ヘンライ著「アート・スピリット」(2024年10月7~11日)

2024.10.11教養講座

*** 今週の教養 (アート・スピリット①)

今週は、芸術家を目指す若者の教科書とされる「アート・スピリット」(原書は1923年。国書刊行会が野中郁子訳で2011年出版)を取り上げる。著者は米国の油絵画家で美術学校の教師・ロバート・ヘンライ(1865~1929)。初日は概説で、マーケティング戦略コンサルタント永井孝尚氏の書評を紹介する。2日目以降は原書の「最初に――芸術の魂とは」を掲載する。

◎概説 私たちの人生には様々な決定的瞬間がある。早朝の静寂な空気の中で燃えるように真っ赤に染まる夜明け前の空を見たとき。仲間との熱い絆を感じたとき。そんな瞬間を体験した人は「この瞬間を、何らかの形で再現したい」と強く思い始めて、絵画や彫刻、あるいはダンスや劇、音楽などで再現する。これが芸術なのだ。しかしこの「決定的瞬間の再現欲」は芸術にとどまらない。

ヘンラインはこう述べている。「問題は、その人間にどうしても言うべきことがあるかどうか、である。表現したいことが芸術かそうでないか、絵かそれとも別のものかは、その人間にとってどうでもよいことだ。普遍的な表現にする価値があるかどうかだけを気にかけるべきなのだ」「芸術を、絵画や彫刻、音楽や詩だけに限定する考え方には共感できない。素材として何を用いるかはまったくの偶然であり、あらゆる人間の中に芸術家がいるという考え方が広まって欲しいと思う」。

芸術もビジネスも「これを表現したい」「実現したい」という強烈な衝動が原動力だ。展覧会用にとりあえず作りましたという作品や、仕事なのでとりあえずやりましたというビジネスは、人の心に響かず、たいしたものにはならない。何が心地よいと感じるかを知ることが出発点だ。そして自分が夢中になることを見つけ、自分の能力を使い倒す。その先に、流行に左右されない自分だけのオリジナリティーが確立できる。これまでやってきた、あるいはこれからやろうとしている仕事の意味や、人生のさまざまな活動を改めて整理する上で、本書は必ず役に立つだろう。自分の最高の教師は自分である。自分自身に問いかけよ。

*** 今週の教養 (アート・スピリット②)

芸術は、その本質が理解された時、人類全体のものになる。それがなんであれ、物事がうまくなされているかどうか、というシンプルな問題だ――それはどこかよそにある特別なことではない。

ある人の内部に芸術家の魂が息づいている時、創作のジャンルに関わらず、その人はおのずと創意にあふれ、探究心を持ち、大胆に自己表現しようとするはずだ。そして他人に興味を持つだろう。周囲に混乱をもたらし、悩ませ、啓蒙し、より理解に向かって道を切り開く。芸術家の魂を持たない人々はこの本を閉じるだろうが、芸術家の魂を持つ人なら、この本を開き、もっと書くべき事があると身をもって示すだろう。そのような人がいなければこの世はよどみ、そのような人がいれば世界は美しくなる。なぜなら、その人は自分に興味を持つだけでなく、ほかの人々にも興味を向けるからだ。芸術家であるには、画家や彫刻家になる必要もない。どんな素材でも作品はできる。外の世界ではなく、作品そのものの中に価値を見出せばよいのだ。

美術館のある国が、すなわち素敵な国というわけではない。だが、芸術家の魂(アート・スピリット)があれば、美術館には貴重な作品があふれるだろう。さらに良いのは、創作の喜びが生まれることだ。芸術は均衡、秩序、相対的な価値観、成長の法則、簡潔な生活に向かおうとする――それは関係するすべての人々にとって幸せなことである。

芸術を学ぼうとする人々の苦労は並大抵のものではない。それに向き合う勇気とスタミナを持つ人は滅多にいない。いろいろな意味で、孤立することを覚悟しなければいけない。人は共感を求め、仲間を欲しがるものである。一人でいるよりも、仲間といる方がずっと楽だ。だが、一人になって初めて、人は自分をよく知り、成長できる。大勢に囲まれていたら、成長が止まってしまう。これには犠牲が伴う。成功を手に入れたとしても、人は生涯その成功を楽しむと同時に、何かを失わなければならないのかもしれない。

*** 今週の教養 (アート・スピリット③)

自分の正直な感情を大切にし、見過ごさないこと。我々がここにいるのは、誰かが成し遂げたことをなぞるためではない。私は自分の知識を君たちに伝授しようとは思わない。むしろ、君たちが知っていることを、ぜひ私に話したいという気持ちになってほしい。私の仕事場で心がけるのは、環境をなるべく改善することだけだ。

ルネサンスの巨匠たちの技術を学びなさい。彼らの絵がどのようにしてできているのかを知ることだ。ただし、彼らが築いた伝統にとらわれてはいけない。それらの慣習は、彼らにとっては正しかったし、巨匠たちは確かに素晴らしい。彼らは自分なりの表現法を生み出した。君たちにも自分だけの表現がある。巨匠たちは手助けしてくれる。過去の全てが手がかりになるだろう。芸術を学ぶものは最初から巨匠であるべきだ。つまり、自分らしくあるという点で誰よりも抜きん出ていなければならない。今現在、自分らしさを保っていられれば、将来必ず巨匠になれるだろう。

