橋爪大二郎の社会学概論(2024年6月3~7日)
*** 今週の教養 (橋爪大三郎の社会学講義①)
社会学は新しい学問である。目の前の社会を相対化し、新しい概念を切り出す鋭さが特徴だ。最近ではジェンダー平等の概念が代表的である。社会学の基本的な視点について、「社会学講義」(ちくま新書、2016年)の第1章に掲載された橋爪大三郎氏(東京工業大学名誉教授)の解説を紹介する。写真は社会学の巨人の1人であるマックス・ウェーバー。
◎他学問との比較
社会学はどういう学問なのか。他の学問とどう違うかを考えたい。政治学は一口で言うなら、「政府の行動を研究する学問」である。政府は主に行政という活動をする。経済学は「企業の行動を研究する学問」である。企業の他に私たちの家計もあり、経済学の対象は売買の関係による企業や家計のつながり、つまりマーケットなのだ。法学は「裁判所の行動を研究する学問」だと考えられる。このように政治学も経済学も法学もどれも社会のごく一面に注目して研究を進める。他の側面はとりあえずどうでもいい、という扱いになる。では取り残された側面は誰も研究しなくていいのだろうか。やはり社会全体を丸ごと研究する学問も必要だ。これが社会学なのである。
社会とはずばり「人間と人間との関係」である。関係を人間と切り離さないところが、社会学の物の見方の最大の特徴である。社会はあくまでも人間と人間の関係と見るのである。政治学は「人間と権力の関係」として扱う。経済学は「貨幣による関係」とし、法学は「法律による関係」として扱う。こうした関係は全て特殊なものである。こういう具合で社会学の守備範囲は非常に広くなる。研究の方法も何でもありで、柔軟である。
その他の学問との関係はどうだろうか。人類学は社会学と似ている。未開社会の政治も経済も法律も何でも扱うからである。ただ、自分たちの社会ではなく、よその社会、異文化を扱っている。心理学も社会学との関係が深いが、最大の違いは、心理学が人間と人間の関係に注意を払わない点にある。心理学は人間を1人だけ取り出して、こんな風に刺激を与えたらこんなふうに反応したという「刺激と反応の関係」を研究する。一方、社会学はあくまで社会を対象にする。
◆
*** 今週の教養 (橋爪大三郎の社会学講義②)
◎啓蒙思想からコントへ
社会とは何かという大きな謎をめぐって、数百年にわたって議論され、どうも社会学という学問が必要だとなった。社会学が一応成立した19世紀半ばまでの議論を考えてみたい。かつてはあるべき社会の姿を考えることに関心があった。啓蒙思想の時代だ。勃興しつつある市民階級は「現実社会は封建的でどうしようもない。あるべき社会を打ち立てよう」と考えた。望ましい社会は人間が理想的な関係を結んで作り出す社会であり、キーワードが「契約」だった。啓蒙主義者たちは「社会契約」によって市民社会を打ち立てるという理想と気概に燃えていた。当時は政治学や経済学とかの区別はなかった。
フランス革命をはじめとする市民革命が劇的な成功を収めると、市民階級の間から、今の社会とあるべき社会をはっきり区別する考え方が生まれてきた。背景には、革命が終わっても理想の社会が実現しないという幻滅があったのだろう。こうした人々の中から、目の前の現実社会を見つめるべきだという実証主義者が登場し、代表格はA・コントだった。あるがままの社会には自然法則に匹敵する法則性があるはずで、それを認識し科学的に研究することが必要だとなった。社会の中の法則性については、「アナロジー=類推」によってとらえようとした。社会は、独自の運動法則を備えた全体であり、社会を「有機体=生物」みたいなものと考えた。19世紀は進化論が圧倒的な勢力を振るった時代だったので、この発想は人々に受け入れられやすかった。この第2段階は「社会有機体説の時代」と呼ぶことができる。有機体とのアナロジーは、よちよち歩きの社会学にとってまことに都合が良かった。
しかし、アナロジーは「アナ・ロジー」で「ロジックのなりそこない」という意味にすぎない。ひとり一人の人間がどういうふうに全体を作っているかをきちんと議論するものではない。社会の全体がどういう風に動いているかを個別の要素から説明する論理が欠けていた。こうした手詰まりが明らかになり、社会有機体説は下火になっていった。
◆
*** 今週の教養 (橋爪大三郎の社会学講義③)
◎3人の巨人
社会の要素と全体とのつながりを明確な形で問題にした3人の巨人によって、社会学が誕生した。まずG・ジンメルは、形式社会学の創始者である。人間と人間との関係には「結合」と「分離」の関係があると主張した。要素的なものの積み重ねによって全体を説明する点が新しかった。
E・デュルケムは、人間の「連帯」を考察した。ジンメルの「結合」と似ているが、その先を考え、「機械的連帯」から「有機的連帯」へと社会が段階的に進化すると主張した。単純な社会では人間の関係がワンパターンで、親兄弟の結びつきのようにずっと同種の関係がつながっている。一方、有機的連帯は異なる要素が集まって全体を構成する。例えば、家庭、学校、企業、社会、政府のように性質の違うものが集まって社会は構成されていると主張した。もう一つ、「社会的事実」という重要な概念を提出した。それぞれに意図がなくても、大勢が集まって行動していると、結果的に拘束力が生まれ、それが社会法則に転化するという。流行やバブルが典型だ。
