ピーター・センゲ著「学習する組織」(2024年9月23~27日)
*** 今週の教養 (学習する組織①)
今週は、アメリカの経営学者ピーター・M・センゲ氏(1940~)の著書「学習する組織」(英治出版、2011)を取り上げる。変化の時代には学ぶ組織が求められているとして、5つのディシプリンを提唱している。第1章からその5つである「システム思考」「自己マスタリー」「メンタル・モデル」「共有ビジョン」「チーム学習」を順に紹介する。
◎システム思考 私たちは幼い頃から、問題を細かく分けよ、世界を断片化せよと教えられる。分けることで、複雑な課題や対象が扱いやすくなるのは明らかだが、私達は目に見えない莫大な代償を払うことになる。自分の行動の結果がどうなっているかが見えなくなるし、本来私たちに備わっているより大きな全体とつながっている感覚が失われてしまう。全体像を見ようとする時には、断片を頭の中で再び組み立て、すべての要素を並べて一つにまとめようとする。だが物理学者のデビッド・ボーンが言うようにこれは「無駄な作業」だ。割れたガラスの鏡の破片をつなぎ合わせて真の姿を映そうとするようなものだ。しばらくすると私たちは全体を見ようとすることをすっかりあきらめてしまう。
雲が立ち込め、空が暗くなり、木の葉が風に舞い上げられると、もうすぐ雨が降ると分かる。ビジネスや人間による企ても同様であり、システムである。それらは相互に関連する行動が織り成す、目に見えない構造でつながっている。互いへの影響が完全にあらわれるまでには何年もかかる場合も多い。私たち自身がその一部として織り込まれているため、変化のパターンの全体を見ることは難しいのだ。
そこで部分に焦点を当てるが、深刻な問題が解決しそうにないのは、なぜなのだろうか。システム思考はパターンの全体を明らかにし、それを効果的に変える方法を見つけるための概念的枠組みである。過去50年間にわたって開発されてきた一連の知識とツールである。根底にある世界観は極めて直感的なものである。実験によれば、幼い子どもたちはシステム思考を非常に素早く学習することが明らかになっている。
*** 今週の教養 (学習する組織②)
◎自己マスタリー マスタリーというと、人や物事に対する優位性を得ることを想起するかもしれない。だがマスタリーには、特別なレベルの熟達という意味もある。高いレベルの自己マスタリーを得た人たちは、自分たちにとって最も重要な結果を常に実現することができる。要するに、芸術家が作品に取り組むがごとくに人生に向かい合う。自身の生涯を通じて学習に身を投じることによって、それを実現するのである。
自己マスタリーというディシプリンは、継続的に個人のビジョンを明確にし、深めることである。エネルギーを集中させ、忍耐力を身につけ、現実を客観的に見る事である。自己マスタリーは、学習する組織に欠かせない要であり、精神的基盤である。組織がどのくらい学習に対してしっかり取り組めるかは、構成メンバーの能力より高くはなりえない。このディシプリンの起源は、東洋と西洋双方の宗教的伝統、非宗教的な伝統にある。
だが、このようにして人々の成長を促す組織はほとんどない。このため莫大な数の人材が未開発のままになっているのだ。ハノーバー・インシュアランスのオブライエンは「初めて仕事に就くとき、人々は頭脳明晰で、高い教育を受け、世の中を良くしようというエネルギーと願望に満ちている。30歳になる頃には、ごく一部の人たちは出世街道をひた走るが、残りの人たちは週末に自分にとって大事なことをやるために時間を費やしている。意欲をなくし、使命感も胸躍る気持ちも失っている。エネルギーはほとんど感じられないし、全く気迫がない」と言っている。
自己マスタリーを確立するために努力する大人はほとんどいない。人生に何を求めるかと尋ねると、たいていの大人はまず、何から逃れたいかを語る。「義母に出て行ってもらいたい」とか「背中の痛みが治って欲しい」と言う。自己マスタリーのディシプリンはまず、私たちにとって本当に大切なことを明確にし、自分の最高の志に仕える人生を生きることである。私が最も関心があるのは、個人の学習と組織の学習と関係であり、個人と組織との相互献身や、学習者からなる企業の特別な熱意である。
*** 今週の教養 (学習する組織③)
◎メンタル・モデル メンタルモデルとは、私たちがどのように世界を理解し、どのように行動するかに影響を及ぼす前提である。一般概念であり、想像やイメージでもある。私たちは自己のメンタルモデルや、それが自分の行動に及ぼす影響について、気づいていない場合が多い。例えば、ある同僚が上品な服装をしていると感じると、「彼女は上流階級の出身だ」と思うかもしれない。みすぼらしい服装の人のことは「彼は他人からどう思われるか気にしない」と思うかもしれない。様々な経営環境で、何ができ、何ができないかについて、メンタル・モデルが深く刻み込まれている。新しい市場や時代遅れの組織慣行について洞察を持っていても、多くが実践に移されないのは、強力な潜在的メンタルモデルと対立するからである。
