座右の寓話(2024年9月2~6日)

2024.09.06教養講座

*** 今週の教養 (座右の寓話①)

世の中にはさまざまな寓話があり、教訓や真理をわかりやすく伝えている。今週は「座右の寓話」(戸田智弘著、ディスカバー携書、2022)から5つの寓話を紹介する。

◎「3人のレンガ職人」  【寓話】旅人が建築現場で作業をしている人に何をしているのかと質問した。1人目の作業員は「レンガを積んでいる」と答えた。2人目は「壁を作っている」と答えた。3人目は「大聖堂を作っている。神を讃えるためにね」と答えた。

【解説】3人ともレンガを積むという同じ仕事をしているのに答えが異なっている。1人目は行為そのものを答えた。2人目はレンガを積む目的を答えた。3人目は壁を作る目的を答え、同時に大聖堂を作ることだとつけ加えている。人間の行為は必ず、何かのために何かをするという構造を持っている。一つの行為の目的には、さらにその上位の目的が存在する。「目的と手段の連鎖」と呼んでもいいだろう。今回の寓話を例にとれば、レンガを積む→壁を作る→大聖堂を作る→神を讃えるという構造になっている。上位の目的が下位の目的を決めてコントロールしているのだ。

2つの教訓を読み取れる。第一は、できるだけ広く目的と手段の連鎖をイメージして仕事をするのが有益であるということだ。3人目の職人が最も有意義な仕事ができることは容易に想像できる。ドフトエフスキーは「人間にとって最も恐ろしい罰は、何から何まで徹底的に無益で無意味な労働を一生課すことだ」と言っている。第2の教訓は、自分の仕事は私の幸福や私たちの幸福とどうつながるのかを考えるということだ。

手段と目的の連鎖は、どこまでも無限に続くのかというと、そうではない。哲学者のアリストテレスによれば、「何々のために」という目的の連鎖は、幸福になりたという目的にすべて帰結するという。会社員が現在している仕事に着目し、目的を掘り下げていけば、良い人生を送りたいためだとなる。自分がしている仕事は、私の幸福や私たちの幸福とどうつながっているのか考えたい。

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*** 今週の教養 (座右の寓話②)

◎「ゴーグルをつけろ」  【寓話】イタリアの工場で、目の中に異物が入るのを避けるため、作業員全員にゴーグルの着用を義務付けていた。しかし、着用率は高くなかった。現場監督が命令しても言うことを聞かない。経営幹部から「作業員の性根を叩き直す研修をしよう」「監督者が悪いんじゃないか」といった声が出た。社外から来たコンサルタントが「何が問題ですか」と問いかけると、次のようなやりとりとなった。「作業員がゴールのつけないことです」「何が解決ですか」「ゴーグルをつけるようになることです」「どうしたら実現するんでしょうか」「それがわからないから苦労しているんだ」。誰かが冗談交じり「そりゃ、かっこいいゴーグルにすれば、みんなつける。イタリアの男にとってかっこいいってことは大事なことだ」と言った。幹部たちは「いいアイディアかもしれないぞ」と考え、試しにおしゃれなゴーグルを作って一つの班のメンバーだけに渡してみた。すると班の全員が喜んでゴーグルをつけた。

【解説】ある問題に遭遇した時、対処の仕方は2つの方法がある。「原因追求志向」と「解決探索志向」である。前者は問題に焦点をあて、うまくいかない原因を探していく。後者は解決に焦点をあてる。原因は横に置き、どうやったら上手くいくのかをあれこれ考える。ゴーグルの事例は、解決探索志向へ変わることで成功した事例である。

似た話として、「エレベーターと鏡」がある。エレベーターの待ち時間が長すぎるという苦情があった。解決策として、エレベーターの増設や高速エレベーターへの取り替え案が出たが、どちらも莫大なコストがかかってしまう。ある社員は「エレベーターの前に大きな鏡を置きましょう」と提案した。その通りにしたら、問題が解決した。ほとんどの人が鏡をのぞき込み、服装や表情や化粧の状態をチェックするようになったからだ。「待ち時間が長い」を「待ち時間が長いと感じる」という問題に変換して解決したのだ。

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*** 今週の教養 (座右の寓話③)

◎「子どもをしかる父親」  【寓話】父と子どもで次のような会話があった。「おい、そんなところでゴロゴロ寝てないで勉強しなさい」「どうして勉強しなくちゃいけないの」「勉強しないといい学校に入れないだろう」「どうしていい学校に入らなきゃいけないの」「いい学校に入らなきゃ、いい会社に入れないだろう」「どうしていい会社に入れないといけないの」「いい会社に入らなきゃ、いい暮らしができないだろう」「いい暮らしって、何さ」「・・・そうだな・・・寝て暮らせるってことだ」「僕、もう寝て暮らしているよ!」

【解説】「いい暮らし」とは、寝て暮らすことだろうか。日本人の勤労観では少し違う。人はなぜ勉強をするのか、なぜ働くのかという問題も提起しているが、ここでは働く目的を考えてみたい。すぐに出てくるのは「生活費を稼ぐため」だ。しかし、食うに困らない資産を持っているのに働き続けている人がいる。体が動くうちは働きたいと考える高齢者も多い。働く理由は経済的要素だけではない。仕事は義務だからという社会的要素もある。日本国憲法27条は「国民は勤労の権利を有し、義務を負う」と書いてある。社会の成員として役割を果たすことも働く理由の一つであろう。

