昭和史百冊・陸海軍と銃後(2024年8月5~9日)

2024.08.09教養講座

*** 今週の教養 (昭和史百冊①)

昨年12月の教養講座で、「昭和史百冊」(平山周吉著、草思社、2023年)から日米開戦の5冊を取り上げた。今回は「陸海軍と銃後」に関する5冊を紹介する。

◎加藤陽子著「戦争まで――歴史を決めた交渉と日本の失敗」(朝日出版社、2016年)  意識の高い中高生を相手に行われた加藤陽子ゼミの昭和史第2弾だ。前著「それでも日本人は戦争を選んだ」(新潮文庫)のタイトルを踏襲するならば、「これなら日本人は戦争を避けえた」となるだろうか。今回は、昭和7(1932)年の国際連盟リットン調査団、昭和15(1940)年の日独伊三国同盟、昭和16(1941)年の日米交渉という、昭和史の重大国際事件を俎上に載せる。どれも日本の運命の岐路での選択である。原史料を読み解きながら、当時の世界と日本の現状をおさえる。臨場感あふれる昭和史の現場を体験させて、もっと別の合理的選択ができたのではないかと問いかける。著者も言うように、中高生というより中高年向けの歯ごたえのある内容になっている。

リットン報告書は、分量こそ多いが、当時の人々が読もうと思えば、簡単に全部を読めた。「新聞の号外や特別号に掲載されていたのですから、本当はしっかりと読めばよかったのです」。加藤先生に叱られるのは、生徒たちではなく、当時の国民である。リットン報告書よく読めば、選択肢が増えたことは間違いない。「日本軍の行動は自衛と認められない、満州国は地域住民の中から自発的に生まれたものではない、と日本側の主張を明確に批判している。しかし、満州事変を起こした日本側の態度を侵略だと述べていないところが、現実路線をとるリットン卿の老練さだと思われます」「中国側が不満だったことを考えると、リットン報告書が示した解決の条件に対し、もっと日本側が積極的な評価を下してもよかったはずですね。リットンがつくづくかわいそうです」。現実路線のリットンの日本への微妙な配慮を見逃した、あるいは故意に見落としたことが選択肢を狭めたと惜しむ。史料を前にした頭の体操は硬直した中高年には良き刺激となろう。

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*** 今週の教養 (昭和史百冊②)

◎大井篤著「大井篤海軍大尉アメリカ留学記――保科さんと私」(角川書店、2014年)  主人公は2人の海軍軍人だ。著者の大井篤とその上司保科善四郎である。海軍省にあって日米開戦に反対し、開戦後は早期講話と終戦を模索し、戦後は軍備の必要性をいち早く訴えたコンビが、大井と保科だった。真珠湾攻撃の8日前、高松宮が昭和天皇に「海軍は戦争に自信なし」と避戦を直訴した裏には、保科たちの工作があった。救国のチャンスを用意した2人なのだ。その秘密工作が読めると期待したが、残念ながら大井は1994年に急死し、原稿は昭和16(1941)年の開戦はるか前で終わっている。代わりにみずみずしい筆致で若き日のアメリカ留学生活が描かれている。

海軍の仮想敵国はアメリカである。その敵地に駐在して米国事情を研究せよと命ぜられ、2人は昭和5(1930)年に一緒に横浜を出港する。大恐慌の時代であり、日米関係は軍縮をめぐって激しく対立している。2人は大学で米国政治史を学びながら、社会と市民を観察し、各地を自動車旅行する。敵国の物質的かつ精神的手強さを知って、「米国侮るべからず」の信念を共有する。

大井は海軍内で変人として通っていた。海軍兵学校中退を決心したこともある。国民性の理解は文学書でと考えている。「理屈屋の現実主義者」というのが自己評価である。変人らしく大学も東部の名門を避け、南部にする。建国の英雄トマス・ジェファーソンが創設したバージニア大学を選び、アメリカン・デモクラシーの原点を知ろうとする。男女道徳の乱れを慨嘆する下宿の主人の話から、これは駐米勤務の重要部分と興味を抱く。帝国海軍はここまで考えていたのかとびっくりだ。大井の若々しさは90代になっても衰えなかった。新しい知見を積極的に吸収し、自らのアメリカ観を再検討することも怠らない。この筆致で終戦まで書いてもらいたかった。その死が惜しまれる。

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*** 今週の教養 (昭和史百冊③)

◎片山杜秀著「左京・遼太郎・安二郎―見果てぬ日本」(新潮文庫、2015年)  原節子がなくなった2015年、その父親役だった笠智衆の存在を通して日本を考える示唆に富む名著が出現した。といって映画の本というわけではない。持たざる国日本が陥っている終わりなき泥沼に一条の光を見つけようという積極果敢な試みである。SFの小松左京、歴史小説の司馬遼太郎、映画の小津安二郎。この3人を読み解くことで、昭和から平成の日本の困難が徐々に明らかになってゆく。その手際は、スリリングにして構想力にあふれ、語りはエネルギッシュである。

