谷崎潤一郎の陰翳礼讃・厠論(2024年5月13~17日)

2024.05.17教養講座

*** 今週の教養 (谷崎潤一郎①) 

今週は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」(いんえい・らいさん)を中心に文豪谷崎の「厠論」(かわやろん=便所論)をみていく。同書は日本特有の美意識を論じた代表的な随筆だが、すべてを明るくする西洋に対し、暗闇を活用する日本ならでは美を考えている。近代化によって失われていく「陰翳の美」について、美的感覚の鋭さから海外の文化人にも影響を与えたといわれている。引用は「陰翳礼讃」と「厠のいろいろ」で、わかりにくい箇所は現代語にした。

◎「陰翳礼讃」①

私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠へ案内されるごとに、つくづく日本建築のありがたみを感じる。茶の間もいいにはいいけれども、日本の厠は実に精神が休まるようにできている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂いやコケの匂いのしてくるような植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わっていくのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想にふけり、または窓外の庭の景色を眺める気持ちは、なんとも言えない。

漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それはむしろ生理的快感であると言われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることのできる日本の厠ほど、格好な場所はあるまい。そうしてそれには、くり返して言うが、ある程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊のうなりさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。私はそういう厠にあって、しとしと降る雨の音を聞くのを好む。ことに関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたたり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を潤しつつ土にしみいるしめやかな音を、ひとしお身に聴くことができる。

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*** 今週の教養 (谷崎潤一郎②) 

◎「陰翳礼讃」②

まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月や月夜にもまたふさわしく、四季折々の物の哀れを味わうのに最も適した場所であって、おそらく古来の俳人はここから無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流にできているのは厠であるとも言えなくはない。すべてのものを詩化してしまう我らの祖先は、住宅中どこよりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、懐かしい連想の中へ包み込むようにした。

これを西洋人が頭から不浄扱いにし、公衆の前で口にすることさえ忌むのに比べれば、我らの方がはるかに賢明であり、真に風雅の骨髄を得ている。強いて欠点を言うならば、母屋から離れているために、夜中に通うには便利が悪く、冬はことに風邪をひく憂いがあることだけれども、「風流は寒きものなり」という斎藤緑雨の言の如く、ああいう場所は外気と同じ冷たさの方が気持ちがよい。ホテルの西洋便所で、スチームの温気がしてくるなどは、まことにイヤなものである。

ところで、数寄屋普請を好む人は、誰しもこういう日本流の厠を理想とするであろうが、寺院のように家の広い割に人数が少なく、しかも掃除の手が揃っているところはいいが、普通の住宅で、ああいう風に常に清潔を保つことは容易ではない。とりわけ床を板張りや畳にすると、礼儀作法をやかましくいい、雑巾がけを励行しても、つい汚れが目立つのである。で、これも結局はタイルを張り詰め、水洗式のタンクや便器を取り付けて、浄化装置にするのが、衛生的でもあれば、手数も省けるということになるが、その代わり「風雅」や「花鳥風月」とは全く縁が切れてしまう。あそこがそんなふうにパッと明るくて、おまけに四方が真っ白な壁だらけでは、漱石先生のいわゆる生理的快感を、心ゆく限り享楽する気分になりにくい。

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*** 今週の教養 (谷崎潤一郎③) 

◎「陰翳礼讃」③

なるほど、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが、自分の体から出るものの落ち着く先について、そうまで念を押さずとものことである。いくら美人の玉の肌でも、おしりや足を人前へ出しては失礼であると同じように、ああムキ出しに明るくするのはあまりといえば不躾千万、見える部分が清潔であるだけ見えない部分の連想を挑発させるようにもなる。やはりああいう場所は、もやもやとした薄暗がりの光線で包んで、どこから清浄になり、どこから不浄になるとも、けじめをもうろうとぼかしておいた方がよい。

まあそんな訳で、私も自分の家を建てるとき、浄化装置にはしたものの、タイルだけは一切使わぬようにして、床には楠の板を張りつめ、日本風の感じを出すようにしてみたが、さて困ったのは便器であった。というのは、ご承知の如く、水洗式のものはみな真っ白な磁器で出来ていて、ピカピカ光る金属製の取っ手などがついている。私の注文を言えば、あの器は、男子用のも、女子用のも、木製のやつが一番いい。蝋塗りにしたのは最も結構だが、木地のままでも、年月を経るうちには適当に黒ずんできて、木目が魅力を持つようになり、不思議に神経を落ち着かせる。

