日本百城下町(2024年4月1~5日)

2024.04.05教養講座

*** 今週の教養 (日本百城下町①) 

日本の都市は戦国時代までに骨格ができたと言われている。各地に生まれた城下町が基本で、独自の伝統や風土を守りながら今に続いている。作家の黒田涼さんは3月に「日本百城下町」(笠間書院)を出版したが、同書から穴場のようなオススメ城下町を5つ選んでもらい、紹介する。

◎寺池城(宮城県登米市) 登米市は「とめし」と読むが、合併前に市の一部だった登米町は「とよままち」。本来は「とよま」だった。その旧登米町の中心部に、江戸時代は「登米要害」とも呼ばれた寺池城があった。築城年代は不明で、江戸を本拠とした葛西氏が領地の拠点として築城。徳川秀吉によってとり潰され、仙台藩伊達家の分家である登米伊達氏の城下町になった。標識はあるが、遺構はほとんどない。

登米伊達氏は、一族だった白石宗直が新田開発や大阪の陣で功績をあげ、伊達姓を名乗ることが許された。宗直は北上川の付け替えという大工事も手がけ、米どころ仙台藩の実質百万石に大きく貢献した。石高は20万石と大名並みで、城は宗直が改修した北上川の近くにあり、米の積み出しなど様々な物資の輸送でにぎわった。明治に入っても地域の中心地で、一時は現在の岩手県と宮城県の間にあった水沢県の県庁も置かれた。町には明治以来の建物が多く、地元では町を「みやぎの明治村」とPRしている。代表は国の重要文化財である旧登米高等尋常小学校校舎。1888年に建てられた和洋折衷形式の木造校舎で、国内で最古級の校舎だ。今は教育資料館として公開されている。 

県庁所在地時代の1872年に建設された庁舎が残っており、水沢県庁記念館となっている。警察資料館は1889年に完成した登米警察署。おしゃれなバルコニーを備えた洋風木造建築だ。最近新築された登米懐古館は歴史博物館とも言えるもので、伊達騒動の背景となる一門の境界争いや新田開発の経緯がよく分かる。建物は隈研吾の設計で、屋根に植物がのり、木材が目立つユニークなものだ。武家屋敷や古い商家、城下町の街並みなど見どころは多い。全国的知名度は高くないが、それだけに落ち着いた情緒のある町である。

*** 今週の教養 (日本百城下町②) 

◎佐倉城(千葉県佐倉市)  築城は16世紀前半で、現在の城は1610年土井利勝が建てた。壮大な土塁と堀が特徴で、中心部は佐倉城址公園になっている。陸軍時代の遺構もある。「西の長崎、東の佐倉」という言葉がある。幕末期の日本で蘭方医学が盛んだったのは、長崎と佐倉であるという意味だ。鎖国下で西洋に開かれていた長崎はともかく、なぜ佐倉なのか。開国を進めた佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)によるところが大きい。

佐倉藩には成徳書院(長嶋茂雄が卒業した佐倉高校の源流)という学問所があり、学問が盛んだった。跡地の碑が市民体育館前にある。幕末には江戸湾や房総の海防役を受持ち、海外の知識も必要で、正睦は19歳で藩の実権を握ると改革を推進し蘭学を推奨した。1843年、高野長英らに学んだ蘭医佐藤泰然三を江戸から招き、佐倉順天堂という医学書兼病院を作らせる。江戸期の建物が残る記念館が城下のはずれにあり、隣接して今も順天堂医院が診療続けている。記念館には当時の医療器具が並び、盲腸や乳がん手術の様子などその先進性に驚く。

佐藤の弟子で養子となった佐藤尚中(たかなか)はのち江戸へ戻り、大学東校(現在の東大医学部)の初代校長となり、日本最古の大学と言える今の順天堂大学を開く。実子の松本良順も幕府医学所の頭取になり、維新後は初代の陸軍軍医総監となった。佐倉は日本の近代医学の発祥地と言ってもいいのだ。医学以外でも英学者の手塚律蔵、津田塾大学創設者・津田梅子の父で農学者の津田仙、日本最初の靴製造会社を設立した西村勝三らを育んだ。東京近郊では珍しく武家屋敷の街並みが残り、屋敷自体もいくつかが整備され内部も見学できる。堀田家が明治以降居を構えた重要文化財・旧堀田邸も残る。佐倉城内には国立歴史民俗博物館がある。ユニークな展示はぜひとも訪れておきたい。

*** 今週の教養 (日本百城下町③) 

◎龍野城(兵庫県たつの市)  築城は1499年で、いったん廃城となった。1672年に脇坂氏が再建し、幕末まで支配した。石垣のみ江戸期のもので、櫓や門が再現されている。城下町は城のある山と揖保川に挟まれた狭い地域だが、明治以降の発展からは少しずつ取り残されてきた。山陽本線の竜野駅ははるか南で、その後できた姫新線の本竜野駅も川向うになる。それが城下町の情緒を保つのに幸いした。城下の下川原商店街には延々と江戸情緒あふれる町家が並び、古民家を生かした旅館やカフェ、レストランができている。「武家屋敷資料館」など武家地の街並みが広がり、古い寺も多い。市名は「たつの」、駅名は「竜野」、地域・城名の「龍野」と3種類が入り混じり、ややこしい。

