城下町・岩槻の心意気 天声こども語紀行

2024.05.06コラム

天声こども語の筆者は、日によって決まっている。5月5日が担当になった。さて、何を書くか。いうまでもなく、5月5日は「こどもの日」である。別の話題を書くわけにはいかない日といっていいだろう。最初は鯉のぼりを考えたが、今ひとつ。ならば五月人形ということで、人形産地の埼玉・岩槻を訪れた。

1984~85年、埼玉県の浦和支局で勤務した。岩槻の名前は当然知っているが、来たことはなかった。当時は県警と県庁を担当した。岩槻で大きな事件はなく、県政のテーマもなかったからだろう。当時は岩槻市だったが、さいたま市岩槻区に変わったと今回知った。無知ですねえ。

岩槻は東武野田線沿いにある。東京から行く場合、東武伊勢崎線の春日部経由とJRの大宮経由がある。行きは春日部、帰りは大宮を通ることにした。岩槻が城下町であることも今回知った。だめですねえ。駅の観光案内所で「城址公園はありますが、城はありません」と聞いた。「城がないからしらなかったんだ」と言い訳しながら駅を降りると、城下町の雰囲気が漂っていた。

岩槻の町並み

町並みは電線地中化で整備され、古い構えの家があちこちにある。今も商店として使っている建物も多い。「町を守るぞ」の心意気が伝わってくる。岩槻藩の私塾だった「遷喬館」(せんきょうかん)がある。児玉南柯(1746~1830)という儒者が開いた塾で、梅林のある広大な敷地で学問や武芸を教えたという。当時の藩校や私塾で残っている建物は少ない。2003年から5年間かけて修復した。

遷喬館の入口

武家屋敷があった道を歩く。しっかり区画された家が並び、往時をしのばせる。その先に「時の鐘」がある。岩槻藩主が1671年に設置し、1720年の改鋳を経て今に至るという。朝夕6時と正午の3回、今も美しい音を響かせている。明治時代に途絶えたが、大正時代に朝夕の鐘が復活し、2011年から観光客向けに正午の鐘も鳴らすようになった。これも心意気だ。

青空に映える「時の鐘」

天声こども語で取り上げた岩槻人形博物館もすぐ近くだ。心意気の最たるものだろう。日本画家の西澤笛畝(てきほ、1889~1965)が寄贈した人形のコレクションが目玉だ。地元の人形の展示や人形作りの紹介だけでなく、世界の人形が集まっていることが特徴だ。日光御成街道沿いで、かつて役場があった場所だ。少し離れた旧岩槻警察署庁舎は郷土資料館になっている。

岩槻人形博物館の外観。隣接してにぎわい交流館もある

さて観光案内のようにあちこち見てきたが、天声こども語をどう書くか。「決め手がないなあ」と思いながら駅前に戻ってきた。人形店の「東玉」(とうぎょく)は駅前に大きな本店とビルを持つ。創業170年の老舗で、岩槻藩の御殿医で人形も作っていた戸塚隆軒が藩主に人形を献上したところ、おほめの言葉をもらって創業した。ビルの4階には何と私設の博物館がある。

ちょっと暗く、係員もいない博物館に入ってみた。入口で料金を入れる。たくさんの人形が飾られていたが、1冊の本が目に止まった。東玉の人形工房の責任者だった鈴木賢一さんの写真集で、鈴木さんの書いた文章が載っている。東京・浅草で生まれた。父が病気で貧しく、長男だったので小学校卒業と同時に働き、人に勧められて人形師の弟子になって住み込み奉公を始めた。師匠夫妻が結核で倒れ、看病しながら教えてもらうことになった。人形が師匠の作品と似ていると不評で、苦しい時期を過ごした。ところがある時、ふとこれはという人形ができた。すると大きな賞を受け、迷いが吹っ切れて人形一筋の道を歩みだしたという。そして次のような一節が書かれている。

「人形には作り手の人間性が投影されると思っています。ですから、私は卑しい人間にだけはなるまいと努力してまいりました。そのことが私の人形に現われ、皆さまに品位として受けとって戴ければ、こんなに嬉しいことはございません。その時々に、感動したこと、考えていること、自然と起こる思いを、人形という形にどう定着するか。その時間が私にとって至福の時間と申せましょう。しかし、70年たった今でも、思った通りの人形は出来ません」。以下は写真集にあった作品である。

歌舞伎の「暫」
「基地の子」。顔をガラスに押し付けている

「凧上げ」
「母と子」