世界の石油ビジネスにおける前例のない変化があった1970年代から80年代、ロイヤル・ダッチ・シェルが成功を収めた。7大石油会社の中で最も弱小な企業からエクソンに並ぶ最大手へと登り詰めた。変化の準備をするためのディシプリンとして、マネージャーのメンタルモデルを浮かび上がらせ、立ち向かう方法を学習したことに負うところが大きい。80年代にシェル幹部だったアーリー・デ・グースは、変化し続けるビジネス環境において継続的に成長できるかは、組織としての学習にかかっているという。「組織としての学習とは、経営陣が会社や市場、競合企業について自分たちが共有するメンタル・モデルを変えるプロセスである。私たちは計画を学習と考え、企業計画を組織としての学習と考える」と話している。
メンタル・モデルに働きかける第一歩は、鏡を内面に向けることである。内面の世界観を掘り起こし、浮かび上がらせ、厳しく精査できるようにするのだ。探求と主張のバランスが取れ、学習に満ちた会話を続ける能力も含まれる。そのような会話では、人々は自分自身の考えを効果的に表現し、その考えが他の人の影響を受け入れるようにする。
*** 今週の教養 (学習する組織④)
◎共有ビジョン リーダーシップの分野で長期にわたって組織に刺激を与え続ける考えがあるとしたら、それは私たちが作り出そうとする未来の共通像を掲げる力である。組織全体で深く共有される目標や価値観や使命なくして、偉大さを維持し続けている組織は思い当たらない。IBMには「サービス」があったし、ポラロイドには「インスタント写真」、フォードには「大衆のための交通機関」、アップルには「取り残された人たちのためのコンピューター」があった。
内容は全く異なるが、こういった組織はどれも共通のアイデンティティや使命感を中心にして人々をまとめることを成し遂げてきた。真のビジョンがあると、人々は卓越し、学習する。言われるからではなく、そうしたいと思うから学習する。しかし、多くのリーダーは組織を活性化する共有ビジョンにはつなげられないままに終わる。個人のビジョンしか持っていないからだ。たいていの場合、企業の共有ビジョンはリーダーのカリスマ性や、一時的に全員を活性化する危機に基づいている。
だが選べるものなら、大部分の人は、危機の時だけでなく、どんな時でも高い目標を追求することを選択する。これまで欠けていたのは、個人のビジョンを共有ビジョンにつなげるためのディシプリン、つまり一連の原則や基本理念だ。共有ビジョンの実践には、追従よりも、真のコミットメントと参画を育む共通の「将来像」を掘り起こすスキルも含まれる。このディシプリンを習得する時、リーダーは、ビジョンについて指図することは逆効果であると学ぶ。たとえそれが心からの行為であったとしても、だ。
*** 今週の教養 (学習する組織⑤)
◎チーム学習 個々の知能指数(IQ)が120を超える献身的なマネージャーの集まるチームが、全体としてIQ 63になってしまうことがどうして起こるのだろうか。チーム学習のディシプリンは、この矛盾に向き合う。チームが学習できることを私たちは知っている。スポーツや芸能、科学、時にはビジネスでも、チームの英知がチーム内の個人の英知に勝ることがある。チームによって協調的行動の驚くべき能力が生み出されることを示す例も存在する。チームが真に学習する時、チームとして驚くべき結果を生み出すだけでなく、個々のメンバーもチーム学習がなかったら起こりえないような急激な成長を見せる。
チーム学習のディシプリンは、「ダイアログ」で始まる。チームのメンバーが、「ともに考える能力」である。ギリシャ人にとって「ディアロゴス」は、「個人で得ることができない洞察をグループとして発見することを可能にする自由に広がる」を意味した。興味深いことにダイアログという習慣は、アメリカインディアンの文化のように多くの原始的な文化で守られてきた。しかし、現代社会ではほぼ完全に失われている。ダイアログは、より一般的な言葉である「ディスカッション」とは異なる。ディスカッションは、「叩打」(パーカッション)や衝突(コンカッション)を語源としていて、勝者がすべてを得る競争の中で、考えをお互いにぶつけあう事である。
ダイアログのディシプリンには、学習を阻害するチーム内の相互作用のパターンに気づく方法を学ぶことも含まれる。防御パターンが、チームの中にしばしば深く根付いている。それに気付かないでいると、学習が阻害される。それに気づき、創造的に浮かび上がらせれば、学習を加速することができる。チーム学習は極めて重要である。なぜなら、現在の組織における学習の基本単位は個人ではなく、チームであるからだ。肝心なのはここである。チームが学習できなければ、組織は学習しえない。