千の顔を持つ英雄(2024年8月19~23日)

2024.08.23教養講座

*** 今週の教養 (千の顔を持つ英雄①)

今週はアメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベル(1904~87)の著書「千の顔をもつ英雄」(人文書院)で、世界の神話に共通する構造を考える。NHKEテレ「100分de名著」のテキスト(戦略デザイナー佐宗邦威著)から紹介する。個人の人生の物語にも通底している。

◎概説  キャンベルはニューヨーク州の敬虔なカトリック教徒の家に生まれた。信仰が身近にあったため、神話を自身の生涯の研究対象として選ぶことになった。ネイティブ・アメリカン文化との出会いも影響している。幼い頃、父親に連れていってもらった自然史博物館で異文化に関心を持った。サラ・ローレンス大学で研究し、1949年に「千の顔を持つ英雄」として発表した。キャンベルはユング心理学の影響を強く受けていたが、神話には共通する原型があると考えた。それらは民族や宗教を超える普遍性があり固有の文化を背景に成立している。同様のパターンを世界の膨大な神話の比較研究を通して分析した。

神話の構造は大きく三つの段階に分けられる。最初は「出立・旅立ち=セパレーション」。続いて「通過儀礼の試練=イニシエーション」。最後が「帰還=リターン」となる。これらはギリシャやインドなど各地の神話や日本の「古事記」「日本書紀」にも共通する部分がある。英雄の旅は、人々が自分は将来こうありたいと思える状態、生きる上での理想像に出会っていく内面の旅だと説明している。人が根本的な自己存在を探し、内面へと向かう旅こそが神話だ。

現在は「大きな物語がなくなった時代」といわれる。各地に伝承されている神話にリアリティを感じる人はほとんどいないだろう。しかしそれでも私たちは物語がなくては生きていけない。誰かが用意した大きな物語ではなく、私たち一人一人、あるいは家族、学校、会社といったつながりの間に生まれる物語が必要なのではないだろうか。

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*** 今週の教養 (千の顔を持つ英雄②)

◎神話の構造「生きて帰りし物語」  神話における「英雄の旅」について、物語の構造を具体的にみていく。著書の中でキャンベルは「英雄は、ごく日常の世界から、自分を超越した不思議の領域へ冒険に出る。そこで途方もない能力に出会い、決定的な勝利を手にする。そして仲間に恵をもたらす力を手に冒険から戻ってくる」と書いている。前回説明したように3つの段階に分けられる。「出立・旅立ち=セパレーション」、「通過儀礼の試練=イニシエーション」、「帰還=リターン」である。

このプロセスの具体例を、釈迦族の王子に生まれ、仏教の始祖となったゴータマ・シッダールタ(ブッダ)で考えてみたい。シッダールタはある日、庭園に向かうと杖にすがる老人や病人、死者らに出会い、心をかき乱される。やがて出家した僧侶シャモンに出会い、その様子に心を打たれる。これらの出来事は、彼に出家を促そうとする神々の意志によってもたらされた。シッダールタは躊躇しながらも、ついに出家を決意する。ところが、邪魔しようとする愛と死の神カーマ・マーラが現れ、雷や炎、鋭い刀剣などで襲いかかる。最終的に菩提の座に座るのは自分であると主張するマーラに対し、シッダールタは指先で大地に触れ、大地の女神に「自分こそ今いる場所に座るものであることを示してほしい」と懇願した。最終的に創造神ブラフマーが降りてきて、神々と人間の指導者になって欲しいと告げ、ブッダとなる。帰還した世界で説法による教えを説いたが、「英雄の旅=生きて帰りし物語」に沿っていることがわかる。

英雄の旅は、エンターテインメントの世界に同じパターンが数多く存在する。最も有名なものがSF映画「スターウォーズ」だ。遠い昔、はるか彼方の銀河系を舞台に繰り広げられる善と悪の壮大な戦いを描いている一大スペクタクル。監督のジョージ・ルーカスは現代の神話を作ろうという明確な意思を持っていた。「千と千尋の神隠し」などスタジオジブリの作品、「天気の子」といった新海誠監督の作品にも同じ構造を読み取ることができる。名作の奥にキャンベルが述べた「単一神話論」が浮かんでくる。キャンベルは人間が持つ集合的無意識のようなものをつかみ取ったと言えそうだ。

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*** 今週の教養 (千の顔を持つ英雄③)

◎「出立」=冒険の合図にどう気づくか  神話は、主人公が自分だと仮定することで分かりやすくなる。そこにある「寓意」、普遍的な意味を模索して読み解き、自身の内面の成長を目指すことができる。出立のステージは次の5段階に分かれる。①冒険への召命=英雄に出される合図②召命拒否=神からの逃避③自然を超越した力の助け=思いもよらない援助の手④最初の境界を超える⑤クジラの腹の中=闇の王国への道である。それぞれをみていく。

①冒険への召命=人間の成長は、らせん階段を穏やかに登っていくように円環的に重ねられていくと言える。物語の主人公は、訪れた召命に対して迷いや拒否を示すことがある。ただ、根本のところでは旅に出たいと願っている。②召命拒否=主人公は何らかの理由で無視したり、拒否したりする場合がある。旅に出ることは、主人公にとって大事なもの、例えば財産や地位、安定した生活という環境などを手放すことになる。それに対して迷いが生じるのだ。③自然を超越した力の助け=主人公の前に現れるのが、遭遇する試練に対抗するための力=守護者(メンター)である。守護者はたいてい、小さくしわだらけのおばあさんやおじいさんだ。

