城山三郎の「打たれ強く生きる」(2024年6月24~28日)
*** 今週の教養 (城山三郎①)
今週は、作家・城山三郎さん(1927~2007)の文章を紹介する。1983年の日経流通新聞に掲載したコラムなどを集めた「打たれ強く生きる」(1989、新潮文庫)から5編選んだ。国鉄総裁石田禮助を描いた「粗にして野だが卑ではない」のように、潔く、卑しくない人たちを讃えた文章が特徴だ。
◎総理からの電話 何年か前、ある会合で隣のテーブルから来て、「城山さんですね」と声をかけた人がいる。蔵相の福田赳夫氏であった。福田さんは私の著書について感想を言った後、笑顔で元のテーブルに戻っていった。腰が軽く、スマートであった。ふれあいはそれっきりだが、1年したある日、電話に家内が出ると「福田ですが」。家内には聞き覚えのない声であった。「どちらの福田さんでしょうか」と聞くと、「ソーリの福田です」。家内はいぶかしげな顔で「ソーリの福田さんという人からですけど」。まるで付き合いのない福田さん。まさかと思ったが、出てみると福田総理の声であった。
私が「黄金の日日」を書くため、堺の古い歴史を調べていることを知り、堺に旧知の寺があり、古文書も多い、紹介しようか、との電話であった。私はその好意は受けなかったけれども、物書きにとってうれしいのは、良い資料が手に入ることである。その辺を察しての心憎い配慮である。秘書を介さず、自分で電話をかけてくる。なるほど総理になる人は違うと思った。
気さくさという点では、「財界総理」と言われた土光敏夫さんも抜群。経団連会長を引退される直前、横浜・鶴見のお宅に伺ったことがある。質素な暮らしぶりだが、古い家なので庭だけは広い。その庭にある全ての植木を土光さんは自分で植え、自分で手入れしている。芝生も自分で世話をしている。「芝生の手入れは大変ですね。うちなんかも何度か他人に頼んで・・・」。私が何気なく言うと、土光さんは目を光らせ、「僕が君の家の芝刈りに行くよ。会長を辞めれば暇ができるんだから」。真剣な口調であった。冗談などいう人ではない。私はうろたえて辞退した。土光さんは芝刈りの日当を例によって女性教育事業に寄付するつもりであった。「まあいいや。大きな庭を持っている人を何人も知ってるから」。土光さんは独り言のようにつぶやいた。それは神々しいほど気さくな姿でもあった。
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*** 今週の教養 (城山三郎②)
◎スランプのひまなし 新しい紙幣のデザインに、渋沢栄一が選ばれなかったことが、残念でならない。選定委員たちの不勉強のあらわれであろう。私は渋沢を「雄気堂々」で描いた縁で言うのではない。慈善事業から企業に至るまで、近代日本の枠組みは、ほとんど渋沢栄一の力を借りていると言っていい。その死にあたって、市井の一運転手が「あの人にはなんとなく世話になった気がする」といい、立場が逆の左翼系の歌人まで追悼歌をうたった。91年の生涯には、危機や逆境があった。そこを克服したのは、人一倍旺盛な知的好奇心のせいであった。
倒幕運動が露頭して、命からがら京都の一橋家に逃げ込んだとき、彼は雇われてもいないのに、一橋家とは何か、毎日どんな生活が行われているのか等々、知り得る限りを勉強した。彼が一橋慶喜の目に留まるようになったのは、逃げ込んできた一百姓に過ぎないにもかかわらず、実によく一橋家のことを知り、どうあるべきかについて意見を持っていたからである。2度目の挫折は、慶喜が将軍になったことから起こる。渋沢は討幕派だったが、たまたま使節団の随員としてパリへ行かされることになる。攘夷論者の渋沢には心外であった。パリがどこにあるのかも知らなかったが、パリに着くと、開国派の侍以上にパリのことを猛勉強する。目につくものすべてを記録してかかる。
日本に戻ってきたとき、幕府は倒れ、失業者の身であったが、パリで猛勉強したために大蔵省へ招かれる。だが、大蔵省は薩長主導型で、ろくな仕事を与えられない。すると渋沢は、「改正掛」という勉強会をつくって、仕事の終わった後に、外国の制度などについて若手たちと一緒の勉強を始める・・・。そうした渋沢の人生を見ていると、逆境に置かれても、逆境を意識している暇がないという感じである。スランプに陥る時間もない。どんな仕事に就かされても、どんな土地へ行っても、必ずその先には勉強することがある。日頃から、知的好奇心のために、せっせと燃料を補給する癖をつけておくことである。
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*** 今週の教養 (城山三郎③)
◎社長の忠告 数社の新入社員に集まってもらって、「入社式の社長の挨拶で、どんなことを覚えているか」と聞いたことがある。答えはそろって「何を言ったかな」「決まりきったことだった」。社長はおそらく秘書の作った文章を口にしただけ。そのため、若者の記憶に残らぬものになったのであろう。大事な戦力が加わってくれたのである。初めてのふれあいを、心のこもったものにできなかったのは、惜しい。
