エマソン著「自己信頼」(2024年10月21~25日)

2024.10.26教養講座

*** 今週の教養 (自己信頼①)

今週はラルフ・W・エマソン(1803~82)の著書「自己信頼」を紹介する。エマソンはアメリカの思想家・哲学者。牧師の家に生まれ、ハーバード大学を卒業し、自分も牧師になった。超絶主義(トランセンデンタリズム)の先導者とされ、客観的な経験論より、主観的な直感を強調する。自己啓発の世界的名著とされ、日本では福沢諭吉や宮沢賢治らに影響を与え、オバマ元大統領が愛読書としている。

自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての真実だと信じること。それが天才である。心の中で確信していることがあるなら、声に出して語るがよい。そうすれば、それは普遍的な意味を持つようになるだろう。奥底にあったものが、時とともに現れるように、最初に抱いていた考えは、最後の審判のラッパとともに、私たちのもとへ返ってくる。内なる声が聞こえてくるのは、決して珍しいことではない。モーゼやプラトン、ミルトンの最大の功績は、書物や伝統を無視し、世間の考えではなく、自分の意見を語ったところにある。

私たちは吟遊詩人や賢人たちが放つ、目もくらむような輝きよりも、自分の内側でほのかに輝いている光を見つけ、観察するべきだ。しかし人は自分の考えを、それが自分のものだという理由で無造作に片付けてしまう。そして天才の仕事を見るたびに、そこに自分が却下した考えがあることに気づく。一度は自分のものだった考えが、ある種のよそよそしい威厳をたたえて、自分の元に戻ってくるのだ。

これは、優れた芸術作品を前にした時、私達が学ぶ最大のことに違いない。これらの作品は、たとえ周囲のすべてが反対していようとも、にこやかに、しかし断固として、自分の中に自然に湧き上がってくる印象に従うべきだと教えてくれる。さもなければ、翌日にはあなたがいつも考え、感じてきたのと全く同じことを、どこかの誰かが言葉巧みに語りだし、あなたは恥じ入りながら、自分の意見でも他人から頂戴するはめになる。

*** 今週の教養 (自己信頼②)

ねたみは無知であり、人まねは自殺行為であること、よかれあしかれ、自己は受け入れなければならないこと、世界は広く、善きものであふれているが、自分に与えられた土地を耕さない限り、身を養ってくれる一粒のトウモロコシでさえ、自分のものにはならないこと。教育を受けているうちに、私達はこうしたことを悟っていく。私たちの中に宿る力は、全く新しい種類のものであり、それを使って何ができるかを知っているのは本人だけだが、実際にやってみるまでは本人にさえ、それが何かはわからない。

ある種の顔、性格、事実からは強い印象を受けるのに、別の者からはなんの印象も受けないことがある。それは偶然ではない。ある者が記憶に残るのは、それが収まるべき場所が自分の中にあったからだ。目が一条の光を捉えたのは、その光の存在を証明するためだ。人間は自分を半分しか表現しておらず、天から授かった神聖なアイディアを恥じている。正しく伝えるなら、そのアイディアは調和を生み、良い結果をもたらすだろう。しかし臆病者に神のみわざは伝えられない。

自分の仕事にまごころを込め、最善を尽くすなら、心は安らぎ、晴れやかになるが、そうでない言行からは心の平安は得られない。そのような態度は何も生み出さない。それでは才能にも見捨てられ、詩神の助けも得られず、創造も希望も生まれないだろう。

*** 今週の教養 (自己信頼③)

自分を信じよ。あなたが奏でる力強い調べは、万人の心を震わせるはずだ。

神の摂理があなたのために用意した場所を、同時代の人々との交わりを、物事の縁を受け入れよ。偉人たちは常にそうしてきた。彼らは子どものように時代の精神に身を委ね、自分の心の中に完全に信頼できる者が鎮座し、それが自分の手を通してはたらき、自分の全存在を支配していることを示してきた。現代に生きる私たちも、この人知を超えた運命を最高の精神で受け入れなければならない。私たちは誰かの庇護下にある未成年者や病人でもなければ、革命を前に逃げ出す臆病者でもない。私たちは導き、救い、恩恵を施す者であり、全能の神のみわざに従って、「混沌」と「暗闇」に突き進む者である。

この主題、すなわち自己信頼に関して言えば、自然は子どもや赤ん坊、ときには獣の顔や態度を通じて、なんと素晴らしい神託を与えてくれていることだろう! 幼な子や動物には、あの分裂した反逆精神はみられない。自分の感情を疑い、損得だけを考えて、目的とかけ離れた力や手段を選ぶこともない。彼らには完全な精神と、まだ何者にもとらわれない目が備わっている。その顔をのぞき込めば、思わずこちらが狼狽してしまうほどだ。

