長島茂雄の佐倉に感動した! 天声こども語紀行
2024年3月31日付・朝日小学生新聞1面コラム「天声こども語」
城で栄えた古い町を紹介する「日本百城下町」という本が出ました。作家の黒田涼さんが7年ほどの間に200近い町を訪れ、選びました▼その一つ、千葉県佐倉市に行ってきました。長く東京に住んでいますが、行くのは初めてです。小高い山にあったという城は、もうありません。敵の侵入を防ぐ「土塁」と呼ばれる盛り土が残っています。今は国立歴史民俗博物館があり、とても立派な展示がされています▼町には武士の家が3軒残っています。東京近郊では珍しく、遠い昔を思わせる静かな雰囲気が残っていました。医学の世界では「西の長崎、東の佐倉」といわれ、順天堂医院の生まれた町です。どれも初めて知りました▼日本の町はどこも同じだと思いがちですが、そうではありません。黒田さんは「地方は多様で豊かでおもしろい。違いがあるから新しいものが生まれる」と書いています。城下町に行ってみませんか。
千葉県佐倉市は、何の特徴もない地方都市だと思っていた。成田空港に向かう時、大きな田んぼがあるが、そこが佐倉市だ。長嶋茂雄選手の出身地ということは知っていた。佐倉一高(現・佐倉高校)時代、埼玉・大宮球場で放った大ホームランで一躍有名になった。甲子園には出られなかったが、立教大学へ進学できた。佐倉のイメージはその程度だったが、「日本百城下町」を読んで驚いた。長い歴史を持つ城下町であり、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれる医学の街なのだ。首都圏には30年以上拠点を構えているが、行ったこともなく、知らなかった。冷たい雨が降り、気温4度の3月23日、「長嶋の佐倉に行こう!」と勇んで出かけた。
最初に佐倉高校について書く。訪れたのは最後で、天声こども語では触れていないが、やはり長嶋の母校だけに関心が強い。ルーツは1792年にできた佐倉藩の学問所で、後に成徳書院と言われた。明治維新後、県立佐倉中学になったが、千葉中(現・千葉高校)に次いで千葉県では2番目の旧制中学だった。正門を入ってすぐのところに国の登録有形文化財になっている旧本館がある。1910年にできた、ああ堂々の建築物である。設計者は東武浅草駅も設計した久野節(みさお)。構内には校地を寄付した最後の藩主・堀田正倫(まさとも)の銅像もある。
学校の敷地には、佐倉藩や成徳書院の文書や資料を展示・保管している鹿山文庫がある。成徳書院の額や教材が飾られ、圧倒される。幕末に藩主だった堀田正睦(まさよし)は開明派で、幕府老中となり、ハリスと日米修好通商条約を結んだ。これが井伊直弼が暗殺される桜田門外の変につなだった。日本史教科書の世界だ。文庫の一角にあるのが、長嶋茂雄コーナーだ。大宮球場で大ホームランを打った試合のスコアブック(コピー)がある。本塁打を示すダイヤ型の筆跡が輝いている。
最初に掲載した写真のグラウンドにも行ってみた。長嶋が70年ほど前、主将としてこのグラウンドで泥だらけになっていたと思うと、感慨がわいてきた。長嶋や王貞治は、我らの小学生から中学生時代、圧倒的なスターだった。大谷翔平と同じか、それ以上ではないか。60歳くらいの佐倉高校OBとたまたま会った。高校生時代、長嶋が母校で講演をしたという。「後輩たちへのメッセージを話すのかと思ったけど、当時は巨人の監督で、戦力について細かくしゃべっていた。やはり天然でしょうかね」と話していた。ウィキペディアによると、県内随一の進学校である千葉高に進学する話もあった。成績はかなりよかったのだろうかと考えると、意図した天然かもしれないという気もしてくる。
佐倉には東京近郊では珍しい武家屋敷街もある。静かな家並みでそれなりの風情があった。3軒並んでおり、入場券は共通。順天堂記念館や藩主の旧堀田邸も見学できる券があったので、少し高いが買った。佐倉城址は土塁や空堀が残るが、城の建物はない。堀田正睦の銅像が建ち、国立歴史民俗博物館がある。国立だけあって多彩で精巧な展示がされ、驚いた。こんな立派な施設がなぜ佐倉にあるのか疑問に思ったが、明治時代になって陸軍が置かれ、首都圏ではまとまった国有地があり、歴史ある街なので白羽の矢が立ったらしい。そんなこんなを回っているうちに時間がなくなり、順天堂記念館や堀田邸訪問はあきらめた。もっと事前調査が必要だった。
長嶋の実家は、京成佐倉駅から一駅上野寄りの白井駅の近くだったという。父は佐倉市に合併する前の白井町で助役などを務めた地域の世話役だった。しかし、長嶋が立教大学に入学した直後に亡くなり、母親が困窮した家計を行商で支えた。近くで取れた野菜を東京や千葉で売るため、京成線に乗って通った。私が生まれた頃、長嶋の活躍を夢見た母が、同じ光景を見て東京に通っていた。そう思うと、また別の感慨がわいてきた。