我々を刺激する芸術作品は、ごまかしや不安を抱いた人間からは生まれない。芸術は大きな喜びにあふれた楽観的な人間性の表れであり、その瞬間にこそ作品が生まれる。作品を作る前に偉大なことを考えるだけでは十分ではない。絵筆が画面に触れた瞬間、作品に取り組んだ芸術家の状態がありのままに現れてしまう。そのような記号を捉えることができる人々は、はっきりとそれを見てとり、意味を理解する。やがては芸術家自身もそれを読み取るだろう。自分自身が明らかになって、驚くかもしれない。

見る者の興味を引き付ける芸術家は、自分自身にも興味を持つべきである。芸術家は強い感情を持ち、深い生活ができなければいけない。深い省察ができ、自分自身と向き合う人は、主題の表面だけを見るのではなく、真実を見抜くことができる。自然は目の前で本当の姿を表す。じっくりと眺め、ひしひしと感じながら、芸術家は絵を描く。その意図があろうとなかろうと、絵筆の運びの一つ一つが、その瞬間の記録になる。作品は絵筆をふるう画家の状態をありありと映し出しているのだ。

*** 今週の教養 (アート・スピリット④)

スケッチが好きな画家たちは、都会のあちこちに出かけ、人々の間を歩きまわって愉快な日々を送って来た。どこでも好きな場所に行って、好きなだけ足を止めていられる――どこへ到着する義務もなく、興味の赴くまま好きな方角へ進んでいく。好奇心に駆られてあちこち歩き回り、気に入ったものがあれば止まってしげしげと眺め、手にしたスケッチブックにざっとスケッチしたり、ポケットに収まる小さなパネルやイラストボードに油絵の具で素早く描いたりする。腕のよい猟師のように、狙った獲物は逃さない。画家は自分の愛するものを探し求め、それを捕まえようとする。それはどこにでも、いたるところにある。だが、猟師の目をもたなければ、それを見ることはできない。猟師は見ること理解することを学び――そして味わう。

そのような日々、群衆から遠く離れたかと思うとまた戻り、対象を見つめ、思いにふけったことは記憶として残る。描いたはずのスケッチはどうなった? いくつかはほこりにまみれ、よくできたいくつかは額に入れられ、いくつかはもっと大きな作品のモチーフになる。それらの大作は、スケッチより良いものになることもあれば、失敗に終わることもあるだろう。だが、それらのスケッチは、というより、それを手がけた時点での自分たちのあり方や理解の度合いは、常に変化し続け、我々の作品と人生全体に大きな足跡を残す。

拒絶を恐れるな。優れたものを持つ人間はみな拒絶を通過してきた。作品がすぐに「歓迎」されなくても気にしないことだ。作品がすぐれているほど、あるいは個性的なほど、世間には受け入れられないものである。ただし、このことは覚えておいて欲しい。絵を描く目的は、展覧会に出すことだけではない。作品が展覧会場に並ぶのは歓迎すべき事ではあるが、絵を描くのは自分自身のためであって審査員のためではない。私は何年も拒絶され続けた。

*** 今週の教養 (アート・スピリット⑤)

大傑作を目指せ! よく出来た風景画を描いたりするな。君自身が興味をひかれた風景をキャンバスに描き出せ――それを目にした時の自分の快感を描くのだ。頭を使え。きれいな色彩、快い色調、バランスのとれた形態で風景を描ける人々は大勢いる。そのすべてが、大胆かつ知的な筆先で表現されている。

クールベの作品はどれも、彼の人間性を表している。彼がどんな頭脳とどんな心を持っていたかが読み取れる。画学生ならば、形態であれ何であれ、自分が発見したものを描き出すべきだ。人として生まれて望むのは、この世界全体にささやかなりとも自分の断片を付け加えることである。誰も最後の1人にはなれないが、自分の進歩記録することができる。どんな記録であれ、とことんまでやれば全体をしのぐこともある。画学生は孤立した存在ではない。大勢の仲間の一人であり、同じ志を持つ人々と緊密につながっている。彼らは人から与えられ、また人に与える。受け取ることは自分にとっての利益となり、他者に与えることもまた利益となる。

芸術を介して、人々の間に神秘的な理解と叡智の絆が生じる。それは兄弟の絆と同じように堅い。兄弟の絆を結んだ者たちはお互いを深く理解しあい、時間や空間さえも彼らを隔てない。この絆は強力だ。この絆を証明するのは表面的な形ではない。この地球上で、様々な組織が生まれ、権威を持ち、互いに張り合おうとするかもしれない。政治家たちは現状維持を図って、何度となく修復を試みるだろう。表面上でどんなことが起ころうとも、兄弟の絆は揺るがない。それは人類の進歩である。

内面に芸術家の魂が息づいている人にとっては、どんな身近な人々よりもエルグレコの方に親しみを感じるだろう。プラトンでも、シェークスピアでも、古代ギリシャ人でもいい。書物の中には、最初のいくつかの文章を読んだだけで、そこに兄弟がいると感じられるものがある。通りで大勢の人とすれ違う。君のために存在する人もいれば、無縁の人々もいる。ここにレオナルド・ダ・ヴィンチの素描がある。私はその素描の中に入り込み、描きながら難問に取り組むレオナルドを眺め、そこで彼と出会う。