子どもたちの8月15日(2024年7月29~8月2日)

2024.08.02教養講座

*** 今週の教養 (子どもたちの8月15日①)

敗戦から60年後の2005年に出版された「子どもたちの8月15日」(岩波新書)から5編紹介する。敗戦当時は小さな子どもで、生きていれば現在80歳以上の著名人が登場する。それぞれの8月15日を振り返っている。

◎「松の根を求めて山奥へ」 筑紫哲也(ジャーナリスト)  8月15日を迎えたのは、私の父が生まれた大分県日田市という山奥だ。私は10歳の小学生(国民学校生)で、勤労動員として働いていた。大事な仕事は、松根油(しょうこんう)の生産・採取だった。「油の一滴は血の一滴」という当時のスローガンが示すように、油の確保が大きな比重を持っていた戦争だったが、戦況の悪化とともに戦闘用の油の確保もままならぬようになった。松の根を燃やして油を取るところまで追い込まれていたのである。

田舎の少年の中では理屈好きで、典型的な軍国少年だったはずの私だが、敗戦のショックは大きくなかったような気がする。その前に8月9日があった故だと思う。6日広島、9日長崎に投下された新型爆弾のことはよくわからなかったが、9日のソ連参戦のニュースはラジオで聞いた。自宅の暗闇の中で「これで勝ち目はないかもしれない」と神州不滅の神話が崩れていく予感に暗澹たる気分だった。10歳のガキにそんなことを考えさせる国は本当に良くない国だと今にして思う。

8月15日の衝撃が中和されたのは、それから起きた出来事が衝撃だったからだと思う。「農地解放」とかで我が家が所有していた田畑は小作人のものとなった。学校からは天皇の写真と言葉が収められている「奉安殿」と二宮金次郎の銅像、教練用の短剣が姿を消した。変化は総じていえば、好ましいものだった。戦時中、大人たちは何事にもこわばっていたが、どこか解放感があった。先生や上級生たちは何かといえば生徒たちを整列させて顔を叩いた。喝を入れるというビンタである。むやみに体罰や制裁を加えることを認めない時代の到来を意味することはわかった。うっとうしい曇天の日々から、青空の下に出てきた気分だった。相変わらず空腹を抱えてはいたが。

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*** 今週の教養 (子どもたちの8月15日②)

◎「橋をかける-子ども時代の読書の思い出」・美智子皇后(現上皇后、前年に開かれた国際児童図書評議会での講演から抜粋)  生まれて以来、人は自分と周囲との間に橋をかけ、人とも、ものともつながりを深め、それを自分の世界として生きています。この橋がかからなかったり、かけても橋としての機能を果さなかったり、時として橋を架ける意志を失った時、人は孤立し、平和を失います。この橋は本当の自分を発見し、自己の確立を促していくように思います。

私が小学校に入る頃に戦争が始まりました。3度目の疎開先で終戦を迎えました。教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代、父が東京から持ってきてくれる本はどんなにうれしかったか。「少国民文庫」というシリーズに日本や世界の名作選がありました。世界名作選を開いてみると、海外の物語や詩がたくさん載っています。インドの詩人タゴールの名を知ったのもこの本でした。このころ、日本はすでに英語を敵国語として教育を禁止していました。世界情勢の不安定であった1930~40年代に子どもたちのために広く世界の文学を読ませたいと願った編集者があったことは、幸いなことでした。

この本を作った人々は、子どもたちが美しいものに触れ、人間の悲しみ喜びに深く触れつつ、さまざまに物を思って過ごして欲しいと願ってくれたのでしょう。私は幼く、編集者の願いをどれだけ受け止めていたかわかりません。しかし、少なくとも国が戦っていたあの暗い日々に、国境による区別なく、人々の生きる姿そのものを私に垣間見させ、自分とは異なる環境下にある人々に対する想像を引き起こしてくれました。

今振り返って、子ども時代の読書とは何だったのでしょう。何よりも、私に楽しみを与えてくれました。青年期の読書のための基礎を作ってくれました。ある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に内に橋を架け、自分の世界を少しずつ広げて育って行く時に、大きな助けとなってくれました。読書は悲しみや喜びにつき、思いめぐらす機会を与えてくれました。様々な悲しみが描かれており、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは、本を読むことによってでした。読書は人生のすべてが決して単純ではないことを教えてくれました。私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。

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*** 今週の教養 (子どもたちの8月15日③)

◎「祖父の予想」・山川静夫(元NHKアナウンサー)  昭和20年4月、私は旧制静岡中学に入学した。父は静岡浅間神社の神主で、毎日戦勝祈願をさせられていた。家族も日本の勝利を信じて不自由な生活に耐えていたが、ただ一人祖父だけは、なぜか「日本は負けるじゃろう」といつもつぶやいていた。私や姉は真剣に「おじいさん、そんなの非国民だよ」と怒ったが、祖父の態度は変わらなかった。当然のことながら祖父は家族中から総スカンを食らう結果となってしまう。

ところが軍国少年に凝り固まっていた私でも、だんだん弱気になっている自分に気がついていた。「ひょっとすると日本は危ないのではないか」。そう考えだすと、それらしい雰囲気がそれからそれへと漂ってきた。まず静岡駅に到着する将兵の遺骨が際立って多くなってきた。私の母方の叔父は戦艦大和に乗り込んでいたが、死んだという公報が入った。6月19日の静岡大空襲はショックだった。防空壕の中でうずくまっていると、やがて耳をつんざく爆撃音と地響きが連続して聞える。自分の体が硬直するのがわかった。外へ飛び出した時の光景は、今も目に焼き付いている。なんという明るさ、なんという美しさ、かつて一度も見たことのない一面の火の海だ。夜空にまき散らされた照明弾は豪華な花火の如く目に映った。