花王の入社式で、社長の丸田芳郎さんは、ほんの一言あいさつしただけ。その代わり、式の後で改めて一時間かけて、じっくり話をした。丸田さんはそれを「レクチュア」と呼んだが、一先輩の忠告といった趣きがあった。丸田さんはまず第1に「会社の仕事以外に勉強をするように」とすすめた。このごろの大学教育は、受け身に終始していて、自発的に課題に取り組んだり、積極的に議論し合ったりすることがない。その欠点を社会人になってから補えと言うのである。宇宙物理学でも何でもいいから、目標を決めて挑戦せよ。それも基礎が大切である。基礎的な勉強から始めて、勉強が面白くなるまで辞めてはいけない。仲間を集めて輪読会をやった丸田さんは、自身の若い日の思い出などをまじえて話した。
第2に、文学や芸術に触れよ、と言う。漢詩などの古典は、いざという時、心の支えになる。いい音楽、いい美術、いい映画も同様である。そうした潤いを持たなければ、長い人生はつらいものになる。これまた若い日の丸田さんの姿であった。会社のためにカリカリ働くだけが能ではない。もっと大きな人間に、自分をじっくり育てあげなさい。それが自分のためにも会社のためにもなる。丸田さんは「大事な用件は電話ですまさず、手紙を書きなさい。そうすれば、手紙を書いている間は、相手のことを考える。時候の挨拶を考えれば、自然に目が向く」と忠告もした。
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*** 今週の教養 (城山三郎④)
◎左遷の中から 日の当たらぬ不本意なポストに回された時、どう生きるか。中山素平さんは、日本興業銀行に入行した最初の3年間、経理科に配属された。配置転換を申し出るよう仲間に勧められたが、中山さんはそうしなかった。「どこへ行けと言われても、ノーと言ったことがない」。それが中山さんの人生であった。伊藤肇さんの「左遷の哲学」では、「与えられたポストで何かを身につけていくのが僕の生き方だったから、一向に平気だった」という中山さんの言葉が紹介されている。どこにいても、何かを身につける姿勢でありさえすれば、左遷というものはありえなくなる。同時に地位に対して綿々とした未練を持たない。頭取から、代表権を持たぬ相談役へという中山さんの退き方は、見事なほど鮮やかであった。
東芝の岩田弌夫さんが、社長候補の役員から、一転して子会社へ出されたことがある。岩田さんは会社をやめようと思ったが、「自分はしょせんサラリーマン。辞めて自分に何ができるか」と考えた。岩田さんは配転先に赴き、黙々とその仕事に打ち込む。「左遷の哲学」では、「おでん酒 すでに左遷の 地を愛す」「熱燗や あえて職場の 苦はいわず」との句境になったと紹介されている。
日本信販創業者の山田光成さんは、令息の結婚式を帝国ホテルで華やかに営んだが、その翌日、子会社がツアー客を斡旋したトルコ航空機が墜落。その遺族を同じホテルで世話することになった。トルコ航空の支店が日本になかったため、すべての矢面に立たされることになった。山田さんは若い時から禅に打ち込み、人生は「寸前暗黒」と教えられた。まさに「寸前暗黒」であった。山田さんは「災難に遭う時期には災難にあうがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃る妙法にて候」という良寛の言葉を思い出し、難にまともに取り組むことこそ、息子夫婦への引き出物になる、と考えたという。宗教を経営に持ち込んではならないが、宗教心のある経営者には一種の打たれ強さ、芯の強さがある。真っ先に総会屋と対決した花王の丸田芳郎夫さんにも、行革にあたる土光敏夫さんにもそのことがいえると思う。
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*** 今週の教養 (城山三郎⑤)
◎自分だけの暦 本田宗一郎さんを取材している。このため、会社と連絡をとることも多いのだが、祭日なのに同社から電話連絡があった。不思議に思って聞いてみると、祝祭日でも休まない日が何日かあるという。祭日はバラバラで、仕事のリズムを阻害する。組合と協定の上、祭日は働くことにし、その代わり夏や冬の休みを長くしているという。この会社は自分の暦を持っている。つまり、企業文化があって、いい加減な官製の暦などに左右されない。立派だと思った。
自分の暦を持つこうした会社や学校がどんどん増えるとよい。組織が自分の暦を持てば、そこにいる個人また自分だけの暦を持つようになる。「右へならえ」しやすい日本の風土の中で、これから強く生き残るためには、右へならわないことを学ぶべきであろう。そのきっかけの一つが、自分だけの暦を持つことである。そうすれば、自分が一体何なのか、どういう特徴があり、どういう存在で、何を目指しているのか、改めて考え直すことにもなろう。その結果、付和雷同することもなく、打たれ強くなるのではないか。
自分だけの暦といえば、劇団四季による評判のミュージカル「キャッツ」公演初日は、11月11日。ふつう芝居は、月初めから公演されることが多い。妙な日付だと思ったが、主宰者の浅利慶太さんの説明はこうであった。「平凡な11月1日初日より、11を二つ並べた11月11日の方が、今の若い人には、印象的で覚えやすい日付なんですよ」。今の若者たちは、待ち合わせをするときも3時とか3時半などというより、3時33分という約束をするそうである。「約束時間一つにしても楽しんじゃおう」という精神が感じられる。時間をおもちゃにしており、時間に束縛されていない。公式的なものや常套的なものから、少しでも遠ざかる。それは人生を楽しくするだけでなく、発想の新鮮さ、生命のみずみずしさへの道を開くはずである。