志賀直哉の随筆(2024年5月27~31日)

2024.05.31教養講座

*** 今週の教養 (志賀直哉の随筆①) 

志賀直哉(1883~1971)は「小説の神様」と呼ばれるが、随筆も多く残している。志賀直哉全集第7巻(岩波書店)から選んで紹介する。旧字は現代字にした。一部はわかりやすくし、短くするため略した。

◎天皇制(昭和21=1946年) 今度の戦争で天子様(天皇)に責任があるとは思われない。しかし天皇制には責任があると思う。天子様のご意志を無視し、少数の馬鹿者がこんな戦争を起こすことのできる天皇制、しかも最大限に悪用し得る脆弱性を持った天皇制は、国と国民とに災いとなった。

天子様と国民との古い関係をこの際捨て去ってしまうことは寂しい。今度の憲法が国民のそういう色々な不安を一掃してくれるものだと一番うれしいことである。しかし世界各国の君主が、老人の歯が抜け落ちるように落ちてゆくのを見ると、天皇制というものは今がそういうことになったのだというふうにも感じられる。天子様と天使様のご遺族がご不幸になられることは実に嫌だ。この問題が穏やかに落ち着くところに落ち着いてくれるといいと思っている。  

◎甲子園(昭和11=1936年) 甲子園の野球は毎年朝日新聞社から入場券をもらうので一度は見に行くが、暑い盛りに一日炎天下は体にこえる。昨年は11になる男の子も一緒だったし、終わりまで見ずに浜甲子園の動物園や水族館を見に行った。先年、中京商業と明石中学との試合は18回で9回の倍だけ見たのだから、もうよかろうとこの時も男の子連れであったが、大阪に帰り、料理屋で食事をしながらその続きをラジオで聞き、そして食事が進んでもいまだ勝負はつかず、往来へ出てしばらくして勝負表でようやく結果を知ったことがある。(注:延長25回)

私は十年以上奈良に住んでいるが、奈良県の学校は隣県の和歌山が強い関係で、その間多分一度しか出場したことがなかった。東京の出身校はいつも予選で負けてしまうので、私にとって甲子園でのひいきはないと言っていい。ただ初めて台湾の嘉義農林が出てきた時は、陰ながら何となしに大いに力こぶを入れた。そして決勝戦まで行ってついに負けてしまった。

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*** 今週の教養 (志賀直哉の随筆②) 

◎「特攻隊再教育」(昭和20=1945年)  特攻隊として特殊な精神教育を受けてきた青年たちを、そのまま復員してしまったことは、政府として、無責任極まる措置であったと思う。「死を見ること帰するが如く」という死に対する淡々たる心境は特攻隊がその任務に服するには最もふさわしいであろうが、まったく変わった今日の社会に、そのままの心境でいることは、誠に気の毒である。彼らが新しい生活を自身の力で見出せれば申し分ないが、思想そのものが今のように混乱していると、なかなか困難だろうと思う。おそらく彼等は今日の世相を軽佻浮薄、無節操なものと考え、白眼視しているのではないかと思う。

一方、終戦間際の彼らの飛行基地での生活は、例外もあると思うが、初めの頃の特攻隊の生活とは大分変わってきたような話も聞いた。彼らが戦争以外のこと、例えば人生とか故郷とか戦争に関係ない事柄に一切頭を向けないように、飲酒と女遊びを隊長達は勧めていたという話を聞いた。事実とすれば、悪い習慣を身につけて復員した青年たちが、今後どういうことになるか。復員の際のカネもいつまであるはずはなく、悪い習慣だけが残り、死ぬことが何でもないとすると、どういうことをしでかすか。まことに寒心に堪えぬものがある。今でも「特攻隊崩れ」という言葉が出てきているが、かつて特攻隊に対し何ともいいようのない悲壮な感情をもった国民が今さら、平気でそういう言葉を口にし、また口にしないではいられないようなことにはなりたくない。

青年たちの心境を健全なものに還す特別な教育をもう一度やる責任が政府にはあると思う。文部省と復員省は速やかにそういう学校を設け、彼らの頭を完全に切り替える工夫をすべきだ。もちろん自身でその切り替えのできた人々に対しては、そんな必要はないが。この戦争で日本が殺した青年の数は実に大変なものだ。中には日本の誇りともなるような人々がいたに違いない。そういう卵を日本は戦争でむなしく失った。今後わが国にとり、恐るべき人物の空白となる場合を考えると、今いる青年たちの中からひとりでも多く有為の人物を作り出すことに努力する責任がある。特攻隊のごとき変態的な教育を施し、終戦とともに復員し、何ら前後措置を取らないのは無責任極まることで、社会にいかなる悪影響を及ぼすか深く考えるべきだと思う。

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*** 今週の教養 (志賀直哉の随筆③) 

◎柳宗悦の遺産(昭和36=1961年)  昭和36年5月3日午前4時、柳宗悦は脳溢血で亡くなった。柳は4年半ほど前、脳血栓で倒れ、一時は絶望かと思ったが、頑張り通して左の半身不随で食い止めた。まもなく、書き物などほとんど不自由なくするようになった。脳を侵されながら、頭脳明晰になったようなところがあって、毎日民芸館に朝から出かけ、人々に会い、民芸館の買い物などもしていた。そして、立派な本を2、3冊出版している。柳は生来の勉強家で、仕事に対する意欲はむしろ異常といってもよく、そのため健康を害した点もあると思うが、己を捨て、仕事のためなら健康も捧げていいというような心境になっていたと思う。最近出版した「法と美」という本に挟んであった「御挨拶」という文章を写してみる。