④最初の境界を超える=主人公は新たな世界への境界をまたごうとするが、境界を守るものが立ちはだかり、主人公は最初の対決を余儀なくされる。主人公にとって試練のプロローグとなる。⑤クジラの腹の中=主人公はクジラのような大きな存在に飲み込まれ、腹の中という未知なる世界を経験することになる。「境界を越えるのは自己消滅のひとつの形である」とキャンベルは言っているが、これは「死と再生」に他ならない。クジラに飲み込まれる体験は現実にはありえないが、象徴的な意味での「死と再生」は新たな世界に挑戦する時には決して縁遠いものではない。新しい世界に足を踏み出すのは、非常に勇気がいるし、葛藤も迷いもある。しかし、旅に出ようとすれば必ず、守護者=メンターが現れる。自然を超越した力の助けは、偶然に現れるものではなく、行動を起こせばその過程で必ず支援者や理解者が現れるということを意味している。

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*** 今週の教養 (千の顔を持つ英雄④)

◎イニシエーション=試練をどう乗り越えるか  異世界へ旅立った主人公は試練に直面する。困難を乗り越えていく段階=イニシエーションこそ、英雄の旅で最もスリリングだ。キャンベルは「この世界に来て初めて、恵み深い力が、超人的な経験をする自分をいたるところで支えてくれることに気づく」と書いている。この段階では6つの工程がある。⑥試練の道=神々の危険な側面⑦女神との遭遇=取り戻された幼児期の至福⑧誘惑する女=オイディプスの自覚と苦悩⑨父親との一体化⑩神格化⑪究極の恵み、である。それぞれみていこう。

⑥試練の道=主人公は、自然を超越した力に助けられていることに気がつく。必死になって取り組んでいると、急に打開の道が開かれることがある。シンクロニシティとも呼ばれる。ユングが提唱した概念で、「共時性」とも呼ばれる。⑦女神との遭遇=試練を乗り越えた主人公は女神と出会い、その力に包まれる。スターウォーズの主人公ルークにとってのレイヤ姫のような存在だ。主人公は世界への理解を深め、内面の成長を達成し、その結果として、異性をより理解できるようになり、融合し一体となる力を得る。

⑧誘惑する女=伴侶となるパートナーと出会った主人公のもとに、誘惑する女、異性が現れ、惑わされるプロセスが待っている。⑨父親との一体化=主人公にとって畏怖や脅威の対象である父が、大いなる存在であることを理解した上で、それを乗り越え一体化する。父同様の存在へと自分が成長するドラマである。⑩神格化=敵を打ち破った英雄が経験するプロセス。男性と女性の両方を併せ持つ神に等しい状態が、自分の中に存在すると自覚する。⑪究極の恵み=神格化を自覚した後に、主人公が手に入れるもので、すべてを回復させる「霊薬」を指す。

現代は「儀式のない時代」と言われている。だからこそ、先人の営みを範とし、自らを変えるために「イニシエーション」を積極的に取り入れるべきではないだろうか。カギは限界への挑戦にある。召命のサインを探し、自分から変容のきっかけを作り出すことに挑みたい。

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*** 今週の教養 (千の顔を持つ英雄⑤)

◎帰還=社会への還元  いよいよ最後のステージだ。試練を乗り越えた主人公は宝や戦利品である「霊薬」を得て、もとの世界へと帰っていく。キャンベルは「手に入れた宝が共同体や民族、地球の再生に役立つ」と書いている。帰還のステージは次の6つで構成される。⑫帰還の拒絶=拒絶された現世⑬魔術による逃走⑭外からの救出⑮帰還の境界越え=日常世界への帰還⑯2つの世界の導師⑰生きる自由=究極の恵みの本質と役割です。主な項目をみていこう。

⑫帰還の拒絶=帰還の拒否には2つの原因がある。イニシエーションを経た世界が居心地よく、帰りたくないと感じていること。主人公を元の世界に帰すまいとする何らかの力が働くことだ。⑬魔術による逃走=繰り出されるさまざまな妨害に対して、超自然的な力の助けがあらわれる。逃走劇はユニークで、世界中の神話や昔話に様々なバリエーションが描かれている。⑮帰還の境界越え=英雄は彼岸(夢の世界)から此岸(現実の世界)に戻るため、さまざまな境界を逆方向に上手に超えていなければならない。慈悲に包まれた至福の世界から、猥雑な現実へという大きな環境の変化により、苦しめられる。

⑯2つの世界の導師=旅を終えたら、それまで見ていた世界が大きく変容していた。その2つの世界を誰の目にも見えるようにする導師こそ、物語の主人公なのだ。⑰生きる自由=いよいよ最後にたどり着く。英雄が戻ったことで、その土地は全く新たな共同体として生まれ変わり、活気に満ちあふれる。旅で得た宝を還元することで、大きな恩恵がもたらされ、未来への可能性に満ちた大団員を迎える。こうして旅は完結する。

神話の物語の原型は、先の予測がつかず、大きな物語が欠如しがちな社会を生きて行く私たちにとって、羅針盤になる。いま自分の位置がどこなのか、次にどんな筋書きを作っていきたいのかをイメージできれば、自信を持って新たな一歩を踏み出すことができる。英雄の旅は未来の希望の物語を作るヒントをたくさん教えてくれる。