上野千鶴子の情報生産者になる(2024年6月17~21日)

2024.06.21教養講座

*** 今週の教養 (上野千鶴子の情報生産者になる①) 

今週は、東大名誉教授で社会学者である上野千鶴子さんの「情報生産者になる」(ちくま新書、2018年)を取り上げる。大学生や大学院生ら向けの知的生産のための教科書だが、新しい価値や事業を考えるビジネスパーソンにも参考になる。

◎研究とは  大学以上の段階では、勉強(しいてつとめる)ではなく、学問(学んで問う)が必要になる。正解のある問いではなく、答えのない問いを立て、自らその問いに答えなければならない。それが研究(問いを極める)というものだ。研究とは、まだ誰も解いたことのない問いを立て、証拠を集め、論理を組み立てて答えを示し、相手を説得するプロセスを指す。すでにある情報だけに頼っていては十分ではなく、自らが新しい情報の生産者にならなければならない。大学の授業の目的はいつも「情報生産者になる」ことだった。

世の中にはたくさんの情報が流通し、たくさんの情報消費者がいる。情報通で情報のクオリティにうるさい人を「情報ディレッタント」と呼ぶ。質の高い消費者がいるからこそ情報のクオリティも上がるのだが、情報も料理も消費者より生産者の方が偉いと断言する。グルメの消費者より料理を作る人の方が何倍も偉い。生産者はいつでも消費者に回ることができるが、消費者はどれだけ通でも生産者に回ることが出来ないからだ。

情報ディレッタントになるより、どんなにつたないものでもいいので、オリジナルな情報生産者になることを求めてきた。偏差値の高い学生たちは好みのうるさい情報ディレッタントになりがちだ。ないものねだりや揚げ足取りになる傾向がある。他人の生産物の辛辣な批評家になることは誰にでもできるし、快感でもあるが、お前がやってみろと言われて代替物を提示するのは容易ではない。情報生産者の立場に立つことを覚悟して消費者になると、消費の仕方も変わってくる。情報が生産された楽屋裏を考えるようになる。情報生産者になることは情報消費者になることよりも何倍も楽しいし、やりがいも手応えもある。

     ◆

*** 今週の教養 (上野千鶴子の情報生産者になる②) 

◎情報とは  情報はノイズから生まれる。これが情報工学の基本だ。ノイズのないところに情報は生まれない。ノイズとは何か。ノイズは、違和感、こだわり、疑問、引っ掛かりのことだ。当たり前だと思って何の疑問も感じない環境の下では、ノイズは生まれない。ノイズの中から意味のある情報が生まれることがあり、情報にならずにノイズのまま終わってしまうこともある。できるだけたくさんのノイズが発生するような環境を作っておくと、それだけ情報生産性が高くなるとも言える。

自分が当たり前だと思って何の疑問も抱かない環境では、ノイズは発生しない。これを社会学用語で「自明性」という。反対に自分から距離が遠すぎて受信の網に引っかからない場合もノイズは発生しない。社会心理学の用語で「認知的不協和」という。ノイズは自明性と疎遠な外部との間、自分の経験の周辺部分のグレーゾーンで発生する。情報の生産性を高めるには、ノイズの発生装置をまず作らなければならない。ノイズの中から意味のある情報も生まれてくる。

ノイズの発生装置を活性化するのは簡単だ。第一は自明性の領域を縮小すること。第二は疎遠な領域を縮小すること。それを通じて情報の発生する境界領域グレーゾーンを拡大することだ。どちらも自分にとって当たり前のことが当たり前にならないような環境に身を置くことによって得られる。難しいことではない。言葉も慣習も違う異文化に身を置くことや生い立ちや環境の違う人や障害を持った人と身近に接すればいいのだ。

別の言い方をすれば、情報とは、システムとシステムの境界に生まれる。複数のシステムにまたをかけたり、システムの周辺に位置したりすることは情報生産性を高める。人類学者も異文化の中ではよそ者だ。よそ者だからこそ同じ文化圏の者には見えない情報を収集してくることができる。その場に参加しながら観察者として自分をよそ者化することもできる。周辺人といえば、どの社会にも帰属を許されないのがユダヤ人。社会学者にはユダヤ人の割合が高いが、社会学とはユダヤ人の学問だといえるかもしれない。

     ◆

*** 今週の教養 (上野千鶴子の情報生産者になる③) 

◎問いを立てる  情報を生産するには問いを立てることが、一番肝心である。適切な問いが立った時、研究の成功は半ばまで約束されている。問いを立てることは、現実をどんなふうに切り取って見せるかという切り込みの鋭さと切り口の鮮やかさをいう。センスとスキルがいる。スキルは磨いて伸ばすことができるが、センスはそうはいかない。現実に対してどういう距離や態度を持っているかという生き方があらわれる。大学に入るまでそうしたことはないが、何事も訓練と学習である。問いを立てることも、センスのよい問いを立てることも、場数を踏めば学ぶことができる。