御挨拶  目下の私の病状で、私に許されている唯一の可能な仕事は、私が今までめぐりあえた美の世界について、考えることと書くことでありました。それも当分は誰も考えてくれず、また書きそうもない本を残すことでありました。長い病気中に私は多くの方々から、浅からぬ志を受けましたので、その御返礼にもと存じ、春彼岸の日にこの小冊子をお届けいたすことになりました。まだ病弱な身体の私は、皆さんにお会いできる自由がなく、代わりにこの一冊でお会いできればと念じ、感謝の思いを込めて、これをご送付する次第であります。 昭和36年3月吉日 柳宗悦

柳は私よりも6つ年下で、柳が中等科の2、3年の頃、私の集めていた浮世絵を見に訪ねてきたのが最初で、以来55年ほどの交わりであるが、不思議に一度も喧嘩をしたことがない。我孫子では5、6年ほとんど毎日会っていたし、その後、親類となり、いま、共通の孫が3人ある。私は柳の民芸運動はたいしたものになるとよく言っていたが、案外早く実現し、柳がある程度、その成果を見て安心して亡くなったのは、せめてものことであった。柳の仕事に対する意欲は脳血栓という病気でさえもそれを妨げることはできなかった。柳の他力本願の思想は人間運動の背骨として一貫していた。柳宗悦の残した民芸運動は日本ばかりでなく、外国にまで及んで、実にたいした遺産となった。

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*** 今週の教養 (志賀直哉の随筆④) 

◎太宰治の死(昭和23=1948年) 太宰君の小説は8年ほど前にひとつ読んだが、題も内容も忘れてしまった。読後の印象はよくなかった。作家のとぼけたポーズが嫌だった。図々しさから来る人を食ったものだと一種の面白みを感じられる場合もあるが、弱さの意識から、その弱さを隠そうとするポーズなので、若い人として好ましい傾向ではないと思った。去年の秋、座談会で太宰君の小説をどう思うかと尋ねられ、とぼけたようなポーズが嫌いだと答えたのであるが、太宰君はそれを読んで不快に感じたらしく、雑誌で「ある老大家」という間接的な言い方で、私に反感を示したという。

太宰君の心中を知った時、私は嫌な気持ちになった。私の言ったことが多少ともその原因に含まれているのではないかと考え、憂鬱になった。この憂鬱は4、5日続いたが、一方ではこれはどうも仕方のないことだと思った。あまり大きく感じることは自分に危険なことだとも思った。それゆえ、死後発表される「如是我聞」で、私に悪意を示しているという噂を聞いた時、嫌な気もしたが、それくらいのことは私も言われた方がいいという一種の気安さも一緒に感じた。しかし、私は太宰君の心中にはどうしても同情はできなかった。死ぬならなぜ、一人で死ななかったろうと思った。

私の言ったことが心身ともに弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。太宰君にはまことに気の毒なことで、太宰君にとっても、私にとっても不幸なことであった。井伏鱒二君が2行でもいいから褒めてもらえばよかったと言っていたということを聞き、私の心は痛んだ。その後に読んだ「人間失格」の第2回目では私は少しも悪いとも思わなかったのだから、もっとたくさん読んでいれば太宰君のいいところも見出したかもしれないと思った。

太宰君でも織田作之助君でも、初めの頃は私にある好意を持っていてくれたような噂を聞くと、個人的に知り合う機会のなかったことは残念な気がする。知っていれば私はおそらく病気の徹底的な療養を2人に勧めたろうと思う。私は太宰君の死については書かぬつもりでいたが、「文藝」8月号の中野好夫君の「志賀と太宰」という文章を見て、書く気になった。中野君の文章には非情な誇張がある。面白づくで、この誇張がそのまま、伝説になられたら困るのでこれを書くことにした。

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*** 今週の教養 (志賀直哉の随筆⑤) 

◎「若き世代に訴える ペンクラブ講演会挨拶」(昭和22=1947年)  言論を圧迫し、無謀の戦争を起こし、敗れて、今日の日本となりました。一等国から三等、四等の国に下落し、今は文化国家として立つよりほかはないことになりました。戦争中、文化人は日陰者扱いを受けていましたが、戦後は急に活気を呈し、いろいろなことが文化人によって始められました。ペンクラブもその一つで、これが健全に発達し、数々の成果を収めてくれることを私は望んでおります。

日本が文化的に栄えるためには、外国から栄養を取る必要があります。翻訳が重要で、ペンクラブは当面の仕事として、外国のいい書物を自由に翻訳できるよう努力してもらいたいと思います。翻訳書を公正に評価し、いいものには会として折り紙をつけるようなことも仕事となるのではないでしょうか。日露戦争の後、国力の増進とともにその潮に乗って日本の文化は急速に進歩したと思います。ところが今日はちょうど反対の位置に置かれたわけで、文化の進展に大きなハンディキャップになります。今は文化人が文化国家建設ということで急に表面に活躍することになりましたが、重い荷物を背負わされたことになります。三等、四等の文化は意味のないことです。是が非でも一流のものを打ち立てなければなりません。

日本は昔から文化的に外国に誇ってもいい優れた人をたくさん出しています。私はよく俵屋宗達を考えます。宗達の作品は世界的に全くオリジナルで、一流です。文学の分野では井原西鶴もその一人です。日本にそういう人はたくさんいます。芸術の分野だけで考えても、日本人は一等国の国民としての素質を持った民族だという事ができます。人生は必ずしも人間の思考通りになるものではありません。禍が福になる場合もいくらもありますが、自然に福となるのではなく、意志を持つことによって初めて福となるのだと思います。今の若い人たちがそういう決心で闇から闇へ消えた人々の分までも背を背負って立つ覚悟で、気位は高く、希望を大きく持って、文化国家建設のために非常の精進をされることを望む次第であります。