これ以外で、仕事を通じて自己実現の喜びを感じられる個人的要素を列挙したい。①悪から逃れられる。「小人閑居して不善をなす」のことわざを思い出そう。小人が暇を持て余すと、悪事に走りやすい。私たちのほとんどは小人物である。②他者と交流できる。生産活動は他者と関わらざるを得ない。職場は厳しさが求められる戦場である反面、親交の場でもある。③自分の力を発揮できる。人間は自分の能力を存分に発揮した時、喜びを感じる。逆に力を発揮できないと、悶々とした状態に陥る。

④成長進化できる。色々な人と出会い、多くのことを学び、業務をこなすうちに職業人として成長進化する。⑤承認欲が満たされる。上司から「よくやった。次も頼むぞ」とほめられたり、顧客から「ありがとう」という感謝の言葉をもらったりした時、働き甲斐や人格を肯定されたと感じる。自分の外側にある目的のために仕事をするのではなく、私が私らしくあるために仕事をしている。私の心がその仕事をすることを欲している。そうした内発的な理由を忘れてはいけないだろう。

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*** 今週の教養 (座右の寓話④)

◎「天国と地獄の長い箸」  【寓話】地獄の食堂も、極楽の食堂も満員だった。向かい合って座っているテーブルの上には、美味しそうなごちそうがたくさん並んでいる。どちらの食堂も決まりがあった。大変長い箸で食事をしなければならないことだ。地獄の食堂では、みんなが一生懸命に食べようとするのだが、箸が長いので、自分の口の中に食べ物を運べない。長い箸の先が隣の人を突いてしまう。食堂のいたる所でケンカが起きていた。極楽の食堂では、みんなが穏やかな顔で食事を楽しんでいた。よく見ると、みんなが向かいの人の口へと食べものを運んでいた。こっち側に座っている人が、向こう側に座っている人に食べさせてあげていた。

【解説】地獄の食堂には、自分のことしか考えていない人間が集まっている。ごちそうを巡って争いごとや奪い合いが絶えず、暴力がはびこっている。地獄の食堂の人間にとって、他人は邪魔者であり、いなくなればいいとさえ思っている。極楽の食堂には、自分だけでなく、他人のことも考える人間が集まっている。奪い合う関係ではなく、与え合う関係が確立しているので、秩序と平和が保たれている。彼らは他人がそこにいることを考慮し、尊重している。自分ひとりの力では生きてはいけないし、生きていくためには、自分以外の力を借りなければならないことを知っている。

社会問題の多くは、奪い合うから生じる。人と人、部族と部族、国と国が何らかの資源をめぐり奪い合いを起こす。資源が希少だから奪い合い、支援が満ち足りているから与え合うのか。逆だ。奪い合うから足りなくなり、分け合えば余るのである。地球には膨大な資源が存在する。足りないと騒ぐのは、資源の多くを本当に必要ではないことに使っているからだ。例えば、軍備の拡張であり、贅沢な消費財である。奪い合いの根底には、「自分さえ良ければいい。自分の国さえ良ければいい」という考えが潜んでいる。世界を見渡すと、自分の国さえ良ければいいと言わんばかりの指導者が跳梁跋扈している。そういう指導者の顔は、例外なく傲慢で、品性のない顔をしている。

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*** 今週の教養 (座右の寓話⑤)

◎「コスタリカの漁師とアメリカ人旅行者」  【寓話】コスタリカの小さな漁村で、漁師とアメリカ人旅行者がこんな会話をした。「何時間ぐらい漁をしたの」「長い時間じゃないよ」「もっと漁をしたらもっと獲れるだろう。惜しいなあ」「家族が食べるにはこれで十分だ」「余った時間は何をしているの?」「ゆっくり寝て、漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房と昼寝をする。夜になったら友達とワインを飲んで、ギターを弾いているのさ。結構忙しいんだよ」 

旅行者は真面目な顔で漁師に向かってこう言った。「ハーバード・ビジネス・スクールでMBA(経営学修士)を取得した人間としてアドバイスしよう。もっと長い時間漁をして余った魚を売り、お金が貯まったら、大きな漁船を買う。漁船を増やして、大量船団をつくる。加工場を建て、コスタリカの首都に事務所を構え、やがてロサンゼルスやニューヨークにも進出する。漁獲から加工販売までを統合し、オフィスビルから指揮をとるんだ」。漁師は「何年くらいかかるんだろう」と聞いた。「15年から20年くらいだな。時期が来たら上場して株を売り、億万長者だ」「なるほど。そうなると・・・」「海岸近くの小さな村に住んで、ゆっくり寝て、日中は釣りをしたり子どもと遊んだり、奥さんと昼寝したり。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて過ごすんだ」

【解説】2日前に紹介した「子どもをしかる父親」とよく似た寓話である。ここでは忙しさの違いに注目しよう。途上国より先進国の人、昔より今の人の方が忙しいというのは正しくない。忙しさの質が違うのだ。評論家の福田恆存は「昔は忙しさのうちに安心して落ち着いていられたのに、今は忙しさに安閑と落ち着いていられなくなった。昔は何かしていて、そのことに忙しかったのだが、今は何かしていても、そんなことはしていられないという忙しさなのである」と書いている。

発展するにつれて失われたのは、落ち着きがあり、どっしりとして、地に足のついた生活だ。人間は便利な機械を発明して暇を作り、落ち着きのある生活を得ようとした。しかし、その暇を埋め合わせる何かを発明する。人間は奇妙な生き物である。「節制」も教訓だ。節制とは度を超さないように程よくすることであり、楽しみをやめることでも、減らすことでもない。節制とは、快楽の奴隷になることではなく、快楽を自らコントロールし、快楽の主人でいられるよう努めることだ。