最後の一人はマックス・ウェーバーだ。要素と全体の関係を意識し、制度はなぜ存在するのかと考えた。一つの答えは「伝統」で、昔からあって再生産されている。制度の始まりについては、「カリスマ」という概念を持ち出した。ある個人が持っているカリスマ的な能力が他の人間に大きな影響を与え、雪だるま式に膨らんでいく。カリスマは死んでしまうが、子孫や家来達が残り、官僚化したり習慣化したりして制度になる。ウェーバーの考察は、単に「全体が有機的にうまくいっている」ではなく、形成過程に関する丹念な仮説を考える画期的なものだった。最も有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」では、一人の行動パターンが社会制度をどのように生み出したかを研究した。
3人に共通するのは、社会の個別要素と全体との関係を常に意識していることである。個々人が生み出した社会関係が、時代や歴史や制度をつくっていくというダイナミズムを視野に収めて掘り下げた。3人によってアナロジーの域を脱した社会学が誕生したのである。今でも社会学者を志す人々は3人の書物を必ず読むことになっている。3人が社会学者のアイデンティティとなっている。
◆
*** 今週の教養 (橋爪大三郎の社会学講義④)
◎20世紀のキーワード「システム」
1930~50年代に経済学が急速に進歩し、過去の理論の数学化をほぼ完成した。その際のキーワードが「システム」で、社会学も含めて20世紀の学問の指導理念となった。システムの定義は「多くの要素からなる全体」である。全体は要素に分解でき、逆に要素を組み合わせれば全体が再現できると考える。特徴を単一要因説と比較するとわかりやすい。これは特定の原因を一つだけ考える立場だが、あまりに単純で科学的な批判に堪えない場合が多い。システム論は、全ての要因が互いに連関していると考える。すべての要因が相互連関した結果、現象が現れたと考える。
経済学でシステム論が成功したのは、市場が有効な構造を備え、価格という変数で経済主体の行動や市場の状態が数学的に表現できるからだ。この動きを社会学にも応用した人物としてタルコット・パーソンズというアメリカの社会学者がいる。システム論だけでは社会を説明できないと考え、「機能」という要因を付け加えた。「機能」は「目的」と考えればいい。社会のシステムには必ず何らかの目的が備わっているという主張で、「構造-機能分析」という理論にまとめた。システム論で見落とされていた個別の人間の生きる意味と社会との落差に光を当てる着眼である。
最近の社会学の特徴は、データに関する方法(メソッド)の進歩だ。3段階ある。コンピューターの発達で、まずデータ収集が進歩した。次にデータ解析が進んだ。3番目がデータの解釈で、ここが一番インパクトを持つ。個人の名人芸の世界だが、今は立ち遅れている。解釈の方法として、最近のはやりでいえばミシェル・フーコーの権力分析、アナール学派の社会史を下敷きにするやり方、消費社会論の記号の「戯れ」を流用するやり方、フェミニズムの角度から男女差別で問題を一刀両断するやり方、N・ルーマンの自己組織性などがある。これらを適用すれば、一応論文は書けるが、社会の見方を個々人の責任で練り上げていることにはならない。だから何なのか、となる。自分が何をしたいのかという方向感覚を見失っているのではないか。それが最近の社会学に関する私の現状診断だ。
◆
*** 今週の教養 (橋爪大三郎の社会学講義⑤)
◎社会学はどこへ
東西冷戦は経済体制やイデオロギーの対立だったが、社会科学の構想の違いでもあった。社会主義国はマルクス主義によって社会を構想し、アメリカなど西側諸国はさまざまな学問の共同戦線で対抗した。経済学は古典的自由主義経済をベースにする近代経済学、政治学は民主主義論、法学は主権在民の原理から出発する法律学、社会の実証的な科学としての社会学。これらが協力し合ったのが自由主義陣営のシステムだった。
主に西側の経済学が頑張ってマルクス主義が破綻したが、マルクス主義から学ぶべき点はたくさんある。あらゆる社会科学が緊密一体に結びついているという考え方が大事だ。社会科学は本来、一体だ。政治学、経済学、法学が別に成立するのは、政府や企業や裁判所が別個のものになっているからで、これらを決めたのは自由主義国家の制度を作った人たちだ。制度にどっぷり浸かっている限り、見えてこないことがいっぱいある。政治学は人権のシステムがよいと言うが、在日外国人の扱いや選挙区の一票の格差や地方自治をどうするのか。経済学は男と女が結婚して家庭や家計を構成するというが、男と男が結婚したらどうか。人に権利や法的利益を認めているのは社会慣習によっているが、社会慣習が時代とともに変わっていくならどうするのか。これらを解明するのは社会学だ。
社会学の進むべき道は、政治学や経済学の真似をして制度化された学問に収まることではなく、持ち前のゲリラ的な問題発見能力をフルに使って他の学問の領域に進出し、社会問題を掘り起こしていくことだと思う。質の高い情報を与えて社会の進むべき指針を示すのが役目だ。社会学は1世紀あまりの歴史しかなく、学問というより、物の見方だ。何事も人間の行為の産物であり、制度は絶対のものではなく、変り得る。人間が実際に生きていることをベースとし、生きにくい制度を変えるべきだと抗議の声を上げるのが社会学ではないか。社会の変化を長い目で見た上で、制度のしがらみに対して、いつ誰の責任でこういう制度に出来上がってしまったのかをはっきりさせ、制度を変える条件は明らかにしていく。社会学はこうしたスタンスで問題を研究すべきだろう。
◎次週は「吉田秀和の世界都市論」です。