文系と理系はなぜ分かれたのか(2024年7月15~19日)

2024.07.19教養講座

*** 今週の教養 (文系と理系①)

日本社会では文系と理系の違いが強く意識されている。大学入試に始まり、その後の人生を規定しているといってもいい。今週は名古屋大大学院・隠岐さや香教授の「文系と理系はなぜ分かれたのか」(2018、星海社)から、その歴史や背景を紹介する。

◎「科学」と訳した西周  明治時代の日本が出会ったのは、様々な分野に細分化した西洋の諸科学だった。しかしそれらを文系理系と分けるは、かなり先だった。順を追ってみていくと、まず専門分化する学問の発見があった。西周は1880年代の講義でその点を指摘し、学者が一つの分野の専門家となり、他の分野は修めないと驚いている。東アジアにはそのような考え方はなかったからだ。

明治初頭の日本は、幕府による洋学の教育制度を受け継いだ。その中身は、言語学習や地理・歴史を除けば、軍事技術に関係のある自然科学分野が中心だった。幕末期の1863年、西周は当時の日本には「内政上、施設の改良を行うため、必要な学問が欠けている」との認識を示している。具体的には「統計学・法律学・経済学・政治学・外交学など」だった。社会科学に相当するものが欠けていたのだ。

福沢諭吉の関心が、日常的な実用知識に傾斜していたのに対し、西は西洋の近代的学問全体を体系的に日本に伝えようとした。実学ではなく、英語で言う「サイエンス」である。西は1880年代初頭、サイエンスに「科学」という訳を当てはめたことでも知られる。漢語からの借用だが、「分科の学」、すなわちバラバラに分かれている学問という意味がある。この訳のせいで、知識や学問そのものを指す「サイエンス」の本来の意味が日本人に伝わりづらくなったといわれている。

幕末から洋学者らが「窮理」(きゅうり)を自然科学、とりわけ物理学の訳として用いていた。しかし、オランダで学問体系について学んだ西は、自然科学だけでなく人文・社会科学にも道理、理性が存在すると考えた。西は大学教育を考える際、文科系専門学科を「心理上学」、理科系専門学科を「物理上学」と呼ぶことを提案した。中江兆民はフィロソフィーの訳を「哲学」ではなく「理学」にするべきだと主張した。

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*** 今週の教養 (文系と理系②)

◎東京大学・帝国大学に始まる学問分化  明治初期、学者たちの間で学問分類についての議論は続いたが、用語は学校制度や官僚制度の改革を通じて少しずつ世の中に定着していく。1872年には、学制が公布され、小中学校で理科が教えられることや将来作られる大学には法・医・数理・理・化学の各学科が作られることが示された。1877年に東京大学が設立され、法・理・文・医の4学部が置かれた。法学部、理学部、医学部はそれぞれ、開成学校や東京医学校など幕府から引き継いだ実務系の学校を前身としていた。文学部は新しく作られた。

ただし、この時点でも言葉の使い方は今とずれている。例えば、文学部には哲学、史学、和漢文学など人文系だけでなく、政治学科などの社会科学も含まれていた。ほどなくして史学は適切な教授がおらず、学生が少ないことを理由に削られ、理財学すなわち経済学と取り替えられてしまった。理学部も化学、数学、物理学、天文学、生物学など理学系の学科だけでなく、工学科、地質学および採鉱学科など工学の分野を含んでいた。

1886年、東京大学が帝国大学と改称し、世界で初めて工学部を備えた総合大学となった。帝国大学は、法科、医科、工科、文科、理科の文科大学(現在の学部に相当)と大学院から構成されていた。官営の公共事業管轄していた工部省が廃止され、人材育成機関だった工部大学校をもらい受けたことが発端だった。理工系教育の歴史において、革新的と評価される出来事だ。欧州では総合大学に工学部が存在したことはなかった。大学は伝統的にラテン語で教養を身につける階級の行く場とされており、技術者は一段低い扱いを受けていた。経済学は最初、法科や文科の学部で教えられていたが、1919年に東京帝国大学と京都帝国大学で経済学部が設立された。農学部も九州帝国大学で初めて設立された。

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*** 今週の教養 (文系と理系③)

◎官僚制と中等教育が影響  一般的な文系・理系の概念に最も影響を与えたのは、官僚制度と中等教育といえるだろう。明治初期から、殖産興業や土木公共事業に関わる技官、法務に携わる文官の役割分担ははっきりしていた。1880年代から90年代にかけて、文官の登用制度が整備され、高等文官は法律に関する試験を通った専門職となった。その結果、官僚の世界で文化的な摩擦が起きた。同じように大学を出て官僚を目指しても、理工系の技官は行政官の幹部となることが難しくなってしまった。たとえば、全国の河川・道路関連公共事業を担った内務省土木局のような技官中心の部局でも、法科出身の文官が長となり、技官は補佐役止まりが相次いだ。技術官僚はかつてのような影響力を行使できなくなり、鬱憤をためるようになった。