有名な特産品は薄口醤油だ。江戸時代に関西では昆布だしを使った料理が流行し、その風味を生かす醤油が求められるようになった。薄口醤油は色が薄く、風味も弱いが、塩分は濃い。製造の過程で大豆と小麦から作ったもろみに、米を原料にした甘酒と塩水を加えると出来上がる。この発明地がたつの市で、1666年のことだという。龍野藩はこの生産販売を奨励し、京都や大阪では今も薄口醤油が主流だ。東日本ではなじみが薄いため醤油全体に占める割合は全国で1割程度と低い。「うすくち龍野醤油資料館」で詳しく見ることができる。

醤油産地になったのは、鉄分の少ない揖保川の軟水、赤穂の塩、播州平野の小麦と原材料に恵まれたためだが、同じ原料を使ったのが手延べそうめんだ。「揖保乃糸」というブランドは有名で、たつの市を中心とした生産者組合の製品だ。歴史は醤油より古い。小麦粉と塩水を混ぜて練ったものに油を加えて熟成させることを何度も繰り返して伸ばす。熟成回数は5回ほど、合計24時間以上。その過程で弾力が生まれ、上級な麺ほど細くなり、あまり出回らない。「三神」という最上級品の太さは通常の3分の2以下だ。「揖保乃糸資料館 そうめんの里」がある。

*** 今週の教養 (日本百城下町④) 

◎宇陀松山城(奈良県宇陀市) 宇陀市は奈良県東北部にあり、三重県名張市と隣接する。城は南北朝時代に築城され、1615年に廃城になった。廃城の様子が文書で残り、発掘で検証できる貴重な城で、国史跡になっている。本丸までは遊歩道がある。宇陀は織田信雄の子孫が治めていたが、1695年に廃藩となり、幕府の直轄領となった。商人の町として栄え、熊野や伊勢にも通ずる街道であった。今も江戸時代かと見紛うほど古い建築が残る。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

カフェやケーキ屋もできているが、江戸時代創業の奈良漬店や古くからの薬局も残る。周囲に宿泊施設がないのが難点だが、1日あれば城跡も含めて回ることができる。車は近くの道の駅「宇陀路大宇陀」に止めて回るとよい。足湯もある。「薬の街」というと富山が思い浮かぶが、実は「薬売りの街」だ。では薬を使って作っていた街はどこか。この宇陀なのである。アステラス製薬、ロート製薬、ツムラ、「命と母」の笹岡薬品など創業者はいずれも宇陀市、中でも薬種商が軒を並べていた宇陀地区の出身者や縁者が多い。

歴史は古代に遡る。日本書紀にはこの周辺で薬草を取ったとの記述がある。その様子は「かぎろひの丘万葉公園」に絵で掲示してある。周辺に薬草が多く、気候が栽培に適したため薬の産地として知られるようになった。江戸時代半ばには幕府の支援を得て薬草園が作られ、今も「森野旧薬園」として見学できる。創始した当主は江戸期に薬草図鑑を著し、貴重な史料となっている。薬園にはNHK連続ドラマで人気になった牧野富太郎も視察に来た。今は葛粉販売をしている。現在は市が江戸期からの薬問屋の邸宅を利用した歴史文化館「薬の館」を運営している。江戸以来の薬種店の看板が並び、当時の商品名やデザインは面白い。

*** 今週の教養 (日本百城下町⑤) 

◎大洲城(愛媛県大洲市)  1331年に築城され、その後、藤堂高虎が整備した。江戸初期以降、大洲藩加藤氏の居城となった。現在の天守は2004年の木造復元で、ユニークな吹き抜けがあり、真柱が3階分通して眺められる。最近は天守を一棟貸しで泊まれることで有名になった。2名のみで、食事はこの街必見の「臥龍山荘」でとる。まさに現在の殿様である。2名で100万円。臥龍山荘は大洲市街の東のどん詰まりにある。臥龍という名は、山荘の前の岩山が「横たわる龍のようだ」と大津藩の殿様がつけた。明治以降は荒廃していたが、大洲周辺特産の木蝋(もくろう)輸出で巨万の富を得ていた地元の河内寅次郎が手に入れ、山荘を立てた。

寅次郎は1853年、豪商の家に生まれ、神戸に出て木蝋貿易に専念。木蝋は当時、欧米で綿織物を糊付けする材料として使われて、日本の特産品だった。1897年頃から工事を始め、最後の「臥竜院」が完成したのは1907年と10年以上かけた。どこもかしこも驚異に満ちている。門をくぐると、石垣の中から太い木が伸びている。元から生えていた木の周りに石垣を積んだという。脇の石垣は長い石を連ね、流水を表す。臥竜院の縁側は松の巨大な一枚岩に筋を掘ってわざわざ材を組み合わせたように見せている。不老庵は川に突き出た場所に石垣を組み、建物を浮かび上がらせて船に見立てている。川や対岸から見ると、高い自然の木の木に支えられているように見える。寅次郎は1909年に56歳で亡くなったので、ここではほとんど過ごせなかった。

城下町は古い町並みがよく残る。木蝋の蔵が「歴史探訪館」としてあり、明治期の繁栄ぶりを示す旧大洲商業銀行の建物が「おおず赤煉瓦館」としてギャラリーや土産物店になっている。夏は肱川で鵜飼が行われる。昼の鵜飼もあり、臥龍山荘下に乗船場があるので、川から見た不老庵の絶景を楽しめる。夜も不老庵はライトアップされる。