分けてもあの、木製の朝顔に青々とした杉の葉を詰めたのは、目に快いばかりでなく、いささかの音響も立てない点で理想的というべきである。私はああいう贅沢な真似は出来ないまでも、せめて自分の好みにかなった器を作り、それへ水洗式を応用するようにしてみたいと思ったのだが、そういうものを特別に誂えると、よほどの手間と費用がかかるので諦めるよりほかはなかった。そしてその時に感じたのは、照明にしろ、暖房にしろ、便器にしろ、文明の利器を取り入れるのにもちろん異論はないけれども、それならそれで、なぜもう少し我々の習慣や趣味生活を重んじ、それに順応するように改良を加えないのであろうか、という一事であった。

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*** 今週の教養 (谷崎潤一郎④) 

◎「厠のいろいろ」①

小便所は、朝顔(注:男性用小便器)へ杉の葉を詰めたものがもっとも雅味があるけれども、あれもどうかと思うのは、冬だとおびただしい湯気が立つのである。それはその理屈で、杉の葉があるために流れるものが流れてしまわずに、悠々と葉と葉の間を伝わって落ちるからであるが、放尿中生暖かい湯気が盛んに顔の方へのぼってくるのは、自分のものから出るのだからまだ辛抱ができるとしても、前の人のすぐあとなどへ行き合わせると、湯気の止むのを気長に待っていなければならない。

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料理屋やお茶屋などで、臭気止めに丁字(注:漢方薬に用いる生薬。フトモモ科のチョウジのつぼみを乾燥させたもの)を焚いている家があるが、やはり厠は在来の樟脳かナフタリンを使って厠らしい上品な匂いをさせる程度にし、あまり良い薫りのする香料を用いない方がよい。でないと、白檀が花柳病(注:性病)の薬に用いられてから一向ありがた味がなくなったようになるからである。丁字といえば昔はなまめかしい連想を伴う香料であったのに、そいつに厠の連想が結びついてはおしまいである。丁字風呂などといったって、誰も漬かる奴がなくなってしまう。私は丁字の香を愛するがゆえに、特に忠告する次第である。

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知人が関西に出張し、梅田から京都行きの汽車の中で便所に入ったが、ドアを強く閉めた拍子に握りの金具が落ちてしまったので、今度は開けることができなくなった。怒鳴っても進行中の汽車の中では聞きつけてくれるわけがない。仕方がないので、落ちた金具を拾い上げて、その先でコツコツとドアをたたいていた。すると乗客の誰かが気が付いて、車掌に知らせたらしく、京都に着く前に開けてもらうことができた。この話を聞いてから、汽車の便所に入るときには、ドアの開閉を乱暴にせぬよう特に心を配ることにしている。普通列車なら、最寄りの駅で止まったときに窓を開けて救いを求める方もあるが、夜汽車の急行でこういう災難に遭うと、何時間立ち往生させるかわからないからである。

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*** 今週の教養 (谷崎潤一郎⑤) 

◎「厠のいろいろ」②

 学校で、「便所へ行きたい」ということを英語では「アイ・ウォント・トゥー・ウオッシュ・マイ・ハンズ」と教わったけれども、実際はどうであろうか。私は西洋へ行ったことはないが、中国の天津で英国人のホテルへ泊まった時、食堂のボーイに「ホエア・イズ・トイレット・ルーム」と小声で聞いたら、「ダブル・シー?」と大きな声で聞き返されたのには面食らった。

それよりもっと困ったのは、杭州の中国人のホテルでにわかに下痢を催したので、「便所は」というと、ボーイがすぐに案内してくれたらよいが、あいにくそこには小便所しかないのである。私はハタと当惑した。なぜなら「大便所」という英語教わっていなかったからである。で、「もう一つの方だ」と言ってみたけれども、ボーイは悟ってくれないのである。他の事なら手真似でも説明できようが、大便を真似する勇気がない。そのうちにいよいよ催してくる。よくよく困った経験があるので、こういう場合に使う英語を覚えておこうと思いながら、実は今もって知らないのである。

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使用中の厠を間違えて開けて、「あ、誰か入っている」と叫ぶことがある。この場合の「誰か入っている」を英語でなんというか知っているんですか。そんな質問を、ずっと前にある席上で近松秋江氏(注:私小説作家)が発したことがある。多分、秋江氏は、ホテルかどこかの便所で西洋人の使った言葉を聞いたのであろう。そういう場合には「サムワン・イン?」と言うですな、とその時教えてくれた。が、それ以来24年になんなんとするけれども、まだこの英語は実地に応用する機会がない。