すべての分野を文理で分類する表現が明確に見られるのは、1910年代だ。中等教育について定めた第2次高等学校令に「高等学校高等科を文科および理科とする」の文言が入った。文科は法、経済、文学である。理科は理、工、医という区分だ。これ以降、大学入学試験の準備段階で、文系志望と理系志望に2分する方法が定着する。同時期の英独仏の大学入試制度ではここまでの徹底は見られない。背景には、日本の大学が法と工学の実務家育成を目的に作られたことがあるだろう。共通試験に受かればどの学部でも選べるドイツ式の「学問の自由」とも、数学から古典まで幅広い知識を競う英国のエリート大学とも違うモデルだった。

日本はドイツの学問の影響を強く受けていたので、1910年代にドイツ人が提唱した人文科学という言葉が導入された。当時は自然科学とそれをモデルにした社会科学が発展し、哲学者、歴史家、文学者らは自分たちの役割を模索していた。急激な近代化を遂げた日本では、そのプレッシャーがより強く、人文科学を担う人々に共有された。特に大正期の1910年代にその傾向が現れた。国策で重視された自然科学・技術諸分野、出世コースとなった社会科学分野(法・経済)に挟まれて、人文系を担う人々が自らの存在について葛藤し始めた。

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*** 今週の教養 (文系と理系④)

◎文系受難と戦争  1910年代の大正期、人文科学でオリジナルな成果が数多くあった。仏教や神道の背景知識を元に西洋の思想に向き合おうとした西田幾多郎や和辻哲郎がいる。文化や社会という概念が、日本語の思想においてしっかりと認識され、学問の対象として意識された。自然科学のように普遍的な知識に対して、固有で1回限りの対象が持つ意味が模索された。

ただ、大学生の進路を見ると、人文科学系の卒業生が悩ましい思いでいたことが伺える。帝国大学卒であっても、文科出身者は教師など学校職員や文筆家に限られていた。法科は司法官や弁護士、経済学を修めた者は企業や銀行、理工系は官庁から企業まで幅広く活躍していた。当時の大学生は全人口の1%というエリートで、女性はわずかに存在していた女子大学以外には進学できず、就職の道はほぼ閉ざされていた。

戦争が近づいてくると、理工系重視の政策が進み、人文科学だけでなく社会科学も雲行きが怪しくなっていく。もともと社会科学は、価値の問題と関わる学問なので、特定の宗教・思想に基づく政治的秩序とは、相容れない部分があった。当時学問の中心であった帝国大学は、国家への奉仕を目的として作られた組織だった。中世以来の長い歴史の蓄積がある西洋の大学に比べると、直接に国家の介入を受けやすい素地があった。

1920年には東京帝大経済学部の森戸辰男助教授が、無政府共産主義思想を宣伝したとして文部省の圧力で辞職に追い込まれた。昭和期に入ると弾圧は本格化し、マルクス主義を研究する経済学部関係者が次々と自発的退職を迫られた。1930年代になると自由主義思想を持つ京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が大学の反対にもかかわらず文部省により直接処分された。1943年、第2次世界大戦の戦局が悪化すると、学徒動員が本格化する。真っ先にターゲットにされて戦地に送りこまれたのは文系大学生たちだった。理系は兵器研究のために動員されていたからだ。

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*** 今週の教養 (文系と理系⑤)

◎戦後の文系軽視  日本人がよく使う「技術」という言葉は、戦争の記憶を背負っている。1940年、近衛文麿内閣が科学者と技術者を総動員すべく「科学技術新体制」を作り上げた。技術を中心に物事を見ていた人が多かった日本では、すんなりと受け入れられた。敗戦は大きな転換期となったはずだが、学問に対する価値観は明治初頭から連続する要素が残っている。

富国強兵は終わったが、1960年代以降の高度成長期に目指したのは富国であり、経済的繁栄と科学技術の重要性が叫ばれた。岸内閣の文部大臣は「国立大学は、法文系学部を全廃して理工系一本とし、法文系教育は私学に委ねるべきだ」と発言した。次の池田内閣の所得倍増計画では大学理工系学部の定員が大幅に増やされた。安保闘争の時期と重なるが、学生運動を担った多くは文系学生たちという背景も無視できないだろう。

1980年代には日米貿易摩擦を背景に科学技術立国が叫ばれ、1990年代以降から科学技術基本計画で5年ずつ約30兆円が自然科学技術に投資される体制が確立。日本の基礎科学は何度もノーベル賞を取るような水準に達した。国立大学の文系学部は潰されこそしなかったが、理工系に比べて規模は小さいままにとどまった。経済水準が上がると進学率が上昇したが、増大する文科系志望学生のニーズを吸収したのは私大だった。家政学部など女性の多い学部も私大に集中した。研究者育成でも日本は理工系偏重である。

以上の傾向は、目先の目標のために批判勢力が封じ込められてきた歴史とつながっているようにみえる。利便性を追求する科学技術に無邪気に信頼を寄せるような人が求められてきた。植民地化されない国家の建設、経済成長といった明確な目標がある時代はそれでよかったかもしれない。しかし現代社会は、地球環境問題から資本主義が抱える矛盾まで、複雑な課題を抱えている。経済成長や科学・技術イノベーションの結果、人間が複雑で高度なシステムを作り上げていったことから生じている。東日本大震災の原発事故もその一例だ。明確な目標が持てない時代の想定外の課題に対応するため、何が必要なのか。どのような知性が求められるのか。これまでの歩みを見直してみることが必要だろう。