ハイリスク(核分裂型原発)を引き受けて万博的未来を創出しようと決断した小松。豊葦原瑞穂の国の国民気質を騎馬民族と海人のロマンで挟み撃ちした司馬。そして何よりも、支那事変に招集され、大陸での2年間の軍隊生活から、ぎりぎりのところで現れる「本物の人間だけを描こうとする映画作り」をした小津。自作の画面に欠かせない人物として浮上したのが笠智衆だった。貧弱な肉体の日本兵がなぜ世界で一番強いのか。一挙手一投足にも無駄を省き、体力を温存し、いつ来るかわからない決戦に備える。不愛想で、不器用で、ぶっきらぼうで、何かに耐えている。それでいて魅力的な人間が笠智衆だった。「日本という国全体の体力不足」に見合う人物像が小津にはどうしても必要だったのだ。非常時にも平時にもそうだった。

小松と司馬は、希望の出口を未来と過去にそれぞれ求めた。その果敢で壮大な文明論は魅力的であるがゆえに、隘路に突き当たる。「出口なし」の大前提を引き受ける小津=笠智衆の省力法にこそ、かぼそい突破口がある。著者はそう語っている。小津だけでなく、小松も司馬も戦争体験を深化させることで、各人の世界を築けた。チャラい平和論や戦争論が跋扈する平成日本で、そうした強靭な思考を生むのは、それ以上に細い道である。

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*** 今週の教養 (昭和史百冊④)

◎篠原昌人著「非凡なる凡人将軍 下村定--最後の陸軍大臣の葛藤」(芙蓉書房新社、2019)  敗戦後に就任した最後の陸軍大臣下村定の伝説である。中国大陸の戦線から呼び戻され、東久邇宮内閣と幣原内閣で幕引きの代役を務めた。著者の篠原昌人は、下村を「清算会社の社長」と表現している。下村社長と同期(陸軍士官学校20期)の大将には牛島満(沖縄戦で自決)、吉本貞一敗(戦後自決)、木村兵太郎(東京裁判で絞首刑)がいた。下村の前任者の阿南惟幾は「一死、大罪を謝す」と割腹自殺していた。

「生涯に3度自決を覚悟した」(下村の娘である演出家の河内節子の証言)という下村は、生きて謝る役割を担った。敗戦直後の帝国議会での答弁に、下村の立場は端的に表現されている。戦中の反軍演説で有名な斎藤隆夫議員の質問に下村は答えた。「いわゆる軍国主義の発生につきましては、陸軍といたしましては、陸軍内の者が軍人としての正しき物の考え方を誤ったこと、特に指導の地位にあります者のやり方が悪かったこと、これが根本であると信じます。ことに許すべからざることは、軍の不当なる政治干渉であります」。大きな拍手が起きた答弁は、予定の原稿にはない下村社長の心底からの叫びであった。

下村の軍人としての履歴の一番の華は、この8年前、参謀本部第一部長という要職についたときであろう。支那事変勃発直後、前任者の石原莞爾は「事変不拡大」を訴えて左遷された。陸軍作戦の実質的決定者となった下村部長は、家族に「今大きなことをやっているんだよ。お前たちも成功を祈っておくれ」と漏らしている。大きなことは、大陸の戦線の膠着状態を打開するための杭州湾上陸作戦の決行であり、南京追撃の容認であった。著者は昭和16年7月時点での下村の反省自粛訓示に注目している。「ある『BC級戦犯』の手記」(冬至堅太郎著、中央公論新社、2019)には、その後BC級戦犯として巣鴨に収監された下村の姿が出てくる。昭和22年正月の入浴時の一首。「獄の湯に 老将の背を流しいて 我泣きにけり 父をおもいて」

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*** 今週の教養 (昭和史百冊⑤)

◎阿久澤武史著「キャンパスの戦争――慶應日吉1934-1949」(慶應義塾大学出版会、2023)  「慶応義塾の歴史は日本の近現代史そのものであり、日吉キャンパスには激動の昭和史が凝縮されている」。この本の著者は、日吉台地下壕保存の会会長であり、日吉の慶應義塾高校校長でもある。「昭和モダン」が戦争へと向かう日常と非日常を描き出した好著だ。

昭和9(1934)年に開校した横浜市日吉の慶應予科キャンパスは、豊かな自然とアールデコ建築の校舎があり、理想的な教育環境となるはずだった。旧制高校の蛮カライメージの寮とは対極的な、個室のある寄宿舎も完備された。「規律と自治の精神」があふれた学び舎は、すぐに時代の波を大きく受ける。断髪令や服装統制が始まり、やがて戦争の時代で学徒出陣へと進む。

日吉キャンパスが他大学と大きく異なるのは、自慢の校舎に海軍軍令部第三部(情報部門)が入り、寄宿舎は海軍の連合艦隊司令部になってしまったことだ。さらに地下には巨大な地下壕が急ピッチで建設され、キャンパスは海軍のための陸の要塞と化したのである。敗戦後の4年間、今度は米軍に接収された。「わずか11年前に近世アメリカンスタイルと形容された校舎が、米兵の兵舎になったというこの皮肉な事実は、この校舎が経験した変転の歴史そのものである」と書く。

校舎に通った学生たちの青春にも多くのページが割かれている。堀田善衛や安岡章太郎といった作家ばかりではなく、普通の学生のライフスタイル、日米開戦の日の様子など。開戦の報を知らずに登校したのん気者が多いのにびっくりする。「きけわだつみの声」の特攻隊員・上原良司もそんな普通の学生だった。本の中には「予科時代」というキャンパスライフを撮った写真もたくさん載っている。短い青春を定着させた写真の空気感はたまらない。撮影者は戦後に民俗写真家となる芳賀日出男。芳賀は学徒出陣で海軍航空隊に入り、2022年秋に101歳で亡くなった。