教養としての上級語彙(2024年11月4~8日)

2024.11.08教養講座

*** 今週の教養 (教養の語彙①)

今週は「教養としての上級語彙」(宮崎哲弥著、新潮選書、2022年)を取り上げる。文章を書く時、語彙は大変重要である。主に学校で習った言葉を使うが、それ以外でも日本語には豊かな語彙がある。味わってみたい。第2章「世間の交らい―友愛・感化・恥・男と女」から、あまり聞き慣れない教養としての語彙を紹介する。

◎「地を易うれば皆然り」(ちをかうれば、みなしかり)=人はそれぞれ地位、境遇を異にするから、行いや考えも異なるのであるが、その立場を取り替えてみれば、皆各々の立場にふさわしい言行となる。

◎「刎頸の交わり」(ふんけいのまじわり)=この人のためならば、たとえ首をはねられてもいいと思える交友。生死をともにできるほどの深交。刎頸の友(ふんけいのとも)。刎頸の仲。「刎頸」は、首をはねること。斬首である。

◎「死友」(しゆう)=死をともにしようと誓い合うほどの親友。死を約した友。終生、友誼(ゆうぎ)で結ばれた知己。

◎「管鮑の交わり」(かんぽうのまじわり)=春秋時代の斉の臣、管仲(かんちゅう)と鮑叔牙(ほうしゅくが)との終生にわたる交友にちなみ、深い相互理解に基づく、利害を超えた厚い親交。

◎「漠逆の友」(ばくげきのとも)=非常に親密な友。気持ちが相通じ、争うことのない友人。「がくぎゃくのとも」とも読むが、「ばくげき」が正しい。「漠逆」とは「互いの心に逆らうこと漠(な)し」の意味であり、心から打ち解け合える間柄を指す。

◎「肝胆相照らす」(かんたんあいてらす)=互いの心の奥底まで打ち明かすほどに親密なこと。「彼とは学生の頃から肝胆相照らす仲だ」「肝胆相照らすような友人はなかなか出会えぬものだ」などと使う。もともと「肝」は肝臓、「胆」は胆嚢のことだが、「肝胆」で「心の深奥(しんおう)」「腹の底」「心底(しんてい)」を意味するようになった。

◎「深奥」(しんおう)=非常に奥深いさま。奥が深くて計り知れないさま。また奥深いところ。奥底。深遠。蘊奥(うんおう)。「芸の深奥を極める」「人生の深奥に触れる」などと使う。

*** 今週の教養 (教養の語彙②)

◎「胸襟を開く」(きょうきんをひらく)=胸の内をすっかり打ち明ける。心中で思っていることを洗いざらい話す。「あの人とは、一度胸襟を開いて語り明かしたいものだ」

◎「誼」(よしみ)=親しみ。親しい交わり。「誼を結ぶ」「誼を通じる」「長年のよしみ。音読みでは「ぎ」と発音し、熟語を形成する。

◎「友誼」(ゆうぎ)=友のよしみ。友人としての情愛。「友誼に厚い」「友誼を結ぶ」「友誼を深める」

◎「交誼」(こうぎ)=交際のよしみ。親しき交らい。「交誼」は対等なつき合いにおいて使われ、目上の者に対しては用いない。

◎「厚誼」(こうぎ)=目上や取引先、顧客に対して使う。心のこもった近しいつき合い。厚いよしみ。「日頃のご厚誼に厚く御礼申し上げます」「在職中のご厚誼に対し、心より感謝申し上げます」

◎「旧情」(きゅうじょう)=古くからのよしみ。古くから抱いている気持ち。昔のよしみ。

◎「忘ずる」(ぼうずる)=忘れる。忘却する。「旧情忘じがたし」「故郷忘じがたし」「鴻恩(こうおん=大きな恩)を忘ずることはできない」

◎「旧情を温める」=久しぶりに会い、以前のような友情を復活させる。

◎「旧交を温める」(きゅうこうをあたためる)=昔からの交際を再び始める。旧情や旧交を温めるという場合の「温める」は、「温かな好ましい状態にもっていく」の意味である。逆に本来、「無沙汰(ぶさた)を詫びる」という意味の慣用句が、旧交を温めることに転じた例もある。

*** 今週の教養 (教養の語彙③)

◎「久闊」(きゅうかつ)=長いこと便りをしないこと。長い間、会わないこと。交際が疎遠になっていること。無沙汰。無音(ぶいん)。「久闊の情を述べ合う」「久闊を詫びる」「久闊の挨拶を交わす」

◎「無音」(ぶいん)=長い間、便りや訪問をしないこと。音信が途絶えること。無沙汰。「久しくご無音に過ぎております」。この場合、(むおん)とは読まない。

◎「久闊を叙する」(きゅうかつをじょする)=久しぶりの挨拶をする。久々に旧交を温める。「馬から下りて叢(くさむら)に近づき、懐かしげに久闊を叙した」(中島敦『山月記』)。「闊」(かつ)という文字は、「ひろい」と訓読みし、まさに「広い」という意味だ。時間や空間などが広く空いている状態を示す。