条件が2つある。第1は答えの出る問いを立てること。第2に手に負える問いを立てること。社会科学は形而上学ではなく形而下の現象を扱う経験科学だから、「神は存在するか」とか「殺人は許されるか」といった証明も反証もできない問いは立てない。「神は存在すると考える人々はいかなる人々か」「いかなる条件の下で殺人は許され、いかなる条件の下では許されないか」とすれば、問いに答えることができる。第2については、人間には時間も資源も限られているので、1日で解ける、1年で解ける、一生かけても解けないなどスケール感を間違えず、限られた時間の中で答えが出る問いを立てることで、問いから答えまでのプロセスを経験して「問いを解く」はどういうことかを体験する必要がある。

問いを考えていく場合、論理性や根拠が重要になる。国語の教科書の大半が文学者の作品で占められているが、人文・社会科学者の論理的な文章をもっと採用すべきだ。文章が論理的であるためには多義的な解釈を許すような書き方をしてはならない。どんな用語も一義的に解釈できるように定義し、一度用語を確定したら、最初から最後まで同じ用語で論理をゆるがせにせず、緻密に論旨を組み立てなければならない。

     ◆

*** 今週の教養 (上野千鶴子の情報生産者になる④) 

◎オリジナリティとは何か  誰も立てたことのない問いを立てることを「オリジナルな問い」という。オリジナルな問いには、オリジナルな答えが生まれ、オリジナルな研究になる。オリジナリティとは、すでにある情報の集合に対する距離のことをいう。誰も立てたことのない問いを立てるには、すでに誰がどんな問いを立て、どんな答えを出したかを知らなければならない。すでにある情報の集合を知識として知っていることを「教養」と呼ぶ。教養がなければ自分の問いがオリジナルかどうかさえわからない。オリジナルであるためには教養が必要なのだが、教養とオリジナリティはしばしば相反することがある。

教養は努力すれば身につけることができるが、オリジナリティはセンスである。教養とオリジナリティどちらが大事かと言われたら、どちらかと言えば教養があってオリジナリティに欠けるよりも、オリジナリティがあって教養に欠ける方がまだマシと言ってきた。なぜなら、オリジナリティのある人は後から教養を身につけることができるのに対し、教養のある人が後からオリジナリティを身につけるのは難しい。

研究をする前の段階には、「先行研究の検討」が必要になる。なぜならある人が立てた程度の問いが、以前に他の人によってとっくに立てられていると考えるところから、研究は出発するからである。オリジナルな問いといっても全く誰も立てたことのない問いはめったにない。だが「先行研究を批判的に検討」することによって、自分の立てた問いのどこまでが解かれ、どこからが解かれていないかわかるようになる。そこではじめて自分のオリジナリティが分かるのだ。ユニークな問いとは、他に誰も立てたことのない問いだ。その問いに答えた人はパイオニアになるし、他に競合相手がいないのだから、その分野の第一人者になれる。

     ◆

*** 今週の教養 (上野千鶴子の情報生産者になる⑤) 

◎当事者研究  当事者研究とは、自分の問いを自分が解くものだ。女性学は、女という謎を女自身が解くもので、当事者研究のパイオニアと言える。問いは問題とも呼び変えることができ、クエスチョンであり、プロブレムでもある。女性学は女性問題から出発したが、女についての問題であるだけでなく、女が問う問題でもあった。私にとって、女であることは巨大な謎だった。女だというだけで社会から受ける扱いや他人から受ける仕打ちは不条理そのものだった。先行研究のほとんどは、男が女とは何者かについて教えてくれるものばかりだった。「女については俺様が一番よく知っている。だから聞きに来なさい」と言わんばかりだ。読んでも腑に落ちなかっただけでなく、男の女に対する妄想だらけで、「いい気なもんだ」と反発を感じていた。

女とは何者か、どういう経験をしてどういう感じ方をするのか、女が一番よく知っている。女による女の研究が少なかったのは、女の研究者が絶対的に少なかったからだ。それなら、と女による女のための女についての研究が始まったのが女性学の成り立ちである。できた途端に「女が女を研究すると主観的になる」「中立でないと学問ではない」と様々な批判を浴びた。学問の世界の中にある中立性、客観性の神話は根強く、「女性学?そんなもの学問かね」と面と向かって言われたこともある。

当事者研究は、自分が自分の専門家という立場だ。女性学は女が女の専門家だから女の研究をしようと、女が学問の客体から学問の主体へと転換したことによって成立した。女性学に初めて出会った時、自分自身も学問の対象にしてよいのか、と目からうろこが落ちたことを鮮明に覚えている。それまで私自身も学問を中立、客観的なものと思い込んでいたからでもある。問題とは、自分自身にとっての問題をいう。私が女であることは子どもの頃からの謎だったから、問いにした。同じように自分が障害者であること、在日であること、強姦被害者であることなどがあなたをつかんで離さない問いになるかもしれない。置かれた環境や経験の違いによって解きたい問いは様々だが、本当に解きたい問いに出会うことは幸せというべきで、研究に本気になれるものだ。