概念は西洋発のグローバルスタンダードである。ヨーロッパとは文化的概念で、ギリシャ・ローマの古典とキリスト教を二本柱にしている。ヨーロッパのアイデンティティーと言える。古典を学び、人格を陶冶することこそが、ヨーロッパで最も格の高いエリートの学問である。古代ギリシャ語やラテン語で古典を読むことが、文化的な伝統になっている。

日本は明治維新で近代化が始まったが、オランダに留学して法律を学んだ西周は、ヨーロッパの基本はギリシャ哲学だと気がついた。法律以前に大事なものがあると自覚し、日本はサルまねではダメだ、西洋の根本にあるギリシャ哲学を知ろうと考えた。西洋の哲学を紹介したが、「哲学」という言葉自体、西の造語である。日本の知識人は夏目漱石に代表されるように西洋文化と日本の伝統との葛藤に苦しんだ。漱石の「私の個人主義」は代表作である。

なぜギリシャが起源になったかといえば、学問のルーツがギリシャにあるからだ。アリストテレスに代表される科学や哲学などいろいろな学問が出揃った。プラトンが作った学校(アカデメイア)ができたことも大きい。学校という教育制度を確立し、後世に大きな影響を与えた。東洋にも学問はあるが、学校との連動はなかった。ロゴス(言論)が合理性を生むという考え方も大きい。ポリス社会は民主社会で絶対的な人がいないので、言論の文化や自由が発達した。今の社会のモデルになっているとも言える。

しかし今は、西洋社会の行き詰まりがいろいろな形で出ている。環境破壊、個人主義の行きすぎといった点だ。これらすべてを相対化し、何が求められているか考える必要性が生まれている。ワールドフィロソフィーとも言える世界的な哲学が必要になっている。日本は西洋の動きを相対化し、中立的に学べる位置にいる。西洋文明を基盤とし、多元的な価値を対話で創造する新しい考え方を生み出したい。(テンミニッツTV)

*** きょうの教養 (教養とは何か⑤) 

◎石井洋次郎=東大名誉教授、元東大教養学部長・副学長/「4つの限界超えるリベラルアーツ」

「教養人はまず専門人でなければならない」と考えている。自分の「軸」や「核」がある程度固まってきた学生や人間にとってこそ、異分野との対話を通して疑問を投げかけ、他者に向かって開き、根底から見直すことが必要だ。リベラルアーツという概念は、「人を自由にする」「解放する」というリベラルの動詞的な意味が込められている。人々を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための知識や技能を意味する概念だ。学生や人は4つの限界を抱えている。

最もわかりやすいのは「知識の限界」だ。すべてを知っている人間はいないのだから、誰もが多かれ少なかれ無知な存在である。次に「経験の限界」がある。経験は必ずしも年齢に比例するわけではないが、若い学生が接したことのある人間や行ったことのある場所は、相対的に少ない。自分と異なる価値観と正面からぶつかる機会もそれだけ乏しい。第3は「思考の限界」である。知識も経験も努力を積み重ねさえすれば広げることが可能だが、思考はそうはいけない。限界を乗り越えるためには、ひたすら本を読み、教員や友人たちと議論し、他者の言葉と格闘することによって「思考の筋肉」そのものを鍛えるしかない。リベラルアーツの最も重要な意義は、こうした訓練を通して学生の精神を既成の価値観から解き放ち、自分を取り巻く世界とより柔軟で豊かな関係を結べるようにすることにある。

第4は「領域の限界」である。特定の専門領域に「囚われて」いない者を解放することはできないが、狭い専門性に「囚われ」かけた段階で、その領域を相対化する視野が必要になる。具体的な試みとしては、「異分野交流・多分野協力」があげられる。(「大人になるためのリベラルアーツ」=2016年、東京大学出版会から)