◎「寛闊」(かんかつ)=性格や気持ち、気分がおおらかで、ゆったりしていること。寛大なこと、度量の広いこと。「管轄な心」。「そうした初夏の花木たちは、私の心を寛闊にした」(山本譲司『獄窓記』)。「大名華族の娘の天真爛漫な寛闊ぶりをむしろ好ましく思った」(奥泉光『雪の階』)。「自由闊達」の「闊達」も度量が広いという意味。「久闊」の場合は、時間の幅を示し、交流のない時間が空いてしまったことを指す。「叙する」とは、ここでは「感情を述べ表す」ことである。

◎「間遠」(まどお)=時間や距離が大きく隔たっていること。時間的、空間的に感覚が離れているさま。「行き来もいつしか間遠になった」「遠くで稲妻が間遠に光る」

*** 今週の教養 (教養の語彙④)

◎「邂逅」(かいこう)=思いがけなく出会うこと。めぐり逢うこと。「四半世紀ぶりに彼と邂逅した」

◎「奇遇」(きぐう)=思いがけず出会うこと。意外なめぐり合い。予想外の出会い。「こんなところで会うとは奇遇だねえ」「劇場で妹夫婦と奇遇した」。「奇遇」は思いがけない場所で知り合いに会った場合によく使われる。この言葉の核心はあくまで「人と出会う」ことであり、この「出会い」の要素を欠いては誤用となる。近年この奇遇が「偶然」と同じように用いられている例を散見する。例えば「奇遇にも誕生日が同じだった」という用法は誤りだ。おそらくこれは「奇しくも」と「偶然にも」が合わさった表現であるかのように勘違いされた結果であろう。

◎「奇しくも」(くしくも)=偶然にも。不思議にも。あやしくも。人知を超えた。「奇しくも誕生日が同じだった」「奇しくも美しい幻想」

◎「奇しき」(くしき)=不思議な。人知を超えた。「奇しき縁」「思えば、奇しき出会いでした」「奇しき邂逅であった」

◎偶さか(たまさか)=思いがけないさま。たまたま。「たまさかの好機」「たまさかの来客」「たまさかめぐりあった縁」「たまさか前妻と出くわした」

◎ゆくりなく=思いがけなく。期せずして。不意に。図らずも。「ゆくりなくも再会した」「青空を仰いでいると、ゆくりなくもプラネタリウムを思い出した」「政界の実態をゆくりなくも示していた」

◎厳存(げんそん)=確実に、動かし難く存在すること。厳として存在すること。「なお旧弊な偏見が厳存する」「根底に民主政治の基本的な信頼が厳存している」。同音異義の「現存(げんそん)=現にあること」と区別する。

◎「旧弊」=時代遅れの慣習や思想にとらわれ、それらを頑なに守って改めようとしないこと。または古くからの因襲の弊害。

*** 今週の教養 (教養の語彙⑤)

◎「いとけない」=年が小さい。あどけない。「いとけない子どもが残された」

◎「端無くも」(はしなくも)=何のきっかけもなく。思いがけず。はからずも。期せずして。「端無くも無知をさらけ出す」「端無くも、本作は好評をもって迎えられた」

◎「際会」(さいかい)=事件や機会などにたまたま出会うこと。「2.26事件に際会した」

◎「逢着」(ほうちゃく)=出くわすこと。「難題に縫着する」

◎「謦咳」(けいがい)=せき。せきばらい。しわぶき。笑ったり話したりの意味も含む。

◎「謦咳に接する」=目上の人物に直接お目にかかる。敬している人にお話をうかがう。会うことの尊敬語。原意は「尊敬する人の咳払いなど身近に聞く」。これが転じて、会うこと、面談することの尊敬表現となった。近年は「謦咳に触れる」という表現も流通しているようだ。この「触れる」は知覚するという意味だから、誤用とは言えない。

◎親炙(しんしゃ)=親しくその人に接して、感化を受けること。「親炙に浴する」。「出来るならば先生に親炙して教えを請いたいと思っていた」(阿部次郎『三太郎の日記』)。寺田寅彦の随筆に、レコードプレーヤーについて「この文明の利器に親炙する好機会をみすみす取り逃がしてきた」という一節がみえる。(『蓄音機』)。相手が機械でもいいのかもしれないが、一般的用法としては、人が対象としておいたほうが無難だろう。

◎感化(かんか)=人の考え方や行動に影響を与えて、それらを変えさせること。「兄の感化を受ける」「先輩に感化される」「学生を大いに感化した」。感化するのは人に限られている。

◎私淑(ししゅく)=直接、教えを受けて受けたわけではないが、心中でその人を尊敬し、彼の言行を模範として学ぶこと。よく同年輩ぐらいの「畏友に私淑した」や「指導教官に私淑してきた」といった誤用が認められる。この言葉は「私(ひそ)かに淑(よ)しとする」が原意であり、ひそかであることが前提になっている。

      著者の宮崎哲弥さん