広島と長崎に新型爆弾が投下されてから、何かにわかに辺りが静まり返ったような気がした。時折空から「日本の皆様」へというアメリカ軍のピンクの宣伝ビラが舞い降りてきた。8月15日は快晴だった。市街地の樹木はすべて焼け焦げたせいか、夏の蝉時雨は聞こえず、青い空だけが強く印象に残っている。正午に重大ニュースがあるというので、どんな内容なのかと家人に尋ねたが、みんな無言であった。正午になり、玉音放送が始まった。さっぱり理解できなかった。やや鼻にかかったような甲高い声に、不思議なイントネーションがついていた。それこそが初めて聞く天皇陛下のお声であった。戦争の勝ち負けばかりが気になり、祖父におそるおそる尋ねた。「負けたんじゃ」。祖父は吐き捨てるように言った。悔しいことに非国民の祖父の予想が当たってしまったのだ。鬼畜のような米軍によってどんなひどい目にあうのか、一番の気がかりだった。

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*** 今週の教養 (子どもたちの8月15日④)

◎「兄の残してくれたもの」・湯川れい子(音楽評論家)  父は海軍の軍人でしたが、私が8歳だった昭和19年、肺炎で他界しました。米沢出身の田舎者でしたが、ずい分とモダンで、レコードをかけて、父と母がワルツやタンゴを踊っていました。私は父の太ももにだきつくようにして一緒に踊った時の幸福感を、覚えています。大学に進んでいた長兄は、父の尺八や母のお琴に合わせて、ピアノで合奏していました。その後、陸軍に入隊しフィリピンで戦死してしまいます。長兄が戦地に行く前、とてもきれいな口笛の曲が聞こえてきました。「何という歌ですか」と聞くと、「兄ちゃまが作った歌だよ」。兄は私を抱き上げて一番星を指差すと、「あれが兄ちゃまだよ。覚えておいてね」と言いました。兄から聞いた最後の言葉になりました。

8月15日は、母に畳の上に正座させられて玉音放送を聞きました。数日後、同じ場所で父の形見だった短刀を目の前に置いて「敵が上陸してきて辱めを受けるようなことがあったら、これで自害しなさい」と自害の仕方を教えてくれたのでした。

戦死した兄の部屋からやがて、金髪の女性が歌っている絵や、アメリカの水兵さんが踊っている絵が何枚も見つかりました。米国のレコードのジャケットデザインです。戦後、ラジオから突然兄が作ったと言っていた曲が流れてきました。ハリー・ジェームズ・オーケストラの「スリーピー・ラグーン」という曲とわかり、1942年にアメリカで大ヒットした事を知りました。兄はきっと、父に隠れて密かに好きな音楽を聴いていたのでしょう。戦後、兄の口笛の曲が聴きたくて、毎日飛んで帰って進駐軍放送にかじりつき、アメリカン・ポップスやジャズを知り、気がついてみたら今の職業についていました。

兄が生きていたら、グラフィック・デザイナーとかで成功しただろうと思うと、兄の分も生かされていると強く感じないではいられません。家の中に音楽があふれていた幸せだった幼少期と、戦争で父や兄を失った後の悲しく貧しかった日々の落差があまりにも大きくて、今も心の奥深くにぽっかりと埋めようのない空洞となって残っています。そしてそのことが、主義でも思想でもなく、憲法9条を失ってはいけないという、祈りにも似た悲願として私の中にずっしりと存在し続けているのです。

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*** 今週の教養 (子どもたちの8月15日⑤)

◎「不変のものはないからこそ」・宮内義彦(元オリックス会長)  あれは10歳の夏、暑い日でした。正午に玉音放送が始まりましたが、雑音がひどく言葉が難しいので、意味が全く分かりませんでした。父がぽつりと「こりゃ負けたんだ」とつぶやいて、どうやら戦争に負けたらしいと理解したのを覚えています。部屋に戻って昼ご飯を食べました。兵庫県作用町に疎開していた私たちは、ジャガイモに塩をふったものとお茶だけの昼食を、うだるような暑さの中、家族6人で黙々と食べたのです。

当時の新聞を8月15日から読んでみると、3~4日は戸惑いが感じられるものの、2週間ほどでの変わり身の速さに驚くばかりです。極端から極端な変化が、しかし確実に起きたのです。日本は破壊し尽くされ、食べる物もありませんでした。60年たって、今よくこれだけ変わったなという思いがします。

国家の失敗があるとすれば、まず国民を戦争に引きずり込むのは失敗です。しかも負けるのは、国家最大の失敗です。戦後平和が続いたのは300万人もの人が亡くなったからです。その犠牲を忘れてはいけません。その反省に立って戦争だけはやってはいけないとしてきた。戦後日本で筋が通ってきたことといったら、それだけでしょう。せめてあと半年早く負けたら、どれだけ多くの人が助かったでしょうか。ひどい負け方をしたのは日本のシステムに問題があったことが原因だと思うんです。軍人・官僚システムが戦争に追いやり、戦争の終結を長引かせた。日本は的確な状況判断に基づいて、ふさわしい時期に判断をくだすことが実に苦手です。

戦後は「国民の面倒は全部国が見ますよ」と180度の転換をした。今60年経って、その弊害が事なかれ主義や無責任という形で出ているのではないでしょうか。国がそういう国民を作ってしまったのです。私たちの世代は自意識が芽生えてきた頃に価値の180度大転換を経験しました。不変なものはないという体験が基礎になって、常に権威を疑う反骨精神が養われたと思います。戦争はやめるべきです。一人一人が自分の足で立ち、自分で判断する。そういう社会システムを作るべきなのです。