幼児は誰にも従わない。世界が幼児に従うのだ。それが証拠に、赤ん坊が一人いれば、その周囲では4、 5人の大人たちが片言でその子に語りかけ、あやそうとしている。しかし神は少年期、思春期、壮年期の人々にも相応の刺激と魅力を授け、うらやむべき優美なものとし、自分の足で立とうとするなら、その主張が無視されることのないようにした。あなたや私と対等に話ができないからといって、若者は無力だなどと考えてはならない。聞くがよい! 隣室からは弁舌さわやかに持論を展開する彼の声が聞こえる。同時代の仲間が相手なら、彼も話の仕方も知っているようだ。はにかみ屋であれ、豪傑であれ、若者たちはいずれ、年長者をお払い箱にする方法を見つけるだろう。

*** 今週の教養 (自己信頼④)

食事の心配をする必要のない少年たちは、人を懐柔するために何かを言ったり、したりすることを軽蔑する。この王侯のごとき無頓着さこそ、人間本来の健全な姿だ。客間にいる少年は、平土間で舞台を眺めている観客のようなものだ。自由気ままに、何の責任もなく、自分がいる場所から人間や物事を眺め、いかにも少年らしい素早さで、良い、悪い、面白い、ばかばかしい、弁が立つ、手が焼けるなどと断じていく。結果や利害を思いわずらうことはない。ただ自分の感覚に従って、率直に裁きを下していく。少年の機嫌を取らなければならないのは大人であって、少年が大人の機嫌を取ることはない。

大人は自意識によって、自分で自分を牢獄に閉じ込めている。ひとたびその言動が大喝采を浴びれば、彼は直ちに拘束され、何百人もの共感や敵意に監視されるようになり、以後は何をするにも周囲の意向を気にするようになる。過去を消す魔法はない。ああ、また中立の立場に戻れたら! どんな誓約もせず、同じものを何の影響も、偏見も、汚れも、恐れもない無垢な目で、何度でも眺められる人。そのような人こそ、いつの時代にも恐るべき存在であるに違いない。彼は目の前で起きているどんなことに対しても、自分なりの考えを語る。それは個人的なつぶやきではなく、耳を傾けるべき意見とみなされ、人々の耳を矢のように貫き、畏怖させるだろう。

こうした声が聞こえてくるのは、一人でいる時だけだ。世間の中に入ると、その声は徐々に遠のき、聞こえなくなっていく。社会は、人々から人間らしさを奪うたくらみであふれている。社会はいわば株式会社だ。すべての株主にパンを行き渡らせるために、パンを食べる者の自由と教養は放棄される。最も求められる美徳は順応だ。自己信頼は嫌悪される。社会は物事の本質や創造性ではなく、名目と習慣を愛する。

一個の人間でありたいなら、社会に迎合してはならない。不滅の栄養を得たいなら、善という名目に惑わされることなく、それが本当に善かどうかを探求する必要がある。結局のところ、自分の精神の高潔さ以外に、神聖なものはない。自分自身を牢獄から解き放てば、いずれ世界の賛同を得られるだろう。

*** 今週の教養 (自己信頼⑤)

自分以外の者は名ばかりで、束の間の命しかもたない者とみなし、たとえ周囲のすべてが反対しようとも、自分の意見を貫くことだ。人間はいとも簡単にバッジや名前、大きな団体や死んだ組織にひれ伏してしまう。恥ずかしくなるほどだ。私とて身ぎれいで上品な言葉を話す人を前にすると、必要以上に影響を受け、心を揺さぶられる。しかし本当は背筋を伸ばし、はつらつとして、いつでも真実をありのままに語るべきなのだ。

慈善事業の皮をかぶっていれば、悪意や虚栄心も見逃すべきなのだろうか。狂信的な活動家が怒りに燃えながら、「奴隷制度廃止」という寛大な大義を掲げて、黒人奴隷に強制労働を強いたカリブ海のバルバドス島の最新情報を伝えにやってきたら、私はこう言ってもよいのではないか。「家に帰って、わが子を可愛がってやりなさい。あなたのために薪を割っている労働者を労いなさい。穏やかで控えめでありなさい。そうした美点を自分のものとするのです。自分の冷酷で無慈悲な野心をごまかすために、はるか彼方の黒人に途方もない情けをかけることはやめなさい。あなたが異国に投げかける善意はあなたの周囲にいる者達にとっては悪意でしかありません」

客人にこんなことを言うのは、粗野で無礼な振る舞いかもしれない。しかし真実は、いつわりの愛情よりも人の心をとらえる。善良さにも、ある程度の気骨は必要だ。そうでなければ、善良さは何も生まない。もし愛の教えが弱音や泣き言しか生み出さないなら、バランスをとるために憎しみの教えも説かなければならない。