3.11の記憶 天声こども語紀行

2024.03.11コラム

2024年3月11日付・朝日小学生新聞1面コラム「天声こども語」

13年前のきょう、東日本大震災がおきました。日本人にとって忘れられない日があります。ここ100年では戦争に負けた8月15日があります。3月11日もそのひとつでしょう。多くの人はその日何をしていたかを覚えています▼筆者は名古屋市に勤務し、その日は岐阜県高山市に出張していました。テレビを見たら、津波が港を襲っていました。同僚が「名古屋に帰った方がいい」といい、戻った名古屋駅は新幹線が乱れて騒然としていました▼被災地には9年後に初めて行きました。原発事故の影響で立入禁止の場所に鉄のネットがありました。車で回りましたが、行く先々がふさがれて少し迷ってしまいました▼東日本大震災の時、皆さんはまだ生まれていませんが、能登半島地震のあった今年1月1日は覚えているはずです。ふだんの生活に関係がないと忘れがちですが、ときどき思い出し、忘れないことが大切です。

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2011年3月11日、あなたはどこで、何をしていただろうか。当時、それなりの年齢の人なら覚えているだろう。アメリカ人なら、同時多発テロのあった2001年9月11日が同じような日になる。ウクライナ人ならロシアが侵攻してきた2022年2月24日。日本では1945年8月15日、戦争に負けて皇居前広場で座り込む人がいた。毎年テレビで見る光景で、「民族の記憶」となる。1995年1月17日の阪神淡路大震災も忘れてはならない日だが、直下型で被害が集中していた。「3.11」は、被害地域の広さ、死者の多さ、津波の衝撃、それに原発事故が重なる。ここ100年では「終戦」に近い衝撃ではないだろうか。

3月11日の天声こども語の担当になった。東日本大震災を書かない選択はない。さてどうするか。「忘れてはならない日」をテーマにした。こども語に書いたように、当日は岐阜県高山市に出張していた。支局長が近く会社を辞めるので、送別やその後の支局運営の相談をするためだった。地震のあった午後2時46分は、電車の中で10分ほどで高山駅に着くところだった。名古屋は少し揺れたらしいが、高山は揺れを感知せず、ましてや電車の中だったので何もわからなかった。

まず支局に行って、支局長とテレビを見た。最初は状況もよくわからない。いろいろな現場を映し始め、港に津波が来て地上に海水が広がっている映像が流れた。石巻だろうか、釜石だろうか、覚えていない。「これは大変だ」と支局長ともども驚いた。こんな映像は生まれて初めて見た。「早く名古屋に帰ったほうがいいんじゃないですか」と言われ、電車にとび乗った。ほぼ2時間半かかる電車の中でラジオを聞いていたが、「具体的な被害はまだよくわかりません」「死者1人が確認されました」といった程度だった。「1人のはずはないだろう」と思ったが、報道機関は根拠がなければ伝えられない。

大きな被害が世界に衝撃を与えたことは、承知の通りだ。災害大国と言われる日本だが、今思えば戦後は大きな自然災害が少なかったように思う。伊勢湾台風があったが、阪神淡路大震災まで日本は平和で豊かかで災害も少ないと思っていた人が多いのではないだろうか。津波の威力、さらには人類の救世主のような言い方もされた原発の大惨事を目にして、世の中の不条理や人間の無力さを感じなかった人はいないだろう。哲学や人間存在に関わる本に目を通すことが多くなり、倫理社会の高校教科書も読んでみた。

被災地を早く見たかったが、なかなか機会がなかった。訪れたのは2020年秋。当時は朝日新聞掛川支局長で浜岡原発を担当していたので、原発を考える記事の取材だった。「チェルノブイリの祈り」という本をご存知だろうか。著者はベラルーシのアレクシェービッチさんで、ノーベル文学賞を受賞した。アレクシェービッチさんは2016年、福島の被災地を訪れた。同行したのがいわき市在住の元高校校長で、原発事故をテーマにした「夕焼け売り」で現代詩人賞を受賞した詩人でもあった。「原発という科学技術によって地域の土着文化が根こそぎはぎ取られた」と話していた。丹精込めた田畑の土を削り取る除染はその象徴的な行為である。

翌日は、レンタカーで浜通りと呼ばれる海沿いを北上した。富岡、大熊、双葉、浪江、南相馬などの地名をよく聞いていたが、位置関係がやっとわかった。立ち入り禁止区域が残り、住宅には草が生い茂る。時間は震災当時に止まったままだ。あちこちに警備員が立ち、人件費はどうなっているのだろうかと思った。禁止区域は込み入っており、袋小路のようで迷うこともあった。福島総局の後輩記者は「夜取材に行って迷い、本当に泣きたくなった」と話していた。その気持はよくわかった。かつて「どんどん再稼働を」と言っていた経団連会長がいた。浜岡原発を視察した時、原発再稼働に慎重な人たちについて「原爆と原発を混同しているのだろう」と発言した。原発メーカーのトップだったが、慎重派についてその程度の知識しか持ち合わせていなかったのだ。再稼働を主張する人たちは、少なくとも現場を体感するべきだろう。頭だけで考えて結論を出す問題ではない。

日本海側で大地震は起きないと思っていた人も多いようだが、能登半島地震では志賀原発が被害を受けた。震災の影響について、北陸電力の発表が二転三転した。もし稼働中で、放射能漏れの事故があれば、道路の寸断や家屋倒壊で避難もままならなかっただろう。避難計画はほとんど絵に描いた餅だが、国に言われて自治体はやむなく作っている。実効性に疑問を持っているが、口にはしない。珠洲市には原発建設が予定されていた。住民の反対で頓挫したが、もしできていたら、どうなっていただろうか。海岸隆起で大惨事になっていなかっただろうか。

浜岡原発近くでも海岸隆起の前例はある。徳川家康が築城した横須賀城の跡地(掛川市)近くだ。戦国時代から江戸時代にかけて城下まで船が来ていたが、地震で隆起した。今は城の跡地から太平洋まで2キロほど離れている。想定外が起こるのが自然だ。中部電力に「海岸が隆起をしても原発は大丈夫か」と聞いたところ、「大丈夫なように設計している」という答えだった。再稼働を目指している以上、問題があるとは言えない。工学博士の小宮山宏・元東大総長は「地震でも大丈夫というのは一定の前提を置いている限りであって、前提が変わればどうなるかわからないのが実態」と指摘している。

2021年3月は大震災から10年、浜岡原発停止から10年なので、掛川記者クラブは浜岡原発責任者の記者会見を求めた。ところが、「節目と思っていない」という理由で会見しなかった。窓口役の広報は前向きだったが、責任者が断ったのだ。記者クラブは文書で中部電力社長に抗議の意を伝えたが、ナシのつぶて。ふだんは「地元とのコミュニケーションを大切にする」と言っているが、言動は一致していない。初任地の新潟以来、原発と電力会社とは40年以上つき合ってきたが、電力会社はこと原発については言動不一致で信用できない。あえて電力会社に同情すれば、放射能という自然界では分解せず、人間の時間観念では処理できない物質を扱っていることが根本原因ともいえる。原発は今の電力会社の管理能力を超えていると思うが、どうだろうか。